最愛 閑話b6
アニメ fourth state 16.17話

「啓介!」
 エボV男に背を向けると、近付いてきていたロータリーエンジンの音が止まる。この場にいるはずのない声に呼ばれた啓介は振り返り、見上げてくる涙の張った瞳に、うっ、と声を漏らした。
「車ぶつけたって...!怪我は!?」
「俺はどうもねえよ。それよりお前何、で...」
「っ、よかったぁ...」
 慣れ親しんだシャンプーの香りが漂い、背中にしっかりと腕が回される。震える肩と鼻をすする音、顔を押し付けられたシャツの胸元が濡れていく感覚に啓介も腕を回した。
「悪い、心配かけたな」
「...ん」
 名前を抱き締めるのは随分久しぶりだ。すっかり小さく感じるようになったと、愛しさが込み上げてくる。ぎゅぅっと強く抱き締め、頬に手を添え額を合わせると、やっと名前は笑った。それにほっとしたのも束の間、背中に鋭い視線を感じて身を縮める。慌てて身体を離せば、前方からも穴があくほど見つめられていることに気付いた。啓介が居心地の悪さに眉を寄せると、名前は涙を拭いながらその視線の先にいる恭子を瞳に映す。
「......何となく察した」
「それなら...」
 彼女のフリでもしてくれ、そう言いそうになって啓介は口を閉ざした。以前彼女はいないと言ったし、騙したいわけでも、想いを踏みにじるような最低なことをしたいわけでもない。ただチームの活動に専念したいだけだ。それに名前に彼女のフリをさせようものなら、数秒と経たず兄から拳がお見舞されるだろう。
「ほんと啓介ってかっこいいよね」
 名前は啓介が飲み込んだ言葉と、その真意を感じ取り、くすりと笑みを零した。
「...うるせえ」
「わたしもお願いされてもしないよ。フリでも涼介くん以外の人を彼氏にしたくないもん。いくら啓介でもね」
「...分かったから、早くアニキのとこ行けよ」
「言われなくても」
 啓介の影から顔を出して涼介を見た名前は顔を綻ばせた。腕を組んでいる涼介が少し口を尖らせていることに気付けるのは、付き合いが長い数人だけだ。あ、と思い出したように名前が声を上げ啓介は首を傾げた。
「忘れてた。啓介勝ったね!」
「......当たり前だろ」
「うん、啓介だもんね。でも慣れてる自分の車じゃないのに凄いや。おめでとう」
 いつも素直に褒めてくれる幼馴染みの言葉は特別だ。啓介は嬉しさばかりが込み上げてきて、名前の頭を優しく撫でた。
「サンキュ」
 自分がどれほど穏やかな表情をしているか啓介は知らない。名前はそれを瞳に映したあとで、今度こそ啓介の背後へと走っていく。兄の名を呼ぶその声を聞きながら、手の中の鍵を返すべく足を踏み出した。
「涼介くんっ!」
「無理矢理ついて来たんだって?」
 腕を広げる涼介とその胸に飛び込む名前に目を見開くのは、この埼玉の地に名前を送り届けた男だ。昔から涼介が懇意にしていて、一度だけ名前も会ったことがあった。男は涼介からバトル走行不能となったFDの代車依頼の電話を受けたファミレスで、友人と来ていた名前に会話を聞かれてしまい、わたしも一緒に連れて行って、としつこく頼まれた。涼介が代車は必要無くなったと連絡した時には当然近くまで来ていて、目的は当初の代車を届けるから、名前を届けるに切り替わり、啓介のバトルが終わったところに到着したのだ。
「だって涼介くん平日は課題で忙しいし、週末はDの遠征ばっかで会えないから寂しくて。ごめんなさい、迷惑だった?」
「そんなわけないだろ。嬉しいよ。会いに来てくれてありがとう」
 常に冷めた印象の涼介が人前で抱き合って、しかも互いに髪と胸に顔を埋めている。混乱する頭で周りを見渡せば、同じく昔馴染みの史浩はやれやれといったふうで、ドライバーは赤くした顔を俯けている。二人のメカニックは茫然としているため自分がおかしいわけではなさそうだと少し安心した。
「寂しい思いさせて悪いな。次の休みは一緒にいられるから」
「ほんと...!?」
 嬉しくて堪らないと眩しい笑顔を浮かべる名前に全員の目が眩む。上玉だ、と下卑た笑いが聞こえて名前は対戦チームに視線をやるが、すぐにぷいっと涼介の胸に顔を埋めた。涼介もお前ら如きが名前を見るな、と腕の力を強め身体の向きを変える。啓介がこちらに戻って来たことで、ごほん、と史浩が咳払いをし、漸く二人は身体を離した。
「邪魔になるといけないから、わたし車の中で待ってるね」
「ああ。いちおう鍵閉めとけよ」
「うん、分かった」
 言葉とは裏腹に一時も離れたくないと、そんな雰囲気を醸す二人に啓介は頭を抱え、そんな啓介に拓海はオロオロして、残りの四人は先程と同じ反応をする。
「よし」
 名前が車の中に消えると、何事も無かったかのように、しゃんとした態度で言った涼介に今度こそ全員が溜息を吐いた。

 啓介が心配すぎて携帯に連絡して無事を確認するという、一番手っ取り早い方法さえも頭から抜け落ちていた名前は昨夜眠れなかった。車のシートに座ると急な眠気に襲われ、それに抗うことも出来ずに大人しく瞼を下ろす。そのすぐあと起こされたように感じたが、あれから数十分が経過していた。
「ん、んぅ...?」
「...可愛がってやりたいが、そうもいかないんだ」
 涼介は助手席のドアを開け、眠そうな可愛い顔を見下ろす。いつまでもこうして眺めていたいが、名前に怪我をさせるわけにはいかない。
「少しまずいことになった。相手チームが負けた腹いせに仲間を呼び寄せているらしいんだ。お前は絶対に車から出るな。もし乱闘になるようなことがあったら、すぐ車を出すよう伝えてあるから」
 そう言って涼介はいつの間にか運転席でハンドルを握る男に目配せする。しっかり男が頷くのを確認すると名前の頬をそっと撫でた。安心させようとしたその行動は余計に不安を煽る。
「涼介くん、は...?」
「......ここは俺と啓介で食い止める」
「そんなっ」
「チームリーダーは俺だからな。俺がメンバーを守るのは当然だ」
 名前は何も言えなくなって、涼介の手に自分のものを重ねた。昨夜よりも大きな恐怖が胸の中で膨れ上がっていく。震える手に気付き、涼介は名前を抱き締めた。
「大丈夫だ。お前を悲しませたくはないからな」
「っ」
 名前が小さく頷くと、涼介は頬に口付けを残しドアを閉める。遠くなっていく背中を見送ることしか出来ないのが悔しかった。
 やがて五台の車が停車し、名前の心臓は早鐘を打つ。木刀を持った男を先頭に五人と、レンチを肩に乗せた啓介が距離を縮めていく。名前は瞳を瞑り啓介と、その後ろで控える涼介の無事だけをただ祈った。
 予想していた大声などが一向に聞こえず、名前が瞳を開くと、啓介は腕を元の位置に戻し、その前で五人組が頭を下げていた。理解が追いつかないでいる名前の耳に男の声が届く。
「どうやら無事に帰れそうだな」
「!」
「あっ!おい!」
 名前はドアロックを解除し外に飛び出すと、一目散に涼介のもとへ走った。背中へ腕を回すと優しく頭を撫でられ、涼介が怪我無く無事な姿でいることに心底安堵する。
 背後で続けられていた会話が終わり、啓介の足音が近付いてくるが、それは途中で止まった。
「済んだことだからいいって言ったけど、やっぱ我慢ならねえのが一つあった。そいつら俺の兄嫁に手出そうとしてたんだ。二度とそんなこと考えられねえようにしてやってくれ」
「名前ちゃんに手ぇ出すだと...?啓介さん、勃つモン勃たねえようにしてやりますから、心配はいりませんよ」
 自分の名前と共に並べられた物騒な言葉に、名前は小さく悲鳴を上げた。啓介がこちらに戻ってくると、メンバーは一斉に車から降りる。昔の舎弟で名前を知ってるのは俺と一緒にいるのを見たことがあるから、といくつか説明され、史浩は啓介様々だなとその人望を讃えた。
「啓介がグレたことに感謝する日がくるなんて思いもしなかったよお」
「お前な...、もう少し可愛いこと言えねえのか」
 恐怖から解放され涙ぐむ名前のこめかみを啓介はぐりぐりと痛め付ける。
「いたいぃぃ」
「啓介、もういいだろ」
 涼介に腕を捕まれ啓介は握っていた拳を開く。涼介の表情は普段通りだが、軽いやり取りへの呆れと嫉妬が感じ取れた。
 賢太が埼玉エリア完全制覇だ!と拳を突き上げると、名前はぱちぱちと拍手を送る。その手がさっきまで痛むこめかみを押さえていたのを知る涼介は、そっと自分の手でそこを撫でてやった。
 その後、一向に離れようとしない二人は、すぐ側でイチャイチャされるのは堪らない、とたらい回され、通常走行なら問題無いし、見るのに慣れているから、という理由で史浩の手によって、啓介のFDに押し込まれた。


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