最愛 閑話a5
 高橋涼介先生。彼は僕こと、今村が勤務する高橋総合病院で圧倒的人気を誇る整形外科医だ。優秀なのは当然として、整った顔立ちと穏やかな性格が患者さんや院内スタッフ、出入りする業者さんをも魅了している。非の打ち所が無い彼だが唯一欠点を上げるとすれば、それは妻への過剰な愛だと、彼を知る者なら口を揃えて言うはずだ。だがそれを信じられない君に、今日は彼の実態をお送りしようと思う。

 午後7時50分。飲み会の開始時刻から20分遅れて登場したのは、大人気の涼介くんだ。ちなみに僕も一緒に登場したのだが、挨拶をしてくれたのはナースさん一人で、他は皆突然現れた涼介くんに悲鳴を上げた。
「若先生!?」
「やだっ、何で内科の飲み会に!?」
「お、涼介が飲み会って珍しいなあ。どうした」
「無理やり連れてこられたに決まってるじゃないですか...」
「今村先生ナイス!」
「もっと褒めていいんだよ〜」
 内科部長も他のスタッフも、涼介くんの登場に顔を喜びでいっぱいにしている。緊急手術を終え急いで帰ろうとしていたのを捕まえたのは無駄では無かったようだ。総合病院のため院全体で飲みに行くことはないが、各診療科や各病棟での飲み会はよく開かれている。僕はといえば顔が広いから眼科や皮膚科の飲み会にも参加することがあるが、次期院長であるくせに涼介くんは自科の飲み会にもあまり参加しない。そのくせ人気はあるから仲が良い僕は連れてきてとよくお願いされる。あ、僕が話している間に涼介くんは女性スタッフが多く集まるところへ連れていかれてしまった。
「先生、何飲まれますか?」
「緊急手術だったんですよね。お疲れ様です」
 院内で一番若くて見目にも自信がある、我が内科の受付二人は涼介くんの腕に胸を押し付けている。経験が多いくせに涼介くんの苛立った顔に気付かないとは、やはり涼介くんの魅力は猛者の目も眩ませてしまうようだ。
「烏龍茶で。それ飲んだら帰りますから」
「え〜!せっかくいらしたのにもう帰っちゃうんですか?」
「二次会もあるんですよ!一緒に行きたいです〜!」
「悪いけど早く帰りたいんだ。妻が妊娠しててね」
 ピシッと凍りついた空気がついでに砕け散る。涼介くんが結婚しているのはあの母親のせい...ごほん、院長夫人、産婦人科部長のおかげで周知の事実だが、ご懐妊とは重大ニュースだ。
「えっ!名前ちゃん、妊娠したの!?」
「そりゃめでたい!ほら飲め飲め!」
 僕や部長がおめでとうを言えば、スタッフも続くが受付嬢たちはそうはいかない。結局部長からのビール攻撃を断れないと諦めた涼介くんはそれを胃に流し、内科の飲み会改め、若先生おめでとう会は幕を開けた。
 内科部長は院長と昔から交流があり、涼介くんを本当の息子のように思っていたようで、孫が産まれるのかあ、と涙ぐみ涼介くんのコップにひたすらビールを注ぎ続ける。あっという間に涼介くんは酔っ払い、ほんのりと頬を染めているのが珍しくて笑ってしまった。しかしそれが隙であることに変わりはなく、回復した受付嬢たちはここぞとばかりに身体を寄せ話し掛ける。
「若先生はお休みの日、何をされてるんですか?」
「ドライブが好きって聞きましたよ。やっぱり休みの日くらいは奥さんのことも忘れてドライブしたいんですか?」
 直接的すぎる煽り方にこれは怒るぞ、と思ったものの酔った涼介くんは良い意味でポンコツだった。
「愛する妻のことを忘れたいなんてあるわけ無いが...?休みの日はずっと一緒にいるし、ドライブも必ず連れて行く。先週の土曜日は一緒に食洗機買いに行った」
「へ、へえ...。洗い物はしたくないって奥さんからのお強請りですか?」
「いや、俺が買おうって言ったんだ。皿洗いに割く時間を無くせば、俺に構ってくれる時間が増えるだろ?」
「......若先生って性欲強そうですよね。セックス出来ないから溜まってるんじゃないですか?」
 美人が台無しな程に顔が引き攣ってるけど問題はそこじゃない。思いっきりが良すぎるよ。何その質問。頭大丈夫?普通年上の異性にする?ここ職場の集まりよ?プライベートじゃないよ?僕同様受付嬢の言葉にパニックを起こす者もいれば、熱狂的涼介くん信者のスタッフは妻への愛情の深さに感動し涙ぐんでいる。カオス。そしてその根源の回答はいかに。
「日々膨らんでいくお腹を目の前に、膝枕で耳掻きしてもらってると、宇宙一幸せだなって涙が出そうになるよ」
 高橋総合病院内科外来全スタッフが泣いた。あるものは全く見込みがない絶望に、あるものは果てない夫婦愛の素晴らしさに──

「こんばんは。いつも夫がお世話になっています」
 姿を見せた名前ちゃんに僕以外の全員が絶句した。かっと見開いた瞳を貼り付けた頭の上には、全員揃って超絶美人の四字熟語が並んでいて僕まで誇らしく感じる。
「妊婦さんを居酒屋に呼んじゃってごめんね。調子に乗って飲ませすぎちゃって」
「面目無い」
「少しくらい大丈夫ですから、気にしないでください...!それより皆さんが楽しく飲んでるのに、水を差してしまって申し訳ないです。すぐ回収して帰るので...!」
 部長に頭を下げられ名前ちゃんは慌てて首を振った。そのお腹は想像していたよりずっと大きくて、よく今まで上手くバレずにいたなあ、というかよくあの母親が言いふらさずにいたなあと感心する。それはきっとこの子の父親が、大切な家族を思い必死で説得したからだろうけど。
「もしかして寝てます...?」
「え、あれ...さっきまで起きてたんだけどな...。僕たちで運べるかなあ」
 涼介くんの体格を考えると不安しかない。苦笑すると名前ちゃんは入口に手を振った。
「実は運転手は啓介なんです」
「珍しいな、兄貴が潰れるなんて。どうせまた名前の自慢でもしてたんだろ?」
「よく分かったね、啓介くん」
「それ以外考えらんねえよ」
 入口からのそのそ現れ僕と軽口を叩く啓介くんに再び全員が絶句し、受付嬢たちは新たな獲物を見つけたと瞳をギラつかせる。その視線に気付いているのか、いないのか、啓介くんは呼び掛けても反応しない涼介くんの腕を肩に回した。
「それじゃあ、失礼します」
 頭を下げた名前ちゃんと啓介くんの声が完全に聞こえなくなると、はあ、と誰かが熱っぽい息を吐き出した。顔を赤くし、それを手で覆い隠しているスタッフがちらほらといる。
「なんか...異次元でしたね」
「三人とも顔整いすぎでしょ」
「同じ空間にいるだけでドキドキしちゃう」
 感嘆の声を上げるナースに僕は立てた人差し指を揺らした。
「驚くのはまだ早いよ。あの三人幼馴染みだから」
「少女漫画かよ...!」
「羨ましすぎる...!」
 拳を握り締める独身ナースの叫びに苦笑しながら、明日会うだろう涼介くんの顔を思い浮かべる。きっと自分が晒した醜態を情けないと嘆くのだろうが、僕は情けないなんてちっとも思わない。あの高橋涼介が盲目的に愛せる女性に巡り会い、他人から夫婦へ、夫婦から家族へとなるのだから。

 高橋涼介先生。彼は高橋総合病院で圧倒的人気を誇る整形外科医だ。優秀なのは当然として、整った顔立ちと穏やかな性格が患者さんや院内スタッフ、出入りする業者さんをも魅了している。非の打ち所が無い彼だが唯一欠点を上げるとすれば、それは妻への過剰な愛だと、彼を知る者なら口を揃えて言うはずだ。しかしそれは、彼が彼であるために大切なもので、決して欠けてはならないものなのだ。


BACK