最愛5
 高橋兄弟と苗字名前が出会ったのはもう十年以上前のことだ。当時涼介は小学校6年生、啓介は4年生、名前は1年生だった。
 ある日の夕暮れ時、友達と遊んだ帰り道で歩くのと一緒にサッカーボールを転がしていた啓介は少し力加減を間違えた。
「あっ!」
 声を上げた時には前を歩いていた小さな身体は傾いていた。啓介の脚を離れたボールはころころと転がり、こちらに背を向けて歩く少女の歩行を妨げた。大きな音と共に舗装された硬い地面に叩き付けられ少女は大声で泣き出す。すぐに駆け寄って身体を起こしてやり、痛い痛いと愚図る姿に焦りを覚えた。掌の土を払ってやって、膝を擦りむいていないか確認して、それから。
「っ!」
 啓介は初めて見るその脚の状態に頭が真っ白になる。下級生に大きな怪我をさせてしまったことだけは理解して、皮膚が青黒く変色し腫れ上がっている足首をただ見つめる。放心状態に近い啓介を現実に引き戻したのは涼介の声だった。振り返った先には塾の帰り道らしい兄の姿があり、啓介は安堵で泣きそうになるのをどうにか堪える。
「どうした?」
「たぶん骨折してる」
 兄の落ち着いた口調で啓介も少し冷静になり、抱えた少女に視線を移しながら告げた。
「とりあえず病院に運ぼう。うちに整形外科があって良かったよ」
 涼介は自分の荷物を啓介に押し付けると、少女を背負い両親が医師を務める病院へ向かって歩き出した。痛覚が麻痺してきたのか大人しくなってきた少女に静かに尋ねる。
「今から病院に行くからもう少し痛みは我慢してくれ。名前は?」
「...苗字名前」
「俺は高橋涼介。名前、家には誰かいる?」
「お母さんがいる」
「電話番号は分かる?」
「分かる」
「よし、名前は偉いぞ。すぐにお母さんを呼んで来てもらおうな」
 高橋家から程近い高橋病院に着き、受付の女性へと声を掛ける。院長の子供と知っている彼女は、すぐに空いていた整形外科医の父の診察室へ二人の子供と患者を案内した。診察室のドアを乱暴に開くと啓介は椅子に座りパソコンを眺めていた父に掴みかかる。
「お父さん!俺が怪我させた!だから早く治して!」
 頼れる父の背中を見て遂に啓介は泣き出した。父は驚きつつも啓介の頭を撫で宥めると、涼介がベッドに下ろしていた名前の腫れ上がった脚を見て眉を顰めた。
「だいぶ腫れてるな...手術になるかもしれん」
「「えっ!!?」」
 重なった涙声はやがで絶叫へと変わった。
「二人とも落ち着け。とりあえず親御さんに連絡をして...」
「名前は苗字名前。名前、ほら家の電話番号は?お母さん呼ぼう」
「うん...」
 涼介の問い掛けに名前はしゃくりあげながら電話番号を伝えた。零れ落ちる涙を涼介がティッシュで拭いてやる。電話番号をメモした父が受付に連絡を取るよう渡した後、入れ替わり入室した看護師が持ってきた車椅子に座り名前はレントゲンを撮りに診察室を出て行く。ぐずぐずと啜り泣く啓介は珍しく可哀想だが、あまり構ってやれない手前父は内心嬉しく思っていた。
「それで、いったい何があったんだ?」
「俺が、俺が悪くて...!ボール蹴りながら歩いてたから!そしたら名前の脚にボールが当たってそれで転んじゃって...!」
 説明しながら更に泣き喚く啓介に父はお手上げ状態だ。とりあえず職員の休憩室でお菓子でも食べさせようと二人の息子の手を取り院内を歩く。
「あら、先生のお子さん?兄弟喧嘩かしら」
 くすくすと笑う入院患者に見送られながら辿り着いた休憩室で、冷蔵庫から貰い物の紙パックのジュースと常備されているチョコレートを机の上に置いた。
「涼介、すまないけど啓介を頼むよ。お父さんは名前ちゃんの検査を見てくるから」
「うん」
 最後に二人の頭を撫でると父は出て行く。足音が遠退いていくのを啓介は寂しく思った。
「お兄ちゃん、来てくれてありがとう」
「うん。大丈夫、父さんがどうにかしてくれる」
 涼介の言葉に啓介は救われた。この時から既に涼介は抜きん出たカリスマ性を持っていたのだ。
 その後、間も無く駆け付けた母親の姿に安心から名前は大泣きした。それを聞き付けた涼介と啓介がドアを少しだけ開けて診察室を覗き見る。父の口から静かに告げられる言葉を全員が固唾を呑んで聞いていた。腫れは酷いがひびのため手術は必要ないこと、痛みが数日は強く現れること、暫くはギブスを嵌め松葉杖での生活になること、リハビリも必要となること。大きな怪我ではなかったことにほっとした名前の母親は、身体に抱き着いている娘の頭を優しく撫でる。父は徐に立ち上がると深く頭を下げた。
「申し訳ありません。娘さんが怪我をしたのはわたしの息子の不注意でした。道路を歩きながらボールを蹴っていて、それに娘さんが脚を取られたようです。わたしの教育不足でした。本当に申し訳ありません」
「せ、先生やめてください!」
「ごめんなさい!!!」
  啓介は自分のせいで頭を下げている父の姿を見ていられず名前の母親の前に飛び出て頭を下げた。
「俺のせいです!ごめんなさい!ごめんなさい!」
 ぽたぽたと啓介の涙が床に落ち嗚咽が響く。収拾が付かなくなった状況に口を開いたのは名前だった。
「お兄ちゃんは悪くないよ。だって転んだのは名前だし、病院まで連れて来てくれて、お母さんを呼んでくれたのもお兄ちゃんたちと先生だもん」
「......そうだね。みんなにありがとうしなきゃね」
「うん!お兄ちゃんたち、先生ありがとう!」
 涙の筋の残る顔で名前はにっこりと笑った。愛らしい表情に父は笑い、啓介は責められないことに安心する。涼介もここまで丸く収まるとは思いもしなかったため肩の力を抜いた。
 その後ギブスを作り、涼介と啓介が付き添う中で名前は松葉杖を使いながら歩行の練習をした。たまによろよろと倒れそうになるのを啓介が横から助け、涼介は心配そうに見守る。その間に保護者の話はまとまったようだった。
 翌日から名前は車での登校となった。しかし下校は共働きの両親はどうしても迎えに来ることが出来ず、それならばと啓介が名乗り出た。啓介の授業が終わるまでの時間を図書室で過ごし、迎えに来た啓介に背負われ高橋家に着き、名前の母が仕事帰り迎えに来るまでお菓子を食べた後、宿題をしたりゲームをしたりしながら待つ。名前の母はそこまでしなくてもいい、と諭したが妹の世話をしたいと啓介は笑った。塾の無い日は涼介も共に下校し名前を背負うのは涼介の日もあった。一気に二人の兄が出来た名前は嬉しくて毎日笑顔が絶えない。不安しかなかった松葉杖での歩行も何とか形になり、ゆっくりと三人で歩いて帰ることもあった。
 名前は何故か啓介は呼び捨てで生意気に話し掛け、一番上の兄は涼介くんと大人しく懐いた。二人の喜ぶ対応を幼いながらに理解しているようで、たまの診察に訪れその様子を見た高橋医師はこの魔性の少女はいずれどちらかの嫁として家族に招き入れることになるだろうと確信していた。
 そのうち二人の従妹の緒美と四人で仲良く遊ぶ姿も見るようになった。写真を撮ろうと思ったのはたまたまカメラのフィルムが一枚残ったままで、現像に出すことが出来ていなかったからだ。椅子を移動させながら話す父に名前は口を尖らせる。
「ギブスしてる写真なんて間抜けで嫌」
「いつかは良い思い出になるよ。結構写真撮っとけば良かったって後から言ってる患者さんもいるくらいだから」
「ほんとに?」
「ほんとほんと!」
 訝しむ名前を無理矢理椅子に座らせるとやり取りを聞いて笑っていた三人がその後ろに立つ。笑顔の三人とむくれる名前の写真はこうして出来上がった。
 やがてギブスがとれ、リハビリも問題無く終わった。残ったのはこれからはどうなってしまうのか、とそれぞれが抱える不安。元々接点は無く名前が怪我をしたために共に過していた時間が終わりを迎えた。今日で病院は終わり、と告げた父は三人の様子にそれを悟った。
「名前ちゃん、明日は何のお菓子が食べたい?」
「え?」
「明日だけじゃない、明後日もその次の日も、食べたいお菓子があったら先生に教えて。準備しとくよ、またうちに遊びに来るだろう?」
「......怪我してないけど、遊びに行ってもいいの?」
「当たり前だろう。名前ちゃんはうちの息子達の大切なお友達だからね」
「うん!」
 笑う名前と啓介がハイタッチをする。そのあとで名前が涼介の手を取れば、涼介は今まで見たこともない優しい瞳で名前に笑い掛けていることに父は気付く。思わずにんまりとしてしまった父は今後の三人の行末が楽しみで仕方なかった。


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