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 高校最後の文化祭の幕が下りようとしていた。積み上げた木の中で炎が高く燃えはじめると、それを合図にマイクの音が校庭へ響く。
「それでは文化祭最後のイベント!お約束、後夜祭告白タイムです!告白する人は前に出てください!」
 数人がちらほらと座っていた集団から抜け出し炎の前へ進んだ。マイクを持った放送委員は一人の男子生徒を見て高らかに言った。
「大鳥は今年も彼にお願いしましょう!それでは一年生から、」
 放送委員が一年生から順にマイクを向けた。クラスと名前、想い人の名前を告げると、放送委員の呼び掛けでその人物が前に出てくる。好きだから付き合って欲しいと、シンプルに伝えるものもあれば、どんなところが好きか、きっかけは何だったかなんて語る生徒までいて、校庭は夜の静けさを忘れ騒がしくなった。静かになるのは断られた一瞬だけで、それもすぐにドンマイ!新しい恋探せよ!なんて励ましの声で遠いものになる。
 マイクは次々に生徒の声を想い人に届け、ついに最後の一人へと辿り着いた。
「では、去年に引き続き大鳥は」
 放送委員が言い終わらないうちに常連の生徒は声を張り上げた。
「苗字名前さん!」
 学校のマドンナの名を叫んだのが名乗らずとも知れた元サッカー部のキャプテンということもあり、これまでにない歓声が上がる。しかし、いくつもの期待の視線を受ける名前の心はここには無かった。
「名前、行かないと」
 唯一名前の心のうちを知る親友は、三度フラれる彼を哀れに思いながら遠ざかる背を見送った。
「例年なら競合する苗字さんですが...。彼ほどのイケメンが去年、一昨年とフラれたので皆さんすっかり自信を無くしたのでしょうか?」
 唸る放送委員に彼は揺らめく炎に背後から照らされながら笑みを浮かべた。
「実は汚い手を使いました。どうしても苗字さんの彼氏になりたくて」
 目の前に立った名前は驚きに瞬きを繰り返す。普段の物憂げな瞳より幼さを感じさせる視線に彼は心臓を煩くさせ、衝動に突き動かされるままに口を開いた。
「何度フラれても、望む返事が貰えるまで何度でも告白します」
 初めて名前が彼に告白されたのは二年前だ。二度目の去年、三度目の今。二年連続で告白してくれる人はいても、三度目をしてくれたのは彼だけだ。どうやらそれは彼がそうなるようしただけだったけれど。
 彼は優しい人だ。体調を崩し階段で蹲っていたのを保健室まで連れて行ってくれて、持ってきた傘が無くなったときには駅まで送ってくれた。必死な顔で、真っ赤な顔で助けてくれた。決して想いを押し付けないで、名前の心を一番大切にしてくれる優しい人。
「でも叶うのなら今日から彼氏にしてください!よろしくお願いします!」
 きっと彼なら好きになれる。
 差し出された彼の手を名前はそっと握った。

「お前のは刷り込みだ。おふくろにずっと俺と結婚して欲しいって言われてたから、そうなるもんだって俺のこと好きになっただけだ。もしそうじゃなかったとしても、俺にとってお前は幼馴染みとか妹でしかないんだよ」
 ガタンと派手に椅子を鳴らして名前は目覚めた。耳にこびりついた啓介の言葉が何度も容赦無く胸を抉る。
 あの日の啓介はハチロクに負けて気が立っていた。だから初めて向けられた荒い声が告げているのは、今まで明かされなかった啓介の本心だと容易に理解出来た。
「毎日毎日好きだって言われて、うっとおしいんだよ」
 呆ける名前を置いて啓介が家を出たのを最後に、二人は一ヶ月以上会っていないし、きっとこれからすれ違うことはあっても言葉を交わすことは無いのだろう。
「ヤケになったって良いことないよ」
 見透かした親友の一言は心に突き刺さった。自分に良くないことはもちろん、相手にも失礼だとそう気付かされたからだ。
 それでも彼といる時間は名前を穏やかにさせた。明るく素直で、スポーツマンらしく爽やか。しかし手を振って別れた途端、優しい彼の好意を利用している罪悪感にありもしない胸の傷が痛んだ。
「おまたせ」
「あ...、もう用事済んだの?」
 教室に彼が顔を覗かせると名前は椅子から立ち上がる。自然な動作で名前のカバンを持つと、彼は夕陽に照らされながら笑みを浮かべた。
「帰ろう」
「うん」
 差し出され重ねた手は大きくて温かい。でも啓介の手はもっと大きくて熱い。この手はとても安心感を与えてくれるようなものではなかった。
 ああ、なんて最低な女だろう。
 名前が利用している駅に着き彼は足を止めた。
「苗字さん」
 名前は俯けていた顔を上げた。道中気の無い返事ばかりをしていた名前に対し、彼は僅かにも苛立ちを感じた様子は無い。優しさだけが宿された瞳には情けない名前の顔が映っていた。
「俺、待てるから。三年も一人で想い続けてたんだから、隣にいてくれるならいつまでだって待てるよ」
 一心に想いを向けてくれる彼に応えたいと確かに思った。
 繋がっていただけの伸びた長い影が重なろうとする。目を見開いた彼の顔を真近に名前は瞼を下ろした。
「名前!」
 名前は強い力で腕を引かれた痛みに顔を顰め、彼は唐突な名前の行動と現れた金髪の男に茫然とする。仰いだ夕暮れの空と同じくらい怒りで顔を赤くした啓介が彼を睨み付けていた。
「け、すけ」
「名前に気安く触んな」
 啓介は威圧的に言うと名前の掴んだままの腕を引き歩き出した。ぎりぎりと握りこまれた腕が悲鳴を上げ、やっと解放されたと思った瞬間に、今度は強い力で背中を押され助手席の座面に激突する。痛みに呻きながらも脚を持ち上げられてしまえば、無様にアスファルトへ落ちないよう必死になった。
 シートの足元で驚きに固まった名前を運転席から啓介が冷たく見下ろす。あまりの恐ろしさに名前の頬がひくりと引き攣った。
「出すぞ」
 結局シートに腰を下ろさないまま車は名前の家の前で止まった。啓介の冷たい視線が再び向けられて名前は慌ててドアへと手を伸ばす。
「あいつ誰だよ。何されそうだったか分かってんのか?」
 苛立ちを露わにした態度の理由が名前には分からなかった。
「......啓介、それ本気で言ってるの?」
「あ?」
「彼氏だよ」
 今度頬を引き攣らせたのは啓介だった。一瞬頭が真っ白になって、次いで襲ってきたのは胸の痛みを伴う喪失感。
「彼氏にキスしようとしてた。それを啓介が邪魔した。それ以外にある?」
「っ...、お前、俺が好きなんじゃなかったのかよ」
「いつまでも自分を好きになってくれない人のこと、想い続けられるわけないじゃん。啓介のこと好きでいるの、もう辛い」
「名前っ」
 二人ともが悲痛な声音をしていた。ドアを開けて路面に下り立つ背中に啓介は手を伸ばす。今まで散々触れてきた小さな身体がどうしようもなく遠かった。
「啓介に好きになってもらって、どうなりたいとかもう考えてない。だからさ、今までどおり妹として接してね。おやすみ」
「クソっ!」
 家の中へ名前が消えると啓介は盛大な舌打ちをした。大事な妹が誰かのものになり、そして妹からキスをしようとしていた事実に堪え難い苦しみを感じる。
 もやもやと腹の奥で燻っている気持ちの悪い何かを吹き飛ばそうと、いつもより早い時間から峠へ向かったのに名前の表情が脳に焼きついて消えない。 ワンテンポ遅れた危険な突っ込みに、今日はもうやめろと涼介は咎めた。
「アニキ...」
 厳つい弟が雨にうたれる捨て猫のような弱々しい存在に思えて兄はぎょっとした。後にも先にもこんな表情を見たことは...、いや、一度だけある。今でこそこんな弟だが、ガキ大将であった頃には自分よりも幼い少女に怪我をさせたことに恐怖し似た表情を浮かべていた。直感的に妹が絡んでいると判断して、兄はくすりと笑みを零す。
「どうした。名前に嫌いとでも言われたか?」
「...んなことは言われてねえけど...。知らねえ間に彼氏作ってやがった。しかも、......キスしようとしてて、それ見たらなんか分かんねえけどすげえイライラして...」
「そうか。名前は何て?」
「......今までどおり妹として接しろって」
「本当に一番堪えたのはそれじゃないんだろ?」
 涼介は一瞬啓介の鼻に皺が寄ったのを見逃さなかった。愛車にもたれかかり頭を下げると、咥えていた煙草が落ちそうになり啓介は咄嗟に噛み付く。口内に散らばった葉と共に忌々しげに言葉を吐き出した。
「俺のこと好きでいるのが辛いって」
「もう答えは出てるじゃないか。今日は遅いから会いに行くなら明日にしろよ。俺はもう何本か走って帰るから」
 一帯に響くロータリーサウンド。普段は心を落ち着かせるその音が啓介をかき乱す。FDには名前との思い出が多すぎた。


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