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 目覚まし時計のぶつかった頬に、蹴りあげられた顎。二人の息子の顔を彩る赤を見て母は溜息を吐いた。
「いいか、バカ息子たち。どっちかが名前ちゃんと結婚しないと、お前らの言う出世払いを投資同然として払ってきた全額利子付きで返済させるから」
 腕を組み仁王立ちする母に涼介は小さく笑ってみせた。
「それは大丈夫。啓介は名前を誰にも渡したくないらしいから、つまりそういうことだろ」
「よくやった啓介!じゃあ、思う存分殴られて蹴られてプロポーズしてこい!」
「なんっでだよ!!?」
 無理矢理家の外へと押し出されるのをどうにか堪え、啓介は二階の自室へと逃げる。ベッドに寝転んだ頭の中では愛しい女から言われた大嫌いの言葉が反響し、じくじくと胸を痛めつけていた。

 翌夕。忍び寄る宵闇が夕焼けを呑みこもうとする下を啓介は歩いていた。目と鼻の先にある苗字家に明かりは灯っていない。しかし玄関の鍵はかかっておらず、不用心すぎると眉を顰めながら足を踏み入れた。この家へ入るのは随分久しぶりで、何もかもが小さくなったことに違和感を覚えてしまう。
「名前、入るぞ」
 薄暗い部屋で名前は膝を抱えていた。
「名前」
 返事が無ければ反応も無い。どんなに怒っていても頬を膨らませたり、睨んできたり、何かしら反応を見せていた今までとの違いに、どうすればいいのか見当もつかない。何にせよ大嫌いの一言を嘘だと、好きだと訂正させたかった。
「なあ、俺のこと本当に嫌いなのか」
 思ったより声はか細いものになった。不安な心を晒してしまったことに情けなさを感じながらも、それほどに大切で失いたくない存在なのだと啓介は思い知る。
「アニキに見られたこと気にしてんだろ。全部脱いでたわけじゃねえし、そんな見えてねえって」
 細い肩が震え、名前の言葉を待つ啓介の耳に悲痛な声が届いた。
「......初めてだったんだよ」
 今にも泣きだしてしまいそうな悲しみの濁流を感じ取り、啓介は膝を抱えた手を取る。しかしすぐにそれは振り払われた。
「彼氏とも別れてない。でも啓介のことが好きだから受け入れたの。それなのに、人に見せたことない身体を、恥ずかしいのに堪えて啓介だけに見せたはずなのに、涼介くんにも見られちゃった。そ、それに、啓介のか、顔が...っ...!」
 名前は眉を寄せ、瞳をきつく瞑り、唇を噛み締めている。どう慰めるかと啓介は乱暴に頭を掻いた。
「あ〜、アニキな、驚きすぎて何も覚えてないって言ってたから。だから見られてないも同然だろ。気にする必要ないって」
「それでも事実としては残ってる!わたしは啓介以外には見られたくない...。それに啓介が今までわたし以外の人としたとか、見せてきたって思うだけで嫌だよ。もし啓介がわたしだったら平気なの?」
「......んなこと言ったて、今更仕方ねえもんは仕方ねえだろ」
「......なに、それ...」
 薄く開かれた瞳に張っていた膜が剥がれ落ちた。冷たい視線に啓介がやっちまったと、慌てて別の言葉を紡ごうとしても、もう遅かった。
「もう、いい。冷めた。価値観の違い」
「はあ?おい、冷めたってふざけんなよ」
「ふざけてるのは啓介だよ...!」
 名前の涙が啓介のズボンを濡らす。そこを叩きながら名前は震える声で言葉を続けた。
「今日学校で何て言われたと思う!?アバズレとかマタユルとか言われたんだよ!相手は人気のサッカー部の元主将で凄くいい人、その優しさに付け込んでる悪女だって!当然の報いだと思ったし、啓介のこと好きだから我慢しなきゃって...!でも...、でも、啓介がそんなんじゃ、わたし堪えられないよ...っっ」
 大粒の涙を流し時折足を叩く名前は駄々を捏ねる子供のようで、そうさせているのは自分の考え無しの言動だと啓介はやっと理解した。
「悪い。俺お前の立場も気持ちも考えたこと無かった。最低だよな。ごめん、ごめんな」
 嫌がる身体を強く抱き締め、啓介は努めて優しい声で話す。しかしそれは泣きそうに震える声を誤魔化すためのものだった。
「でも嫌いはやめてくれ...。お前にそんなん言われたら死にそうなくらい痛えよ。......なあ、俺のこと好きか?」
 無理矢理に胸に埋めさせていた頭が僅かに動く。力を緩めると腕の中から泣き濡れた顔で名前は啓介を見上げた。
 啓介は幼い日に初めて出会った時と同じ顔をしていた。不安と恐怖でいっぱいで、でもそれを表に出すことは許されなくてどうにか堪えようとしている、そんな顔。シャープなラインを描く顎からそっと頬へと手を移動させて、名前は大切な一言だけを呟いた。
「......好き」
 どんなことが起きても、この気持ちが変わることはない。
 啓介のほっとした表情に確かに愛されているのだと、名前は漸く実感出来た。薄い唇に吸い付くと、一瞬の間の後で首裏に手が回り強く触れ合わされる。息苦しくなり胸を叩けば、硬い筋肉の感触に愛している男の腕の中にいるのだと、全身が燃えるように熱くなった。今までしてきたハグなどのじゃれあいとは違う。気恥ずかしくて、でも嬉しくて、幸せだと心から言える、そんな触れ合い。
 離れる時に唇をペロリと舐められ、名前は堪らず啓介の首元へ顔を埋める。胸板と逞しい腕に抱きすくめられ、ほう、と息を吐き出した。
「夢みたい。啓介が恋人だなんて」
 幸せに浸る名前が零した言葉に啓介はぴしりと固まる。愛し合う二人としてか、付き合っていると捉えて恋人という言葉を用いたのか。
「......名前」
 今のうちにはっきりしておかなければならない。あとから食い違いに気付こうものなら取り返しがつかないことになるだろう。
 もう一度蹴られることを覚悟して啓介は恐る恐る口を開いた。
「今は走りに集中したいんだ。だから...、お前とは付き合えない」
 擦り寄る動きを繰り返していた頭が動きを止め、啓介は知らず喉を鳴らす。たった数秒がとてつもなく長い時間に思えた。
「...は?」
 離れた顔は俯き髪に隠れていて表情は見えない。聞いたことのない低い声も相俟って、男への怨念で成仏できない女の霊のようだ。背筋に冷たいものが走り、啓介は引き攣る喉でどうにか声を発した。
「悪いとは思ってる。でも、」
「付き合う気ないのに、彼氏がいる女に告白するってなに」
「他の奴には奪われたくなかった」
「ありえない。ありえないよ、ほんと。啓介なんて...」
 嫌いと口走りそうになって名前は唇を強く噛む。そう言われると感じ取った啓介が身を硬くしたのが分かり、落ち着こうと深呼吸した。
「啓介のこと好きだよ。でも暫くは顔も見たくない」
 静かな口調ではっきりと告げ離れようとする身体に啓介は手を伸ばす。触れる直前、それを拒むように身を捩られ虚しく宙を掴んだ。
「暫く会わないけどいちおう言っておく。付き合ってないんだから全部今までと一緒だよ。キスもセックスも無し」
「はっ!?嘘だろ!?」
「啓介の付き合わないの定義が分かんない。それですることしてたらただのセフレじゃん」
 真っ当なことを年下に指摘され啓介は項垂れた。想いが通じ合っても素肌を重ねられないのは、男にとって堪えられない苦痛だ。しかしこれも自分が決めたこと。必ず結果を出して、それからもう一度告白しよう。
「あんまり待たされると気移りしちゃうかも。しっかり繋ぎ止めておいてよね、お兄ちゃん」
 流し目と艶やかな笑みに啓介は呆気に取られた。一度好きと自覚した女に、変わらず妹として接することなど不可能だ。しかも高校を卒業すれば、その世界は一気に広がりを見せる。その背中が遠ざかっていくかもしれないと思うと、途端に怖くなった。確かな名のある関係で繋がっていないと、瞬きの間にきっとどこかへ消えてしまう。
「......やっぱ無理。付き合って」
 走りも名前も大事にすればいい。付き合ってなかったとして、どうせ名前が誰かに奪われやしないか不安で走りに集中出来ないだろうし、それなら傍に置いていたほうがずっといい。
「俺を選んだこと後悔させないから」
 この先も続く長い人生で何度だって、一緒にいてよかった、愛されて幸せだと言わせてみせる。
 啓介はすくった名前の左手の薬指に誓を立て口付けた。優しく緩んだ瞳に見つめられ、名前はそっと瞼を下ろす。たった一言の、全ての想いと誓が乗せられた言葉の応えとして深いキスを交わした。

end.


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