悲愴1
 憧れの人がいた。
 傷みを知らない金糸の髪、シャープな線を描く眉、澄んだ天色の瞳、すっとした鼻梁、形の良い薄い唇、甘いのに凛々しさを感じさせるその表情、引き締まった頑強な肉体、正義を貫く崇高な精神。
 何をとっても完璧で、人を魅了してやまない彼がくしゃりとした笑みを向けてくれるのが嬉しかった。
 彼は選ばれし人類αで、わたしはそんな彼に憧れるβ。
 ただそれだけだったはずなのに歯車はどこかで狂い始め、運命の番との出逢いに酔いしれる美麗な男女をただ茫然と見つめることしか出来なかった。



「あっ!降谷さん!」
「苗字か、久しぶりだな」
「はい!お久しぶりです!お疲れ様です!」
「苗字、走るな」
「ごめんなさ〜い」
 登庁するなり降谷に一目散に走りよる姿を風見は咎めるが、軽く返事をするだけで改めないのはいつものことだ。
 公安の末娘は入庁後おじさん連中に、偶にしかお目にかかれない優秀なのがいる、と聞かされレアキャラに会えるのを楽しみにしていた。そして入庁から二ヶ月目にして漸くレアキャラに遭遇出来たのだが、思わず叫んでしまうような美丈夫で、しかもそれを鼻に掛けず、入りたてで大変だろうが頑張れよ、と声を掛けられすっかり懐いてしまった。降谷が登庁する度に見掛けるその光景は、まるで年の離れた兄の帰省を喜ぶ妹のようでおじさん連中は暖かく見守ったし、風見も降谷の気が紛れているのを知っていて煩く注意出来ずにいた。
「ほら、お土産」
「やった〜!ありがとうございます!」
 箱菓子を渡され名前は屈託ない笑顔を浮かべる。それに降谷の荒んだ心はいつも浄化されるのだ。
「降谷さん、あまり餌付けはしないでください...」
「俺から楽しみを奪うなよ」
「そうは言っても、こいつ最後の1個は必ず腐らせるんですよ。勿体無くて食べられないとか言って」
「やめて風見さん!言わな...っわあっ!?」
「なっ!?」
 風見の口を塞ごうとした名前が足元のコードに引っ掛かり、そのまま風見を巻き込んで床に倒れた。
「いたた...っ、風見さんごめんなさい!」
「いいから早くどけ...」
 いくら部下と言えど、成人男性が女に伸し掛かられて慌てないわけがない。顔を逸らしながら言う風見に首を傾げるが名前は大人しく身を起こそうとして、風見の袖が濡れていることに気付いた。どうやら冷えたコーヒーまで落としてしまっていたらしい。
「あっ!風見さん脱いで!」
「はっ!?」
「早く!」
 脚に跨ったままスーツを脱がせようと胸に触られ、風見は身体が熱くなりいよいよやばいと焦り始める。
「シャツまで染みちゃってる...。風見さん早く!ほら給湯室!」
 名前は風見のロッカーからハンガーに掛けられたシャツを取り出すと風見の腕を引き部署を出て行く。遠退いた慌ただしさに皆仕事を再開するが、降谷はそうはいかなかった。倒れた椅子と零れたコーヒーを片付けると二人を追うように給湯室へ向かい、聞こえてくる話し声に脚を止めた。
「このシャツ綺麗にアイロン掛かってますね〜。彼女さんがしてくれるんですか?」
「自分でしてる」
「えっ、マメですねえ。わたしなんか皺が付きにくいシャツわざわざ買っちゃってますよ」
「女子力を磨け」
「こうしてシャツ洗って差し上げてるじゃないですか〜」
「お前のせいでこうなったんだから当然だ」
「いやあ、返す言葉もありません」
 子気味いいやり取りに降谷は心の中で黒い靄が広がるのを感じた。恋人でもないし、あまり会うことも出来ないのに一丁前に嫉妬するなんて、と自嘲する。伝えてしまおうかと考えたこともあるが、いつ死ぬか分からない状態で簡単に口に出来るほど向こう見ずにはなれなかった。
「お前も飲むか?」
「コーヒー嫌いなの知ってるじゃないですか」
「ちゃんとココアをいれてやるつもりだったよ」
「えっ」
「もういれてやらん」
「いれてくださいよ!」
  仲の良さを感じ降谷は苛立つ。名前は確かに懐いてくれているが、どこか一歩引いて接せられているように感じていたからだ。しかし風見にはそれがない。悔しくて、羨ましくて、傍にいるのに遠い心の距離がもどかしい。
「風見、連れていくぞ」
「わっ」
 風見の肩を揺さぶっていた細腕を掴み廊下を進む。
 もう限界だった。傍にいない間に名前は風見や他の男たちに笑い掛け、知らないうちに誰かのものになってしまうかもしれない。
 そう考え膨れ上がった黒い靄は、零を衝き動かした。
どうせ簡単に死んでやるつもりは毛頭ない。それならば意地でも生きてやる。死んだとしても、名前のところに帰るため三途の川を逆走してやる。どうやってでも離れなければ、好きだと伝えても問題は無い。
 降谷は近くの使われていない会議室へと入り鍵を閉めた。
「降谷さん...?」
 見下ろした名前の大きな瞳が不安げに揺れる。降谷は掴んでいた腕を滑らせ、小さな手を両手で握った。
「苗字、好きだ」
  瞬きを忘れた瞳が見開かれ、理解し難い言葉に名前は警鐘を聞く。
「好きなんだ」
  もう一度告げられ警鐘はより音量を上げる。近付いてくる顔から逃げろと。しかしその意味も無く唇は重なった。警鐘が鳴り止み、温もりが離れ、真近で綺麗な天色と視線が絡む。
「名前...」
  ふいに下の名前を呼ばれ、腰を引き寄せられた。漸く名前は動けるようになり、その腕から逃れる。ばくばくと煩い心臓を手で押さえつけ、降谷の足元を見つめたまま固まった。
「名前」
「...やめてください。あなたはただの上司で、わたしはただの部下です」
  近付いてくる降谷から逃れようと後退るがすぐ机に阻まれる。名前は目の前の胸を力一杯押すがびくともしない。
「お前とそれ以上の関係になりたい」
「何言ってるんですか。無理ですよ、そんなの」
「何故無理なんだ。俺はお前が好きだ。お前は俺が嫌いか?」
  顔を覗き込んで、必死に気持ちを伝えてくる降谷に名前は辟易する。
「降谷さんのことは勿論好きです。上司として凄く尊敬していて憧れています。でもそれだけなんです。男の人として好きとか、そういうのじゃない」
「それなら好きにさせてみせる」
「なりませんよ!」
 名前が声を荒らげ、添えていた手で降谷の胸を叩いた。睨むように見上げられ降谷は一瞬怯む。
「貴方はαじゃないですか!わたしはβですよ!」
「それが何だって言うんだ。好きな女と一緒にいたいと思う事はいけないことなのか?」
「そうじゃなくて...。だって、わたし降谷さんの運命じゃありません」
「俺は感じた。確かに感じたんだ」
「わたしはβですよ、何を感じるって言うんですか。そんな取ってつけたような言葉やめてください。わたし傷付きたくないんです。憧れてる人に好きって言われて、靡かないわけないじゃないですか。でもわたしはβです。αの貴方にはいつか運命の番が現れる。そうなった時、わたしは捨てられて、でも貴方を簡単に忘れることなんて出来ない。自分を惨めで可哀想だなんて思いたくないんです。だから、もうやめてください」
「名前...」
「降谷さん、苗字です」
 力の無くなった腕から抜け出して名前は会議室から出る。ドアの前で佇んでいた風見が気まずそうに視線を逸らすと、名前はその横を通り過ぎた。カツカツと響くヒールの音が物悲しく聞こえて風見は胸が痛む。
 降谷が登庁しない間、名前の相手をするのは大抵風見だ。二人は尊敬する降谷のことをよく話したし、だからこそ名前が降谷への気持ちをどうにか憧れで留めようとしているのにも気付いていた。二人の気持ちを知っていた風見は想いを告げればいいと助言するが、名前は悲痛な面持ちで言うのだ。
「わたしはβですよ。αのあの人には運命がある」
 運命。名前はよくそう口にした。何故自分は同じく優秀で世間的に婚姻を許されるαではないのか、何故番となれるΩではないのか。同じβとして名前の気持ちはよく分かった。でも相手が自分を選んでくれるなら関係ないと、目先の幸せだけを信じていた風見は恥じる。運命の番であるΩが現れた時のことを考えもしなかったのだ。
「風見...、聞いていたのか」
出てきた降谷が苦く笑い、風見は頭を下げる。
「...申し訳ありません」
「いや、いい。それより率直に聞かせてくれ。お前が名前なら、今追い掛けられるのは嫌か?」
「俺に聞かなくても、苗字の望む行動が降谷さんなら分かるはずですよ。甘いココアを二ついれて待っていますから」
 降谷は名前が消えた方へと走って行く。靴音を立てず素早く走るのはもう癖になっていて、さすがとしか言いようがない。風見はいつもよりもスプーン一杯多くココアを入れてやろうと決め、給湯室へ向かった。
 名前は喫煙室横の自販機の影に隠れていた。降谷がここにはあまり来ないと知っていたからだ。
「煙草の臭いはあいつを思い出してイライラする」
 そう零されてから日はあまり経っていない。だからきっと見つからないと思っていたのに、名前はあっさり見つかってしまった。抱えた膝に顔を押し付けていると肩を叩かれ、音もなく人が近付いていたことに驚き勢いよく顔を上げる。やはりこんな芸当出来る人は限られていた。
「何で、」
  ついてきたんですか。言葉は引き攣った喉から離れない。降谷は名前の前にしゃがみこむと淡く笑んだ。
「一番大事な事をまだ伝えていない」
「何を言われても、わたしの気持ちは変わりません」
「いつか変わるかもしれない。そう信じて俺は待ちたい」
「...何でそこまでわたしにこだわるんですか。わたしβですよ」
 潤む名前の瞳を優しく見つめ返し、降谷は柔らかな髪を撫でる。
「αかβかなんて関係ない。名前が名前だから俺は好きなんだ。名前の言う運命が例え違う相手でも、俺はそんなの知らない。自分が決めた運命と共に在りたい。お前がいいんだ」
  名前の頬を滑り落ちた涙を降谷の指が掬った。名前は降谷の手に己のものを重ね問う。
「もし、もし運命に巡り逢った時、降谷さんはどうしますか」
 降谷に緊張が走る。返答を間違えれば名前が手に入ることは一生無い。慎重に言葉を選ぼうとして、やっぱりありのままを伝えた。
「それでもきっと、俺はお前を離してやれないよ。心がお前を求めるんだ。お前を俺の運命にしてやる」
  名前は鼻をすすると降谷の首に腕を回す。柔らかく受け止め降谷も細い身体を抱き締めた。
「降谷さん。もし捨てるなら早めにしてくださいね」
「馬鹿。そんなこと二度と言うなよ。俺は絶対にお前から離れられないんだから」
 降谷は柔らかな頬に擦り寄るとぷっくりとした真っ赤な唇を食む。名前はそれを受け入れるが、心中は穏やかではない。この触れ合う瞬間にさえ運命が現れるのではないかと不安を感じていた。


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