最愛 閑話a7
 その場に走った緊張に気付かないのは、眠りこける涼介だけだ。その隣で肩を貸す女が誰かを理解して、名前はそっと瞳を伏せた。
「今村先生、確かお酒飲みませんでしたよね。今その巨人を車に運ぶのは骨が折れそうなので、起きたら送ってもらえますか?」
「えっ、あ、名前ちゃ...」
 名前は車のキーを無理やり今村に握らせその場を後にしようとする。
「...ん、名前...」
 ぴたり、と脚を止めた名前は振り返り、未だ女に寄り掛かり眠る涼介を一瞥する。今村は己の浅はかな考えと行動を死ぬほど後悔した。
 院内の売店がコンビニにレベルアップしたのは最近のことだ。涼介はそこのコーヒーがたいそうお気に入りで一日一回は必ず購入する。愛妻弁当のある涼介と違い、バツイチの寂しい今村は昼食が遅くなり摂らないなんてこともよくあるが、コーヒーだけ飲みたいと向かった先で二人がタイミングよく顔を合わせることは多かった。数日前も連れ立ってコンビニを出たが、いつもと違いすぐ側の病院入口から涼やかな声が涼介を呼んだ。
「涼介くん」
「...香織さん。どうしてここに?」
「近くに来たから顔でも見とこうかと思って」
 妖艶に微笑む女の名に覚えがあり今村は表情を固くする。会わないにしても、最近よくメールのやり取りをしている女だと知っていたからだ。涼介に限って浮気は無いと分かっているが、こまめに携帯をチェックする姿を疎ましく思っていた。そして実物を初めて目にして、この女は危険因子だとはっきり認識する。こんなところまで会いに来るなんてアプローチはどんどん激しくなるのだろうと。どうにかしてそれをやめさせたい。あの子に気付かれないうちに、あの子が悲しまないように。
「そうだ。明後日内科のドクターと飲みに行くんですよ。内科医同士一緒に飲みませんか?勿論涼介くんも来ますから」
 涼介くんはお酒が入ると目に見えて饒舌になる。しかも話す内容はどう経由しても必ず名前ちゃんへの惚気話に行き着く。きっと涼介くんが溺愛していることを知れば諦めるはず。
 そう考えて今村は飲みに誘い、香織はそれを快諾した。
 今村から涼介がデレデレになるのは面白い、と聞かされていた他の内科医が率先し、出会いは?いつから好きなの?プロポーズの言葉は?と酒を勧めながら問うと、涼介は次々に甘い想い出を語った。笑ってはいるものの、香織の心中は諦めモードに入っただろうと、涼介がデレデレしているのを、今村もニコニコして見守る。
 しかし予想以上に涼介が酔ったのは誤算だった。今村が名前へ迎えに来て欲しいと連絡をして、トイレに行って、ちょっと一服して戻ると涼介は香織の肩に頭を預けている。唖然としている間に道が空いてた、と名前が早々に到着したのも誤算だった。
 居酒屋の個室を選んだのはこんな事態を招くためじゃない。内科医二人は完全にフリーズしているし、原因の二人は何も言わないし、いや原因は俺か?
「りょ、涼介くん...。起きて...」
 香織がどうにかしなければと思って取った行動も、名前と今村には悪事でしかなかった。
「失礼します」
 冷たい声で言い放ち離れていく名前に、今村の脳内では離婚の二文字が踊る。縁切りのキューピットにはなりたくない。今村は自分の手が痛くなるくらい強く涼介の腕を叩いた。
「涼介くん、涼介くん!起きて!離婚したくなかったら今すぐ起きて〜!」
「俺が、離婚...?そんなのするわけないでしょう...」
 煩わしそうに言う涼介の閉じた両目を無理矢理指でこじ開けて、今村は更に声を大きくする。
「でも今離婚の危機なの!現状を察して!」
 寝惚け眼で今村が持つ名前の車のキーと、香織に寄り掛かっている自分を認識して涼介は全てを悟る。荷物も持たずに飛び出した涼介は店の前で名前の腕を掴んだ。
「...名前...」
 腕を引き身体を近付けようとしても、顔を覗こうとしても、名前は頑なに拒む。ただ腕から震えが伝わってきて、泣いていることは用意に理解出来た。
「ごめん。ごめん、名前。別にあの人が好きとかそんなんじゃなくて、本当にただ酔ってたんだ」
「......いつもちゃんとセーブしてるじゃん。酔ってるのなんて今まで見たことない」
「その、気分良くて、進められるまま...。─っ!」
 名前は掴んでくる腕を思いっきり振り払い涼介をきっと睨み付けた。
「そりゃあ、隣にあの人がいたら気分良くなるよね。すっごく美人だし、涼介くんと話が合う知的な人だもん」
「違う、そうじゃなくて!」
「知ってるよ。またあの人とこまめに連絡とってるの」
「!」
「でも涼介くんは、わたしがどれだけ不安に思ってるか知らない。だからあんなことも出来るし、身内みたいな病院の人との飲み会にだって参加させてる」
「...名前、」
「まるで外堀から埋めてわたしを追い出そうとしてるみたい...」
「名前!」
「っ」
 掴んだ肩が大きく跳ねてはっとする。涙の張った瞳が見上げ、噛んでいた唇がゆっくりと開かれた。
「...なんでわたしが怒鳴られなきゃいけないの?わたしが悪いの?」
「怒鳴ってごめん。でも聞いてくれ。違うんだ」
 ぽろぽろと涙を零す名前に必死で訴えかける。しかしそれは届かなかった。
「...気持ち悪い...」
 名前が後退りながら発した言葉に、頭の中でぶつりと嫌な音がしたのを涼介は聞いた。

 薄暗い部屋の中で目覚めた涼介は、ぼんやりと記憶に残る名前の泣き顔に自分を殺してやりたいと思った。ホテルに連れ込み泣いて嫌がるのを無理矢理抱いて、出すだけ出して寝るなんて最低だ。隣には勿論、室内を見回しても名前の姿は無い。ノックの後に開いたトイレにも浴室にも姿が見当たらず、涼介は焦燥に駆られながら、間抜けにもテーブルの上に置かれていたカードで支払いを済ませ自宅を目指した。
 しかしそこにも名前はいなかった。一度帰宅した形跡はあるものの、荷物が持ち出された様子は無く、涼介は僅かばかり安堵する。今夜話そうとだけメールを送ると、仕事へ行く準備を始めた。
 持ち前の精神力で業務はこなすものの、覇気がない涼介をスタッフや患者が心配する。それに苦笑を返しながら思い出されるのは、やはり名前の泣き顔だった。
 今の時間までに来院していた患者の診察をどうにか終え、涼介が溜息を吐いていると、看護師が奥様からです、と電話の子機を渡してきた。看護師の言う奥様は院長夫人、つまり当院産婦人科部長の母のことだ。ちなみに涼介は涼介先生や若先生と呼ばれるが、啓介と名前は小さい頃からここに出入りしていた時の名残で、大抵の看護師が啓介くん、名前ちゃんと呼ぶ。
「はい」
「涼介!ピッチに何回もかけてるんだけど!」
 母の言葉で涼介は胸ポケットにPHSが無いことにやっと気付いた。着替えを終えロッカーを閉める時いつも手に取るが、今日はそうした記憶が無い。
「...ロッカーだな...」
「この腑抜けが!とにかく今すぐ診察室1番!」
 言うだけ言って切れた電話を看護師に返し、これ以上怒らせると面倒だと涼介は整形外科外来を離れる。産婦人科外来へと入り、医師名のプレートを確認しノックしたあと診察室のドアを開けた。
「!」
 そこには母とベッドに横になる名前がいた。名前の白い腹に塗られたゼリーが照明を反射していて、その上をエコーのプローブが滑っていく。
「...え、え...」
「おい、バカ息子。昨日は話も聞かないでしたらしいね」
 小さく唸った涼介に、母はモニターから目を離さず続ける。
「初期は大事な時期なんだから気を付けること。妊婦の心のケアは旦那の務めでしょ。それくらい分かってると思ってたけど、やっぱり名前ちゃんのことになるとお前はポンコツだし暴走するね。はい、画像」
 涼介は咄嗟に受け取ったエコー写真を見てもなお放心し続ける。母にゼリーを拭き取られながら名前はそんな涼介を呼んだ。
「名前、考えなきゃね」
 気だるげな瞳で見上げられて、涼介は胸に込み上げてくる喜びに視界が滲んだ。撫でた頬が少しコケていることにやっと気付き、俺は今まで名前の何を見ていたんだろうと顔を顰める。
「悪阻があるみたいだから無理させないように。あとセックスはわたしがいいって言うまでダメ。はい、じゃあ、診察戻れ。孫のために馬車馬のように働け」
 しっし、と母から診察室を追い出されながら涼介はどうにか言う。
「名前送る。送るから診察終わったら整形に来てくれ。会計は俺があとでするから、診察終わったら転ばないように、でもすぐに...!」
 慌ただしく産婦人科を後にした涼介は、さっきとは別人のようにニコニコと笑みを絶やさず診察を行う。丁度患者が途切れたところで名前が来たと受付スタッフから声を掛けられた。
「ちょっと出てくるから、もし俺が帰るまでに患者さん来たら親父に回して。親父頼んだからな」
 涼介の隠しきれない笑みは、身内にとって満面の笑みと同等だ。
「えっ、何あの笑顔。怖い」
 父が看護師の前でそう零していたとも知らず、涼介は名前の身をただ案じる。
「吐き気は無いか?食べたいものとか、飲みたいものは?」
「大丈夫だから、落ち着いて運転してくれると嬉しいな」
「そうだな、事故なんか絶対に出来ない」
 ハンドルを握り直し進行方向を睨む涼介に、名前は苦笑して今でこれならこの先どうなるのかと不安になる。
 自宅マンションに着くと、座ってて、とソファに誘導され、暖かなルイボスティーの入ったマグカップを渡される。名前が二口ほど飲みほっと息を吐くと、涼介はそれを奪いテーブルに置いた。
「名前...」
 涼介は骨の感触が前よりはっきりとする名前の頬を撫で眉根を寄せた。
 毎日幸せだと喜びを噛み締めていた。それなのに悪阻に苦しみ、痩せていくことに気付かないなんて夫として失格だ。しかも昨日はあんなことまで。
 自分に対する嫌悪感で頭がおかしくなりそうな涼介に、名前は弱々しい声で言った。
「涼介くん、昨日はごめんなさい。午前中にね自分で検査してみて妊娠が分かったの。だから涼介くんに早く伝えたくて、ずっとそわそわしてて、そしたら──悲しくて、怖くて、当たっちゃった。ごめんなさい」
 全く非が無いにも関わらず謝る名前に、涼介は年下の妻の方がずっと大人だと思い知らされる。
 連絡を取っていると知ってもそっとしてくれていたのは、きっと俺を信じてくれていたからだ。でも、もし連絡をとっていたのが俺ではなく名前だったら、俺は怒り狂い携帯を取り上げ、監禁まがいのことを仕出かしていたと思う。いや、確実に。そんな俺だから必死で何かを伝えようとする名前を押さえ込み犯すように抱いた。
「悪いのは俺だ。名前は何も悪くない。必死で暴れたのは妊娠してたからってのもあったんだよな。それを伝えようとしてたのに、話も聞かずに無理矢理...。怖かったよな、ごめん。でも名前に気持ち悪いって言われたら、頭の中がぐちゃぐちゃで止まれなくなって...」
「あれは涼介くんに言ったんじゃなくて...!急に悪阻の吐き気がして、それで...」
「...何だ...良かった...」
 涼介はほっと安堵の溜息を零して名前を抱き締めた。昨夜は背に回されなかった腕の温もりがこんなにも嬉しい。腕に抱く二つの大切な存在を守っていくためには、頼りになる強さも必要だが一番大切なのは誠実であることだ。
「聞きたくないかもしれないけど聞いて欲しい」
 涼介が前置くと、名前は身体を離して真摯な瞳をじっと見つめた。
「みっともない話だけど、酒が入ると名前の自慢話ばかりしてしまうんだ。俺がそんなふうに話すのが珍しいみたいで皆が聞いてくるから、気分が良くなった俺は飲んで酔っ払う。昨日もそうで知らないうちに香織さんに寄り掛かってた。彼女があの場にいたのは今村先生が誘ったからで、隣は知ってる人がいいだろうって促されて俺は隣に座っただけ。だから彼女のことが好きとかそんなのは全く無いんだ。連絡も彼女の結婚が決まり、式場のことで相談を受けたから最近するようになっただけ。俺たち結構式場選ぶの拘ったから人より詳しいし、やっと世話になった北条夫妻の力になれると思って。俺が軽率だった。ごめん、こんな馬鹿な男で」
「......話してくれてありがとう。もう不安は少しも無いよ。恥ずかしいけど、涼介くんがわたしのこと大好きで、それをみんなが知ってくれてるっていうのは嬉しいな」
 頬を染めはにかむ名前に涼介はそっと口付ける。触れるだけのキスが続き、するり、とシャツの裾に手を入れると唇は離された。
「涼介くん、ダメ、だよ...?」
「......せっかく仲直りしたのに出来ないなんて拷問だ」
「そういうこと涼介くんが言うとびっくりするけど、やっぱり男の人だなって思う」
「俺はお前が傍にいたら、いつだって狼だ」
 涼介に頬を甘く噛まれて名前は笑い声をあげる。
 強がりや不安が剥がれ落ちたその笑顔は、太陽のように眩しく美しい。そんな女性が母となるこの家族には、必ず幸せな未来が訪れるのだろう。


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