私の初めての恋も、なんどもなんどもマンガや携帯小説でおさらいしたはずのキスも、なんともなく甘くもなく、私の濁った青春の1ページとなってしまった。

何度も蘇るのは、ずっと追いつづけたはずのあの人の背中に、寄り添うように綺麗な女の人が、いた帰り道。私は必死に彼のワイシャツを掴んで皺を刻んだはずなのに、彼女はいとも簡単に、そして優しげに当たり前のようにあの人の背中に寄り添っていた。

失恋、した。


言葉に出してしまえば、なんとも笑い飛ばせる話だ。薄ら笑いに引き攣る頬に、熱い涙が流れているのも気にせず、私はその日、人生初の失恋と、嗚咽を噛み締めて泣いた。



「まだ残ってたのかよ、うっわどうしたその顔ぶっさい…く、」


教室へ西日が射して、当たる頬がヒリヒリ傷みだしたころ、ミントグリーンのエナメルバッグを下げた彼、花巻くんが廊下側の窓から身を乗り出して私に声をかけた。いつものように毒々しいからかいの口調だった彼が、途端に私の異変に気が付き、目を見開いたのがわかった。ミシリ、掴んだ窓枠の軋む音が聞こえてくる。


教室に入ってきた様子に私が肩を強ばらせると、そっと彼は私が座る席の前の席から椅子を拝借して座った。

「どうした、なに、腹痛?お、わかった、及川にまたなんか借りパクされたろ、」


岩泉に通報しろ、通報。いつも通りの彼の口調に、いつもの私なら堪えきれないほどの爆笑が零れるはずが、生憎そんな精神状態ではなく。私の口からは僅かな吐息と嗚咽だけが漏れた。

今度こそ、取り返したような真剣な顔つきで、どうしたんだ、と花巻くんに聞かれた時に、私はもう限界で。飲み込んで噛み締めたはずの言葉が、そろそろと溢れ出してきた。



「花巻くんは、恋、したことありますか、」
「こい?…あー、うん。あるよ」

というか、現在進行系。そう言ってのける彼に何故か心の中できゅっと何かが締め付けられたような気がしたけれど、まるで地獄の釜穴から溢れ出る後悔がどぼどぼと溢れ出して、私はそんなことに気が付かなかった。


「私のほうが、ずっとまえから、好きだったのにっ、」


自分でも、驚くほど禍々しい本音だった。涙で滲んでいたはずの、教室の景色から、花巻くんの姿まで、歪んできた。

怖い、もう嫌だ、好きにならなければ良かったのに、私のほうがいい子にしてたのに、ずっと想ってたのに。会えないのが嫌だ、ずっと一緒にいたい、ずるい。

黙って私を見つめて聴いてくれている、花巻くん。次第に机の上に固く握りしめていた手のひらを、慰めるように撫でて、少し厚い男の子の手が重ねられて、もう止まらない。


そんな汚い感情や言葉なら、なぜか彼にだけは吐き出しても大丈夫だと思ったのだろうか。ただのクラスメイトで、存外モテてるバレー部レギュラーな花巻くん。その時はそんな印象しか胸に抱いていなかった。



「もう、絶対恋なんてしないから、」



そう、宣言するかのように私は呟いた。自分に言い聞かせるように。そんな言葉で、今日の失恋から黒く染まりきった恋心を、封じ込めて鍵をかけてしまえるはずだった。

そのとき、彼の動かなかったはずの肩が揺れ、そっと重ねられていた腕を引かれた。
感じたのは、重力と、貴方の熱。
机越しに身を乗り出して、まるで壊れ物を扱うように抱き締められ、ひゅ、と息を飲み込んでむせそうだった。


「はっ、花巻く、」
「うん、」
「ひ、」

名前を呼べば、ぎゅうと力強く胸板に引き寄せられて、息を呑んだ。聞こえたのは、閉じ込められた私の息遣いと彼の呼吸が混ざる音。激しく鳴る彼の胸の音。どきどきと、私になにか訴えかけているようで、解読できないかわりに、共鳴するように私の心臓もドキドキ鳴り始めた。


「魔法、」
「え…」
「かけて
あげようか、」


え、待って、と呟いた私は、彼が何をするかなんて心の中ではわかっていたのかもしれない。
優しく頭をつかまれ、押し付けられた柔らかい唇の熱が、ゆったり浸透していくのを感じる暇もなく、ちゅ、と鳴ったリップ音に目を見開いた私は、それでも塞き止めることが出来なかった。

大人しく受け入れた私から、軽く身体を話した花巻くんが、そっと優しい顔をして。








「どう、効いた?俺の魔法のキス」



なんだ。



あぁ、私は馬鹿みたいだ。
こんなの、落ちた恋じゃない。

ただ、貴女の口づけの魔法にかかってしまっただけだった。






*




なんて憂鬱なのだろう。
そんな次の日から午後の授業は全カット。10月にしては暑く眩しい日差しの下で行う体育祭の総練習なんて、憂鬱だ。



「__で、リレー15走目は向こうからで、……って聞いてる?」


顔色、悪いんじゃない?
体育祭で、普段主将などの人柄からか体育祭メンバーを取り仕切る及川くんに問われて、正直力なく首を振ることしかできなかった。



「熱中症かな、リレー休む?なんなら俺出るけど、」
「ううん、……うん、やっぱダメかも」

たった1度の失恋と、想定外のファーストキス消失、私情で迷惑をかけて申し訳がないが、こんな状態で走るなんてもってのほか。1度は断りかけた口を塞いで、ここは及川くんの好意に甘えておこう、と何度も頭を下げて、お願いして。ふらふらする身体を奮って保健室に向かった。

ちょうど、3年生男女混合リレーが始まり、会場が沸く。そっと人との間に視線を進め、グラウンドを眺めれば、私は偏頭痛にも似たあの痛みを途端に抱えた。

あぁ、もう嫌だ、
この愚かな瞳は、あの人のことを追っている。
彼がリレーで走る姿に見惚れた自分が情けない。失恋したばかりなのに、未だ恋焦がれた背中が、すごいスピードで走り抜けるのを見て、じんわりじんわり、心臓が痛くなる、このままでは座り込んでしまいそうで、私は逃げるように校舎裏に逃げ込んだ。








清潔なにおいの花束
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