最愛6
 可愛くて仕方が無かった。緒美と同い年の小さな女の子。妹みたいに可愛がっていたはずなのに、年を重ねる毎に綺麗になっていく名前の笑顔に魅了され、自分を慕ってくれることが嬉しくて他の男といるところを想像しただけで頭がおかしくなりそうになる。
 自覚してしまえば後は早かった。外堀を埋めるために啓介と緒美に打ち明け、名前に近寄るゴミ虫は蹴散らす。綺麗な名前にはバレないように。そうしていたはずだったのに。
 深く溜息を吐き身体を起こすと、涼介は駆け付けた母に苦く笑った。
「弟に殴られるなんてみっともないところを見られたな」
 母の瞳は困惑に揺れる。兄を慕ってやまない啓介が涼介を殴るなんて信じ難いことだし、今まで暴力に無縁だった涼介の両頬に違った打撲痕があるのだから。
「とりあえず冷やさないと...。頭痛とかはないわね?」
「ああ、自分でやるよ」
「たまには母親らしいことさせて」
 涼介は肩を竦ませ、部屋を出る母の後ろについてリビングへと降りた。医師で多忙な母は幼少期にあまり構ってやれず、親に甘えるどころか弟の面倒まで見ていた涼介に酷く気を遣うことがあった。そんな必要はないが仕方ないか、と涼介は息を吐く。
 怪我の治療をしてもらうのはいつぶりだろうか。あまり怪我をすることは無かったけれど、救急箱の使用頻度が一番高かったのはやんちゃな啓介の治療をしてやる涼介だ。
 名前にもよく絆創膏を貼ってやった。怪我をする度に泣く姿を見ていると段々自分が護ってやらないと、と思うようになった。それなのに今は自分が酷く傷付けてしまっている。受け取ってもらえなかったリングは婚約指輪として渡したつもりだった。しかし今の名前には物で釣る機嫌取りに思われただろうか。どうして上手くいかない。名前が大人になるまで待たなかったから?でもあの時動かなければ名前は誰かのものになっていた。それだけは許せない。名前に触れていいのは俺の他にはいない。名前の笑顔を一番近くで見るのも、泣くのを慰めるのも、傷付けていいのだって俺だけだ。
「!」
 傷付けていい?
「ははっ...」
 俺は狂ってる。夥しい量の写真が最たる例だろう。それに処女キラーと呼ばれる原因となったのも名前のためだ。俺の中心は名前で、俺と名前は一つ。一つにならなくちゃいけない。狂っていてもいい。名前が傍に居てくれるなら。溢れ続ける名前への愛は名前以外に受け取ることは出来ない。それならぶつけてしまおう。名前が勘弁してくれと言うまで、ぶつけてしまえばいい。
 母から一通りの治療を受け礼を告げると自室へ戻り、椅子を起こして机に向かった。歪んでしまったのか座り心地の悪い椅子は今度買い直すことにして、成人した時に父から送られた万年筆を手に取る。便箋なんてものはないからルーズリーフに万年筆を滑らせた。

 翌朝名前が起きると、カーテンが閉まったままの部屋は随分と明るかった。時計を確認すれば10時を過ぎていて、家には誰もいなかった。母は気を利かせて起こさなかったようだ。心配をかけているのに何も聞いてこない母の優しさに感謝してベッドの上を転がる。起きてしまえば頭の中はまたぐちゃぐちゃと汚れていく。
 クラスメイトから聞かされた酷い話は真実だった。あの人は女の気持ちを安易に踏み躙り傷付けた。同じ女としてそんな男を許すことは出来ないし最低の人間だと思う。それなのに堪らなくあの人が、涼介が好きなのだ。最低の人間なのに、どうして嫌いになれないのか。辛くて苦しくて、愛おしくて。また涙が零れそうになって考えるのをやめた。
 リビングには母の置き手紙があった。
"仕事に行ってきます。手紙を預かったので置いておきます"
「...手紙」
 置き手紙の横に置かれた薄い青色の封筒の下方には"高橋病院"と印刷がされている。中には二つ折りにされたルーズリーフが入っていた。
"名前へ"
 見慣れた綺麗な涼介の文字が綴られている事に気付き、名前は思わず手紙から手を離した。ひらりと床に落ちたそれを見る勇気が出ない。拒絶したのは自分のはずなのに、もしそこに涼介からの拒絶が記されていればきっと堪えることは出来ないだろう。震え出す手を握り締めて恐怖を身体の奥に押し込める。拒絶されても名前の心は決まっていた。最低の人間だと知ってもなお、涼介の事が変わらず好きなのだ。手紙を拾い上げるとその文字を目で追った。

"名前へ
 まず手紙を読んでくれてありがとう
 俺がしてきたことは最低な事だと分かっているけれど、それでもどうか最後まで読んで欲しい
 俺が処女ばかりとしてきたのは初めて名前とする時に名前に痛い思いをして欲しくなかったからだ
 押し付けがましいと思うかもしれないが、これが俺の真意だ
 名前の初めては絶対に俺が貰うと決めていたし、俺も初めては名前が良かったから、女と付き合うことはしなかったし、手を繋いだり、ハグやキスはしたことがない
 利用した女には悪いと思う
でも最初に一晩だけで絶対に付き合わないと、そう断りを入れて、それでもと望んだ女としかしていない
 俺が愛しているのは名前だけで、他の女を抱いたからといってその想いが少しでもぶれたことは一度もない
 名前と付き合えることになってからその行為は勿論やめた
 これだけの事をしておいて、信じては貰えないかもしれない
 それでも会って話をさせて欲しい
 愛してる
 涼介"

 涼介の文字は所々乱れていて、涼介の心情が現れているようだった。名前が不安なのと同じで涼介も今までの行いを省みて、名前がどう思っているのかを不安に感じている。それが分かって名前の胸中に湧き上がってきたのは拒絶されなかった事への安堵ではなく、どろどろとした嫉妬だった。名前の知らない涼介の身体を知る女達への醜い嫉妬。自分よりも大人っぽく魅惑的な女とそのヴァギナにペニスを突き入れ腰を振る涼介。そんな姿が勝手に浮かび上がっては消えを繰り返す。
「はあ、むかつく」
 涼介も涼介が抱いてきた女達も。
 名前は電話の前へ移動し受話器を取った。長いコール音にイライラし思わず舌打ちをした時、ぷつりとコール音は途切れた。
「...もしもし?」
 電話で起こされたのか不機嫌そうな声に再び舌打ちをしそうになりながら名前は相手の名を呼んだ。
「啓介」
「は?......名前!?」
「ちっ、煩い。耳元で叫ばないで」
「舌打ち?え?はあ?」
 啓介は随分と変わった名前の態度に困惑し百面相する。ベッドへ突っ伏したままだった身体を起こし、クローゼットを開くと着替えを取り出す。とりあえず人格が迷子になっている名前の様子を見に行かねば、と。
「ねえ、涼介は今家にいる?」
「兄貴?今大学で講義受けてるはずだけど...七時頃には帰ってくんじゃねえかな」
「そう、パパとママは?」
「親父たちはそれぞれ泊まりの学会とかで帰ってこねえよ」
「じゃあ八時に行くからさ、もし外に出ようとしてたら涼介には言わないで引き止めててよ。それでわたしが来たら啓介は家出ていって」
「兄貴は当分大学以外で外には出ねえよ。ってか何で俺追い出されんだ」
「わたし今日涼介に夜這いしに行くから」
「はあっ!?」
「だから耳元で叫ぶな。涼介には言わないでよ」
 無機質な音が続くようになり啓介は耳に当てていた携帯を暫く無言で見つめた。荒れているようだが、最後に会った時の壊れそうな感じは嘘だったかのように跡形も無く消え失せた名前に啓介は深く息を吐き出した。
「ひとまず安心していいのかもな。でもなあ、夜這いか...」
 尊敬する兄と、妹のように可愛がってきた名前。その二人が自分の隣の部屋でよろしくするというのか。考えただけで妙な気待ちになって頭を振る。二度寝をする気にも、今更大学へ行く気にもならなくて、啓介はこれからの時間をどう過ごすか思案した。
 名前は電話を終えると大きく背伸びと深呼吸をした。窓を開けると風が髪をさらっていくのが酷く心地良い。啓介同様今更高校へ行く気にもならず遅めの朝食を摂ることにする。
 ご飯を食べ終わったら爪を磨こう。夕方には少し長めにお風呂に入って体の隅々まで綺麗にして、髪もブローしてスキンケアも怠らないようにしよう。そうして一番綺麗な姿で涼介に抱いてもらおう。抱いてもらえないのなら、こちらが抱いてしまえばいい。狂ってると罵られても狂わせたのはお前だと、言いくるめてしまえばいい。
 涼介の身体に刻まれた汚い女達の臭いが、感触が、記憶が全て消えるまで離してなんかやらない。


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