最愛 閑話b10-1
 研究の打ち上げは居酒屋で行うのが常だが今日は特別だった。夏休みとは名ばかりの学生達がやっと夏を感じられるのだから。
 ぞろぞろと束になって向かった夏祭り会場で、一人憂鬱そうな顔をしていた涼介に香織はすぐ気が付いた。
「もしかして来たくなかった?」
「あ、いや...そういうわけでは...」
「じゃあ...、彼女と約束してたんだ」
 苦笑した涼介に香織は胸が痛んだ。涼介と出会って初めて知った好きという感情に往く宛は無い。小さく零された吐息は可憐な少女に焦がれる男のものだった。
「......誘われたけど研究で行けそうにないって断ってしまって。浴衣を着るって張り切っていたから」
「それは残念。きっと可愛いだろうね」
「俺は見れないのに通りすがりの男は見れるなんておかしい」
「...ほんと、涼介くんって彼女のことになると普段とは全然違う」
 自分でも自覚があるのか視線が逃げた。再び浴衣姿へ想いを馳せる涼介に香織は唇を噛み締める。たとえ二人きりではなかったとしても、恋い慕う男と夏祭りを共にできると感じた嬉しさは急速に萎えてしまった。
「...え」
「涼介くん?」
 不意に声を漏らし立ち止まった涼介を香織は訝しむ。行き交う人波の中に何を見つけたのだろうか。
「すみません、ここで」
 言い終わらないうちに人で塞がれた道の隙間を走り抜ける。一瞬開けた視界の奥で涼介が白い浴衣から伸びる手を掴んだのが見えた。

「香織と涼介は少し似ている気がする」
 きっかけは学内で昼食を共にしていた婚約者のそんな言葉だった。香織は知らない名前に首を傾げる。
「同じ医学部の後輩。年は香織より一つ下で、車雑誌眺めてるとこに声掛けてからよくつるんでるんだ」
「そう...」
 名ばかりの婚約者という関係に自分は疑問と嫌悪を感じているのに、その婚約者は気楽なものだ。利害の一致があればいつか自分に気持ちを向けてもらえると本当に思っているのだから。
 涼介はこんな奴だ、とあれこれ話しているのを曖昧に聞きながらそろそろ一人になりたいと考える。
「年下なのに落ち着いてるし、クールな奴ってのはこいつだなあって思うよ。しかもとびきりのイケメンだぜ。学内じゃすっかり有名なのに、知らないなんてやっぱり香織だよな」
 わたしの何を知ってるの。口から零れそうになった言葉を飲み込んで香織は椅子から立ち上がった。
「次の授業の予習をしておきたいので」
「ん、ああ。帰りはどうする?」
「今日は研究室に」
「そうか。じゃあ、また明日の昼に」
 いつもと同じ言葉を掛ける北条とそれに小さく頷き離れる香織。それが崩れることになる二人の出会いは唐突で、やはり北條と香織が共に昼食をとっている時だった。
「お、涼介」
「あ...北条先輩...と、?」
 視線を受けて香織はその人物の本質を見極めるかのように瞳を細めた。凛々しい眉に涼し気な瞳、理髪そうなのに少し影がある。
「前にちょっと話しただろう。香織だ」
「ああ...。高橋涼介です。北条先輩には勉学でも趣味でもお世話になってます」
 緩んだ口元がいかにこの男を慕っているか物語っていて香織は素直に驚いた。失礼だが人間としてのできは年下の涼介のほうが幾分も上であるように思えたからだ。そして直感的に自分と同じだとも思った。そして総合病院を経営する両親のもとに長男として生まれたと知ってからは、義務的に、若しくは強制的に決められた道を進んでいるのだと確信を抱いた。
 でも違った。同時に突き付けられたのは、所詮自分も人の善し悪しを上辺で決めつける周囲と同じだったということ。
 一目惚れだと宣う北条も、勝手に進む道を決める父親も。
 皆上辺だけしか見ていない。わたしの心がどうあるかなんて知りもしないのに、愛してる、お前のためだと世迷いごとをただ一つの現実のように語る。誰も本当のわたしなんて知らないくせに。
 荒野のように枯れ果て、夢も希望も無い香織の心。それを癒す雨のようにじんわりと、そして確実に恋の種を発芽させたのが涼介だった。
 達観的な冷めた瞳、凛としていながらも気怠そうな横顔。同年代ではあまりいない落ち着いた雰囲気の男性。
 研究室に二人になったとき、否と返事が返ってくることを確信して香織は問い掛けた。
「親の跡を継ぐことが本当にしたいこと?」
 期待を込めた視線に気付き涼介は戸惑った。数え切れないほど向けられてきたそれが、香織から向けられるとは思いもしなかったからだ。
「君は本当に医者なんかになりたくて、うちの大学にいるの?」
 涼介にではなく自身に問い掛けるような言葉に、涼介は香織の胸に巣食う仄暗い感情を知った。期待にそぐわない答えを返せば香織はより追い詰められると理解はしている。しかし気持ちに応えられない涼介が嘘を吐く理由は無かった。
「最初は親の後を継ぐのが当然だと思っていました。でも今は違う。父が医者だったことに、医者という仕事に感謝しているんです」
 弟が怪我をさせ、父が整形外科医であったからこそ続いた縁。幼く愛おしい妹が唯一無二の女へと変わるのにそう時間はかからなかった。美しく成長していく姿に際限無く愛おしさは増し、自分以外の誰かがその瞳に映り、また映している事実に嫉妬する。歪んだ愛だと言われても構わない。それ以外の愛し方など知らないし、逃がすつもりは無いのだから。
「そ、うなんだ...。決めつけて話しちゃってごめんね」
「いえ。親が医者だったら大抵はそうですから」
 気にした様子の無い涼介に香織は肩の力を抜く。しかし、所詮父や婚約者と同じだった自分への嫌悪感と、結局操り人形の心は誰も理解してくれないという孤独感に苛まれた。それを忘れさせたのは、やはり涼介ただ一人だった。
 依存患者が欲しがる麻薬のように、香織も涼介に溺れていった。それでもヤクが切れ、ふっと視界が開けた時、涼介の心に存在する少女に気付いてしまった。
 深夜の研究室。机に伏せ皆が仮眠を取る中、一人離れたところに座り手帳に挟んだ写真を眺める涼介の姿に、いくら想っても叶わないのだと突き付けられた。

「あれ?涼介はどこ行った?」
 イカ焼きを片手に近寄って来た北条は、香織の潤んだ瞳になんとはなしに問い掛けたことを悔いた。
「......彼女のところに」
「......そうか。なら、お前も帰るか?送る」
 北条は昼食を断るようになった香織にも、そうなったきっかけである涼介にも態度を変えなかった。ただ静かに想いを宿した瞳で香織を見つめ続け、こうして時折寄り添った。
「あなたがそうやって、わたしを甘やかすから...」
だからわたしは、いつまでも涼介くんを諦められない。
「涼介くん...」
 呼ぶとまるで声が届いたかのように涼介が首を動かした。しかしその視線の行き先は当然隣にいる可憐な少女だった。
 きっとこれで諦めるから。だから、最後に一つだけ大きな願いを叶えたい。

「わたし処女だよ。だから、だから涼介くん、わたしを一度だけ抱いて」

 はらはらと涙する香織に涼介は顔を顰め首を左右に振る。
 初めて出会った場所で恋慕は静かに断ち切られた。


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