最愛 閑話a6
 名前は大きく膨れた腹を撫でながらエレベーターに乗った。地下駐車場に停まる車の後部座席にタッパーがいくつも入ったトートバッグを置き、やっと運転席に腰を下ろす。よいしょ、と声を出してしまったことに気付き顔を顰めた。
 名前は車を走らせ前橋へ向かっていた。プロのレーサーとなり群馬を離れた啓介が、借りている部屋に帰ってきているからだ。あれば便利だろ、と話していたが最低でも月に一度は帰ってきていることを考えると、赤城の道路が恋しいのだろう。そして名前は啓介から帰ってくる連絡を受け取ると、持て余している時間で大量に作った料理をタッパーに詰め、啓介のもとを訪ねるのが息抜きになっていた。
 啓介が借りているのは一般的なマンションだ。間取りは2K、客用の駐車場は無く、名前は近くのパーキングに車を停めて5分ほどの距離をとぼとぼと歩く。
 渡されている合鍵でドアを開け、キッチンを通りリビングへ向かうが啓介はいない。更に続く寝室の方へ入ろうとドアに手を伸ばした時、内側からドアがスライドした。
「?」「?」
 互いに首を傾げ暫く顔を見合わせた。名前の目の前には下着姿の若い男がいて、当然後ろにはベッドがある。瞬きを繰り返していれば、後ろからぺたぺたと裸足で床を歩く音がして、シャワーから戻ったらしい、これまた下着姿の啓介がいた。
「ん?おお、名前、来てたのか」
 肩からずり落ちたトートバッグが床を叩き、名前は半裸の二人を交互に見て口を押さえた。あっ、と思った男は胸の前に出した掌を、名前も首を勢いよく振る。まるで違うのだと必死に否定するように。
「......お前ら何してんだ?」
 啓介だけが呑気に問い掛けた。

 リビングのテーブルには名前が持ってきたタッパーが蓋を開けて並べられ、啓介と同じレーシングチームに所属する八木と名前の笑い声が響いていた。
「だってさ、男が寝室から下着だけで出てきて、そこにシャワー浴びた家主が来たらさ、そりゃデキてるってなるでしょ。嫁だと思われて蹴り飛ばされそうになったらどうしようって必死だった」
「こっちだって今にも産まれそうな妊婦にとんでもない勘違いされてるって、驚きすぎて声が出ないから、必死に否定したんだよ。そいつと寝たのかって修羅場になるかと思って」
 前橋に帰ると言う啓介に八木が着いて来たのは昨夜のことだ。そのまま赤城を数本走り帰ってきて、八木がベッドで、啓介がソファで寝ていた。一昨日連絡したきりでそれを知らない名前が啓介に会うより早く八木に会ってしまったため起きた事件だ。
 いつまでも笑いの収まらない二人に、啓介は呆れながらビールを胃に流し込む。
「お前らいい加減うるせえよ」
「だって、ふふっ」
「俺が全部食い切っちまうぞ。名前の料理はうめえから、俺はそれで構わねえけど」
「じゃ、遠慮無く!いただきま〜す」
「どうぞ」
「酒が進むから飲み過ぎねえようにしろよ」
 名前の差し出したビールがぐいっと煽られるのを見て、啓介は特に気に入っている塩キャベツをむしゃむしゃ食べながら言う。名前と目が合うと笑い方が今までと変わった。アニキのこと考えてんだろうな、と思えば、ぽつり、と言葉が零される。
「涼介くんも特にそれが好きみたい。やっぱり兄弟だね」
「あ、涼介って噂の啓介のアニキだ。もしかして名前ちゃんの旦那って」
「そのアニキですよ」
 自然な動きで腹を撫でる名前に八木は笑み零す。
「幸せそうだね」
「はい、とっても」
「嘘つけ。俺に愚痴ってるくせに。あ、まさかお前、またアニキに内緒で来たんじゃねえだろうな!?」
「大丈夫!バレないって!」
「俺がアニキに怒られるんだよ!勘弁してくれ!」
 額を押さえる啓介に八木は訳ありらしい、と口元を緩める。
「なになに、アニキはヤキモチ焼きなの?弟にも嫉妬しちゃうの?」
「いや、まあ、それもあるんだけどよ...」
「あんのかい。更にその上もあんのかい」
「もう少しくらい外に出させてくれてもいいと思わない?ママにも出産は体力勝負なんだから、散歩くらいしなさいって言われたのに」
「え、なに?軟禁されてんの?バイオレンス?」
「過保護すぎんだよ。一人で出歩いて何かあったらどうするって。前科もあるから、アニキがいない時は外に出るなって言われてんだよ。それなのに俺が帰ってきてるからって、理由付け出来る時に抜け出して俺が怒られる」
「いいじゃん、啓介に会いたいんだから。啓介もわたしに会えて、ご飯まで食べられるんだから嬉しいでしょ?」
「...そりゃあ、そうだけどよ...」
 照れ臭そうに言う啓介に八木は買収されてる、買収されてるよっ、と肩を震わせた。
 二時間ほど滞在した名前はそろそろ帰ろうかな、と腰を上げようとする。啓介はそれを制し、皿をいくつか持ってくると名前に手渡した。タッパーの中身を皿に移していく姿に、熟年夫婦かよ、と八木はまたしても突っ込んでしまう。
 名前の携帯が着信を知らせ、名前と啓介は表情を引き攣らせた。無言で顔を見合わせる二人は、先程同様言葉が無くとも考えていることが分かるのだろう。結局電話は切れ今度は啓介の携帯が鳴る。やばいやばいやばい、と文字が二人の周りをぐるぐると回っているのが八木には確かに見えた。気の強い啓介が恐れる兄とはいったい、と唾を飲み込む。携帯を押し付け合い、いよいよじゃんけんで負けた啓介が恐る恐る応答した。
「も、しもし、アニキ?」
「啓介」
「っぃ、おう」
 涼介の低い声が漏れ聞こえ、啓介が悲鳴を上げるのと一緒に名前も肩を跳ねさせる。
「名前、お前のところにいるよな?」
「...いる」
「......それならいい。ちょっと様子を見に来たらいないから焦った」
 はあ、と深く息が吐き出されるのを聞いて、啓介は名前の耳に携帯を押し付けた。
「...涼介くん、勝手に外出してごめんなさい」
「心配でどうにかなりそうだ。頼むから一言教えてくれ」
「でもダメって言うでしょ...?涼介くんがいないの寂しいんだもん...」
「次の土曜日はずっと一緒にいられる。それまで俺も我慢するから、名前も我慢してくれ」
「うん...!」
 涼介の声は聞こえないが、名前の言葉と花が綻ぶような笑顔が可愛くて、つい八木は頬を緩める。しかしその直後背筋に悪寒が走って、電話口から怒りを孕んだ声が聞こえてきた。
「おい、誰か男がいるな?」
「俺のレーシングチームのメンバーだよ」
 慌てて啓介が答えるが、八木は生きた心地がしない。まるで抱いた感情を察知されたようで、いや、それしかないと恐ろしくなる。
「......俺の嫁だからな」
「誰も臨月間近の妊婦に手なんか出さねえよ!」
「おい、啓介。今のは名前に魅力が無いって言ったのか?」
「だあああ!もう切るぞ!名前は今すぐ帰らせるから!」
 思わぬ飛び火に発狂し眉根を寄せている啓介と、柔らかく笑う名前の姿に違和感が無くて、八木はこれが日常なのだろうと察した。
「なんつうかお前苦労するね。きっとこれからも変わんないよ」
「......分かるか?」
「そりゃあね」
 二人の視線を受けて名前は悪びれる様子もなく笑う。
「キューピッドには最後まで見守ってもらいますよ。じゃあ、帰るね。八木さんも、また」
「...仕方ねえな...」
「うん、ご飯美味しかった。ありがとうね。気を付けて」
 玄関まで見送りに来ると、啓介は手を振る名前を抱き寄せ頬擦りした。
「出産近いんだから無茶すんなよ。アニキにもあんま心配かけんな。──傍にはいてやれねえけど、頑張れよ」
「うん。啓介もクラッシュして大怪我とかやめてね」
「おう」
 啓介は身体を離すと、今度は大きな腹を撫でる。
「次会う時は、だっこ出来るの楽しみにしてるぜ。待ってるからな」
 啓介の手に自分のものを重ね、ぎゅっと握ると名前はもう一度手を振って帰って行った。八木は素敵な家族の一時を目にして、胸に温かな気持ちが広がるのを感じる。
 新しい生命が誕生するというのは、たいへんなことだろう。母親は命懸けだし、付きっきりで世話をして中々眠れず、疲れた、辛い、ときっと思う。しかしそれを一瞬で吹き飛ばすのが子供の笑顔、成長だ。血の繋がりの無かった夫婦を家族にしてくれる、何にも代え難いかけがえなのない宝物。
 名前が去った玄関で穏やかな表情をしている啓介は、きっと幸せな未来を眺めているのだろう。


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