最愛 閑話b8
アニメ fifth stage 1話夏休みを存分に満喫し昼夜逆転している啓介は、午後7時前にやっと起きた。夕食なのか朝食なのか分からない食事を摂ったあと走りに行くのがここ最近の流れだ。ふと思い出したことがあり、兄の部屋を訪ねる。
「アニキ、偽物どうなった?」
「ナンバーは割れた。あとは、」
「ね!見て〜!」
会話の途中で現れたのは名前だった。家まで走って来たのか近付いてくる首筋に汗が伝っていて、椅子に座る涼介はごくり、と唾を飲み下す。差し出されたのは一枚の写真で、ベッドから腰を上げた啓介も手元を覗いた。
「啓介と拓海くんの偽物に写真撮ってもらったの!」
心底愉快だと笑う名前に啓介は呆れて言葉を無くした。写真の中では、今と同じ顔の名前が偽物二人の間に挟まれピースしている。
「まさか名前が遭遇するとはな。話しておけばよかった。しかも写真まで撮って...ちっ」
「お前遊んでんじゃねえ!藤原なんか殴られたんだぞ!」
涼介の舌打ちは啓介の怒声に掻き消される。声量には現れていないが、拓海の件にプラスされたその案件のおかげで、涼介の怒りはかなりのものに膨れ上がった。
「殴られた?偽物に?何で?」
「いや偽物が女関係でやらかしてたらしくて、そのダチに」
「へ、へ〜、そっかあ。災難だねえ」
様子が変わりどもる名前に涼介は瞳を細める。低い声が空気を震わせた。
「......お前もそういう誘いをされたんだな?」
涼介の内に燃え盛る怒りの炎を感じ啓介は身震いする。名前も僅かに後退りするが、すかさず涼介に腕を掴まれた。
「ちっ、されたのか。おい、啓介、そいつら潰すぞ。すぐ探し出す」
今度こそ聞こえた涼介の舌打ちに、名前は慌てて腕を掴む手を握り返し、空いた手で鞄の中から紙切れを取り出した。
「ま、待って!涼介くん、落ち着いて!わたしだってただ遊んでただけじゃないから。たまには二人の役に立とうと思って、ちゃんと電話番号ゲットしてきたの。はい、啓介どうぞ!涼介くんにはわたし!ね、だから落ち着いて?」
涼介は話を最後まで聞かず膝の上に名前を乗せると、後ろから抱き締め伝う汗を舐めた。
「っ!?」
啓介がいる前で、しかも汗を舐められた、と気付き名前は慌てて立ち上がろうとするが、腕の力が強く抜け出せない。
「わ、わたし汗かいてるし臭うかもだから!離して!」
「気にしないし、名前のいい匂いがする」
「っ〜!」
焦り暴れる妹と頬を緩める兄の姿に啓介は嘆息する。やはりこの先数年、いや何十年とこれを見せ続けられるのだろうと。
「それにしても、電話番号手に入れるなんてお手柄だな」
啓介が言えば、脱出を諦め大人しくしていた名前は首を振る。
「さっきはああ言ったけど、ほんとはくれただけなの」
「何だそういうことかよ」
「写真撮ってもらったあとに偽拓海と偽啓介どっちが好みか聞かれたから、わたしはいつでも高橋兄弟推しですって言ったら偽啓介がくれた」
「そこは俺推しでいいだろ」
むっとする涼介を宥めるように、名前は回された腕を優しく撫でた。
「さすがにその場にいない人を言ったら連絡先くれなかったかもよ?あ、でも、偽涼介まで出てくるならちょっと見たかったかも」
「お前だけの本物がいるんだから偽物なんかいらないだろ」
「......うん、いらない」
「...どうするか決まったら教えてくれ」
夏の暑さにも負けないくらい熱い二人にうんざりして、啓介はそれだけ言うと部屋を出る。階段横の開け放たれた窓からは、二人を羨み愛の矛先を求める蝉の咽び泣きが聞こえていた。
「今日はどこの峠に行くんですか?どうしても会いたくて...。会いに行ってもいいですか?」
名前が偽啓介との連絡を終え、出没先が東秩父と知った一行は出発の準備を始める。
「こんな台詞言ったことを知れば、涼介は怒り狂うだろうな」
「ああ、間違いなく俺は殴られる。名前、絶対アニキには言うんじゃねえぞ」
史浩の言葉に啓介は声を低くして名前を振り返る。
「啓介...、もうそれ言うの三回目だよ」
「そうだっけか。まあ、お前が関わるとアニキはこえーから。くれぐれも頼むぜ」
FDに乗り込む啓介に名前が続くのを見て史浩は首を傾げる。
「名前ちゃんも行くの?そりゃあ会いに行くことにはなってるけど...」
「わたしもこれで終わりのつもりだったんですけど、涼介くんがしっかり訂正してこいって。あ、お手柄だったって今度トリプルのアイス食べに連れていってくれるんですよ!トリプル食べられるのは勿論嬉しいけど、涼介くんがトリプル持って食べてるの想像したら、そっちのほうが面白くて楽しみなんです!」
「お前助手席側から乗れよ」
「こっちに来ちゃったの〜。ほらシートずらして」
「仕方ねえなあ」
口ではしぶしぶだが啓介がドアを開けてすぐシートに手を掛けていたのを史浩は見ていた。
「確かに涼介が三段のアイス持ってるのは面白いな」
「でもまあ、啓介も史浩さんも似合わないですけどね」
「似合う男のがおかしいだろ」
「賢太くんは似合うよ?あと樹くんも」
「あいつらと俺を一緒にすんな」
「うわっ、啓介失礼!」
幼馴染みならではの子気味いいやり取りをする二人に、史浩は口元を緩める。しかしふと涼介が零した悩みを思い出して、確かにこれはいくらあいつでも不安になるかもな、と指を押し付ける名前とそれを頬に大人しく受ける啓介に苦笑した。
辿り着いた定峰峠では偽物が慌てて逃げようとしている。一足先にここを走り抜けた拓海のハチロクを見て、本物が来たと理解したようだが、それをみすみす逃がす作戦にはなっていない。車を降りた啓介が凄めば、偽物は地面に膝を折った。史浩と拓海が言葉を投げ、樹が土下座をさせていると、名前はそちらに歩み寄っていく。
「あ、おい、名前。あんま近寄んな。アニキに...」
渉との話を中断して啓介は声を掛けるが途中で口を噤んだ。
あの兄がナンパしてきた男ともう一度会うのを許すのはおかしい。さっきは聞き流したが、訂正してこいとはいったい何のことなのか。
啓介は長い脚を動かすと、偽物たちの前にしゃがむ名前の横に立った。顔を見て、あ、と声が零されると、名前はにこやかに笑い電話番号の書かれた紙切れを偽啓介に差し出す。
「もうこれいらないから返すね。あと、ほんとはわたし、涼介推しなの」
すっ、と柔らかな表情が消え去ると、近くにいた者は寒さに襲われた。
「......もし涼介くんの偽物がいたら、今頃何してたか分かんないや」
その言葉に史浩は自信なさげに言った涼介を再び思い出す。
「名前はいつか啓介を好きになるんじゃないかとたまに思う。啓介だってそうなるかもしれない。そうしたら俺に勝ち目は無いんだろうな」
そんなことを考えていたことも、ましてそれを口にすることも、到底涼介らしくはなかった。どれだけ不安に思っていたのか史浩には分からないが、それが杞憂であることは今の名前を見れば明らかだ。あとで教えてやろう、と史浩は頼りになるチームリーダーの照れる姿を楽しみに思った。
立ち上がり踵を返す名前を宥めるように、啓介は腰を抱き顔を覗く。先日は涼介の偽物がいたら面白いと笑っていたのが嘘のようだ。
「やっぱり大切な人たちと、その人たちの努力を知りもしないで侮辱されるのは我慢出来ない」
「...ありがとな」
ぽつりと零された言葉に、啓介は苛立ちがすっと消えるのを感じ額に口付けた。
「美人はやっぱ怒らすと怖いなあ」
「おい、樹!史浩さん今の涼介さんには...」
「言わないよ。それに言ったとしても涼介は怒らない。きっと名前ちゃんは怒っても可愛いとか、デレデレするに決まってるからな」
「あー...、そうですね」
容易に想像が出来た二人は、やれやれ、と肩を落とした。