いつもより気合を入れて出かける準備をしている、と思う。

なかなか着ることのない柄物のシャツに長いロングスカート、数えるほどしか使っていないワックスとヘアアイロンでセットした髪。いつもより濃くアイラインを引いて、元からあまりよくない顔色をチークで無理やり良くした。化粧をするとだいぶ人は変わるものだ、と鏡に映る知らない顔を見て思った。
今日は特に誰に会うわけでもない。それなのに私は着飾っている。おそらく、親友の前でもこんなに気合を入れたことはなかったと思う。そもそも私の親友は化粧がそんなに好きではないらしく、化粧したまま会いに行った時は「お前らしくねえ」とばっさり言われてしまったものだ。

私は少し前から「誰かに呼ばれている気がして」行ったことのない場所をただふらふらと歩く癖がついた。全く分からないが、誰かがどこかに私を呼んでいるのだ。それが海なのか、街なのか、それかこの足では簡単に行けない場所なのか、それすらも全く見当がつかない。
今日も適当な電車を選んで人の流れに沿うように車内に入る。周りの人のようにおしゃべりをしたり本を読んだりするわけでなく、向かい側の窓に映る景色をただまっすぐと眺めている。何十分と電車に揺られ、聞いたこともない駅で「ここが私の最寄り駅なんです」といった顔をして降りた。
長い階段を過ぎたところで外の光が駅の中まで入っているのが見えた。冬にしてはやけに暖かい日差しに少し目を細める。降りた駅の近くには海があるようで、かすかに塩っぽい風のにおいがした。

とりあえず、海のほうへ行こうかな。地図も見ずに適当に歩く。あの先は建物が見えないから、向こうにきっと海があるのだろう。
ふとビルの窓に映る自分を見る。私の耳たぶに下げられたエメラルドグリーンのピアスがきらめきながらこっちを見ていた。

私はある日から緑が好きになっていた。これは彼が好きだった色だ。街を歩いていると緑のきらきらしたものをつい目で追いかけてしまう。こないだ買った透き通った緑のグラスも、もちろんこのピアスも、彼の色だと私は思う。
だが、そういう緑をお金で買ったところでいつの間にか私の真ん中に開いた大きな暗い穴が埋まることはないのだ。


ある暑い夜、私の初恋は死んでしまった。らしい。
らしい、というのも、私は彼が死んだ瞬間を見ていない。気がついたらいなくなっていて、気がついたら小さな棺に収まって帰ってきた。初めて見た時はひどく驚いたものだ。不思議と、その時は涙が出なかった。その代わりに自分の中心からじわじわと少しずつ崩れていってしまって、今はもうほとんど中身がからっぽになってしまったようだった。

いくら死んだ者を想っても帰ってくるわけではないのに、こうやって自分の知らない場所を歩いているとばったりと会ってしまいそうな気がして仕方がない。 やあ、今日は一人で散歩かい?なんて彼だったら言うんだろうか。

海へ、海へと慣れないヒールを履いた足を一歩一歩前に動かす。東京の海はお世辞にも綺麗とは言えないが、今はもう景色の美しさだとかはとくに気にしていなかった。誰かが呼んでる気がするから。誰かが、私を。



「お前、こんなとこで何してんだ」

かなり深いところまでいっていた私の意識を取り戻したのはよく知った声だった。
声の主、私のクラスメイトでもあり親友の空条承太郎はいつもの学ランではなくラフな格好で私の前に立っていた。

「承太郎こそどうしてここに」
「おふくろの友人がこのあたりの病院で入院してる。その付き添いで来た」
「へえ、そういうの行くんだ」
「俺が小さい頃にだいぶ世話になったらしい」
「・・・ホリィさんは?一緒じゃないの?」
「話が長くなりそうだから出てきた」
「承太郎らしいね」

最初は二人でお見舞いに行ったらしいが、ホリィさんとそのご友人は久しぶりの再会とのこともあって思い出話に花を咲かせて・・・それについていけなくなった承太郎は途中で出てきてしまったらしい。ついていけなくなった、と言ったが邪魔をするのも悪いと思った彼なりの優しさだろう。相変わらず不器用だなあ、と私は少し笑みがこぼれてしまった。
私が笑っている間も承太郎は私のほうから目を離さなかった。いつもならすぐ遠くを見てしまうっていうのに。驚くほど着飾ってるな、と言った彼に私はなんでもないような顔をした。

「休みの日、いつもこんな感じだよ」
「俺と会う時そんなんじゃねえだろ」
「だって承太郎、私が化粧すると嫌な顔するんだもん」

ほら、今もそんな顔してるよ、とくすくすと私は笑った。承太郎はあまり気分がよくないらしく、少し眉間に皺を作った。いつもならやれやれ、と帽子のつばを引いて顔を俯かせるんだろうけれど、今日は帽子がない。

「ああ、私ね、最近知らない場所を歩くのが趣味になっちゃって」
「・・・・・・」
「誰か呼んでる気がするの。誰かも、どこかも分かんないんだけど。もし会えたらって考えたらワクワクしちゃって、」

こんな趣味を人に話すなんてどうかしてるかな、でも承太郎だからいっかあ、と思っていると先ほどまで黙っていた承太郎が私の腕を強く握った。どうしたの?そう私が声を出すと、承太郎は苦しそうな顔をした。

「行くなよ」
「どうして」
「どうしてもだ」
「承太郎、」
「分かってる。分かってるけど、お前は行くな」

聞いたことない声だった。無理に絞り出したような。承太郎ってこんな弱々しい声が出せたかな、そう思うくらいに。承太郎があんまりに苦しそうだから、私も少し苦しそうな顔をした。大丈夫だって、どこにも行かないって・・・、そう言いかけると、承太郎は私の耳たぶに下がるエメラルドグリーンに軽く触れた。

「見たことねえやつだ」
「最近買ったの」
「いつものがいい」

承太郎はそう言うと握っていた私の腕を離した。俺はもう行く、そう言うと彼はくるりと振り返って歩き出してしまった。彼は今日は言動がコロコロ変わってて不安定だなあ、と思いながらも背中に声をかける。

「承太郎、一緒に行っていい?」
「・・・今日は俺の家寄ってけ。おふくろも喜ぶ」
「ああ、うん・・・そうする」
「・・・・・」
「・・・もうこの趣味やめるよ。一人で知らないとこ行くのって危ないかもだし」
「・・・・・・・ああ」

半分本心で半分嘘だ。本当は声の主に会いにいきたい。そんなの存在しないかもしれないが、もしかしたら、私の求めていた懐かしいひとがそこにいる気がして。
でも私はずいぶん前から承太郎が私に向けている感情の名前を知っていたから、あえてそう言った。彼もこれ以上失いたくないのだろう。聞いたことはないけれど、何も言わないけれど、言ってくれないからこそ感じ取ってしまう時だってある。
横目でちらりと彼を見ると、綺麗な緑がまっすぐ前を向いていた。私が好きだった緑とは少しだけ違う色だった。

ずいぶんと長く昔話を楽しんだホリィさんと合流して(いつもと雰囲気が違うわね!素敵よ!と言われた時も承太郎は眉間に皺を寄せていた。)承太郎の家に着いた頃、ふと耳を触ってみるとそこはじくじくと痛んでしまっていた。いつもピアスを通している耳なのに、どうしてか傷ができてしまったようだ。ピアスを取り外してみると、少しだけだが血がついてしまっている。

まるで彼に拒絶されたみたいだ。少し感傷ぶってピアスに目を向けると、今朝見た時よりかはもっとずっと青く見えた。あれ、こんな色だったっけ。買った時はかなり、いや、彼の好きだった緑と同じくらい・・・そうぼんやりと思い出そうとしたところで承太郎が「早く入れ」と急かした。

うん、と短く返事すると私はすっかり変わってしまった色をポケットに閉じ込めた。

いつか雑踏に消える