最愛 閑話b7
─午後8時22分
 岩城清次は高崎駅近くを車で走っていた。噛んでいるガムの味も、捨てるためのティッシュが無いことも苛立ちに拍車をかける。
 岩城が群馬にいるのは、大学からこちらに移り住んだ友人の結婚式があったからだ。しかしどうしても仕事で二次会からしか参加出来ず急ぎ向かえば、なんと遠征で負かした相手に遭遇。口論になり一人だけ締め出されてしまった。仕事の疲労を抱え来たにもかかわらずこんなことになり、発した舌打ちはもう数えきれない。鬱憤を晴らすため妙義にでも行こうか考えていると、進行方向の道路脇に車が停車しているのに気付いた。後部座席のドアは開け放たれ、すぐ側で男女がもめていると思えば、男が女を無理やり車に押し込んだ。
「!!?」
 愛車のヘッドライトが丁度当たった女の顔に見覚えがあり、清次は急ブレーキを踏んだ。それと同時に目の前の車は発進し、ぐんぐん速度を上げていく。清次は慌ててその後を追いながら携帯を手に取った。
「清次か、どうし」
「京一!今すぐ高橋涼介に連絡取ってくれ!あいつの彼女が目の前で車に誘拐されて追いかけてんだ!」
「......はあ?」
「嘘じゃねえんだ!今高崎駅近くなんだけどよ、ここらへんそんな詳しくねえし、とりあえず俺は追いかけるのに集中するから頼んだぜ!」
「お、おい!」
 清次は携帯を胸ポケットにしまうとアクセルを踏み込んだ。

─午後8時48分
 車通りが多いにもかかわらず、確かな腕のおかげで見失わずにすんだ車は静かな住宅地で停止した。住宅から少し離れた敷地にぽつんと佇むスチールガレージは、閉めたシャッターが壊され人一人が入れる隙間が出来ている。男が名前の背を乱暴に押しながらガレージの中へ入ると、そこから僅かな明かりが漏れてきた。エンジン音で気付かれないよう絶妙な距離を保っていた清次は、離れたところに停めた車から降り静かにそこへと向かう。
 本当は今すぐにでも助け出してやりたいが、相手が武器になるものを持っていたら無駄な怪我をさせてしまう可能性がある。ここは応援を待ちながら中の様子を伺うのが得策だな。しかし、もし手を上げるような様子を見せれば...、その時は踏み込む。絶対に怪我なんかさせない。男が女を守るのは当たり前で、その女があんなに可愛い子なら尚更だ...!
 数ヶ月前たった一度目にしただけだが、清次は名前の可愛さにやられていた。謎の使命感と闘志を燃やし、ナイトさながらの心意気でガレージに近付く。あの入口から覗くのは危険すぎると、外を回ってみれば窓ガラスが割れているのを見つけた。そっと中の様子を伺えば、地面に置いたランプがぼんやりと中を照らしている。男はこちらに背を向けていて、その手や周辺に武器らしいものは無い。しかしガレージ内には工具やロープなど凶器になりえるものがごろごろとあり、清次は冷たい汗が背を伝うのを感じた。

─午後8時58分
 清次は表情を無くしていた。凄惨な事件が目の前で起きたからではない。これは何だ、何が起きている、俺は何を聞かされているのだ、とただ不思議に思った。
 時間は数分遡り、清次は中から聞こえる話し声に耳を傾けていた。
「変なことするんじゃねえぞ!その可愛い顔に傷をつけたくなかったらな!」
 言っていることがチンピラのデフォルトすぎて、清次は顔を引き攣らせる。小物感が半端ねえ、と。
「お前は高橋涼介を誘き出すための餌だからなあ」
「...涼介くんが、あなたに何かしたんですか」
 口を塞がれていなければ、手足も縛られていない名前は怯えながらも問い掛ける。清次はこの男拘束もしないなんて大丈夫か、と少し心配になるが、こちらにとってその間抜けはラッキーだ。
「......あいつイケメンだよな」
「......」
「なあって」
「ええ、とっても」
「しかも金持ちで、群馬最速とか持て囃され、いい気になってよお」
「...別にそれは涼介くんが望んだことじゃないし、いい気にもなってない」
「うるせえっ!」
 近くにあった空き缶を男が蹴り、壁に当たったり床を転がったりして盛大な音が鳴る。身体を震わせながらも、唇を噛み締め声を殺す名前の姿に、清次は男への怒りがふつふつと湧き拳を握った。
「生まれながらに何でも持ってて...、苦労なんかしたことねえんだろうな。こんな可愛い彼女までいてよお」
 男の声が低くなり名前と清次に緊張が走る。一歩、また一歩と近付いてくる男に名前は身を硬くした。
「とりあえず高橋涼介呼び出すから携帯出せ」
「えっと...持ってない...」
「はあ?ふざけたこと抜かしてんじゃねえ」
「ほんとに持ってないんです。高校生で持ってる人まだそんなにいないですよ」
「...高校生?」
 男は訝しげに名前を見て嘘だろ、と零した。
「お、おおれこれ誘拐じゃね!?」
 突然の狼狽ぶりに名前はぽかんとして、清次は頭を抱える。
「やべえ...やべえぞ...」
「あの、今なら誰にも知られてないし、家に帰してくれたら誰にも言いませんから...だから...」
「無かったことにしろってか!?それじゃあ意味がねえんだよ!俺は高橋涼介が憎いから、一発殴ってやろうと思ってお前を攫ったんだ!」
 鼻息荒く怒鳴る男に名前は覚悟を決める。涼介が殴られるなんてことは必ず阻止しなければならないと。
「...何で涼介くんが憎いんですか。わたしを餌に使うなら知る権利があると思います」
 男は顔を顰めたあと、いいだろう、と話し始めた。
「忘れもしない。あれは三ヶ月前のことだ──」
 ...回想おっぱじめやがった...。
 清次はガレージの壁を叩きそうになるのをどうにか堪える。緊迫してるんだか、してないんだか、変な空気に発狂しそうだ。
「何年も片想いして、ずっと口説いてた女とやっと付き合えることになったんだ。すげえ美人でスタイルも良いし嬉しくて堪んなかった。かっこいいとこ見せて俺に夢中にさせてやろうと、車買って峠にも連れてって、そしたら彼女も笑ってくれることが増えてすげえ順調だった。それを、あいつが...高橋涼介がぶち壊したんだよ!」
「......」
「......」
「え、あの続きお願いしても...?」
「どこから聞きつけたのか、彼女は高橋涼介の噂を知ってバトルを見に行きたいとせがんできたんだ」
 普通に話し出してんじゃねえよ...!しかも演技がかっててうぜえ...!
 何事も無かったように話す男に清次は頭を掻き毟るが、自慢の長髪が数本抜けたことに気付かない。
「俺は高橋涼介の顔を知ってたし、その腕も知ってた。だから彼女が好きになるんじゃないかって心配だったんだ。でも断ったら嫌われるかもしれないし、高橋涼介を見ても俺を好きなままでいてほしいから二人で行ったよ。でもやっぱり間違いだった。彼女は高橋涼介に一目惚れ、帰りの車の中で別れ話をされ、しかも告白すると宣言までされた挙句に音信不通。漸く付き合えた女をたった一瞬で奪われたんだ!」
 身勝手すぎる怒りに名前は自分が置かれた状況も忘れ口を開いた。
「ただの言いがかりじゃん。涼介くんはあなたたち二人の問題に何の関係も無い。お兄さんに彼女を繋ぎ止められる魅力が無かったのか、彼女がお兄さんの魅力に気付けなかっただけだよ」
 最もな言い分だと清次は頷き、男も目を背けていたその事実を突き付けられ一瞬どもる。
「そりゃあ、俺がお前らみたいな美男美女に勝る魅力があるわけねえよな」
「そうじゃない。魅力は人それぞれで、それを良いと思うかだって人それぞれだってこと。きっとお兄さんの魅力に気付いて、全部を好きだって言ってくれる人が他にいるよ」
「綺麗事言ってんじゃねえ。全部を好きになってくれる?そんな奴いるわけねえだろ」
「いるよ。少なくとも、わたしは涼介くんの全部が好き。もう10年以上一緒に居るから、機嫌が悪い時の態度とか、ちょっと良くないところだって知ってる。それは涼介くんも同じだし、五つも離れてるから、むしろ涼介くんのほうがわたしの良くないところいっぱい知ってるかもしれない。それでも離れられないくらいお互いが好き。お兄さんとわたしたちの違いは、良いところも悪いところも全部愛してくれる、そんな人にもう出会えたのか、これから出会うのか、たったそれだけだよ」
「!」
「...」
 男は真っ直ぐな名前の言葉に胸を打たれた。ぱあっと、心を覆っていた靄が晴れ、清々しい気持ちになる。
 対して清次は先にも記したように、この展開は何だ?とただ不思議に思う。しかし男から脅威が無くなったことは明らかで、ガレージの入口へと脚を向けた。

─午後9時6分
 円を作り互いの恋愛観について語る三人の間を携帯の着信音が割いた。
「ああ、俺だ。悪い悪い。もしもし?」
「岩城か!?今どこにいる!?」
 軽い謝罪をして電話に出た清次は、耳元で聞こえる涼介の大声に驚いて携帯を耳から離した。普段のスカした態度とはかけ離れ、焦燥や恐怖など不安を電話口からもダダ漏れにするのが意外で、それだけ大切にされている名前へと視線を向ける。
「?」
「やべえ。高橋涼介に連絡入れてたんだった」
「おい!聞いてるのか!?どこだと聞いてる!名前は無事なのか!?」
 電話口から聞こえた最愛の人の声に、名前は清次の手から携帯を奪った。
「涼介くん!」
「名前!?無事なのか!?」
「うん、何ともないよ」
「もう今は何も問題は無いのか?拘束されていたり、脅されて大丈夫と言ってるわけじゃないのか?」
「違うよ。拘束は最初からされていないし、ちょっと話しただけだから」
「...よかった...。今から行くから場所を教えてくれ」
 深い息を吐き出した涼介はいつもより覇気のない声で話す。それは安心と、まだ無事な姿を目で確認出来ていない不安からだが、名前は勘違いした。
「疲れてるのにごめんなさい。駅からそんなに離れてないし、自分で帰れ─」
「いいから」
 低い声で唸るように言われ、名前は男を見る。告げられた住所にこくこくと頷きどうにか涼介に伝えたあと、携帯を清次へと返した。
「ん、ああ、大丈夫だ。別に俺が送っても...、いや、そんなつもりは全く...。あいつ切りやがった」
 携帯を胸ポケットに戻しながら、心の中で奪えるものなら奪いてえよ、と溜息を吐く清次と、怒らせてしまったと落ち込む名前を見て、男は背筋を震わせた。
「そりゃ彼女誘拐されたんだもんな...怒り狂うよな...どうしよう...警察行きかな...」
「そんなことしないですよ。何ともないのに」
「まあ殴られるのは覚悟してたほうがいいかもな」
「そうだよなあ...あ〜歯何本かいくかなあ」

─午後9時21分
 白い塊が二つ宙に飛び出すの見て名前は目を手で覆った。すぐに腕を引かれたと思えば、すぐ近くで床の擦れる音がして瞳を開ける。
「!」
 てっきり男が床に倒れているのかと思えば、膝を着いているのは涼介だった。自分の腕を掴む手も肩も震えているのに気付いてしゃがめば、両頬を包まれ潤んだ瞳と視線がかち合う。
「よかった...!無事で本当によかった...!」
 眉根を寄せ唇を噛み締める涙を堪えた表情を最後に、名前は涼介に強く強く抱き締められた。震えは一向におさまらず、広く逞しい背が頼りなく感じて回した腕に力を込める。
「心配かけてごめんなさい。迎えに来てくれて、ありがとう」
「......もう一人で出歩くの禁止...」
「え、それは無理じゃないかな」
「俺だってお前のこと一人にするの怖いから無理」
 鼻をすする音がして名前は何も言えなくなる。こんな涼介を見るのは初めてで、申し訳ないし戸惑うけれど、同時にこんなにも大切にされているんだと嬉しく思った。
 数分すると涼介は立ち上がり、名前の肩口に顔を押し付けたままで言った。
「岩城。この礼は必ずする」
「お、おう...」
「すんませんでした!」
 軽く手を上げる清次と深々と頭を下げたあと直った男に、名前も小さく頭を下げ歩き出した。その背中に張り付いて離れないのが、かの有名な赤城レッドサンズのリーダー、高橋涼介とは到底思えない。しかし大学からここまで必要時間の半分で辿り着いたのは流石としか言いようがないだろう。
 こうして岩城清次が巻き込まれた奇妙な事件は終わりを迎えた。たまたま今日群馬に来ていて、二次会を追い出されなければ、名前はまだ男の脅威に怯えていたかもしれない。そう考えるとやはり巡り合わせというのは偉大だ。
 もし名前ちゃんが涼介と付き合っていなければ、誘拐に気付き助けた俺とむふふなことになってた可能性も...。
「むふふ」
 妄想をしはするが清次は理解している。出会えた二人なのだから、自分が入る隙は無いと。まだ出会えていない自分には、この地球上のどこかで出会うべく女が待っているのだとも。


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