最愛 閑話b10-2
 熱されたアスファルトを風が撫でる。浴衣から覗く項を汗が流れて名前は重い息を吐き出した。
「...遅い...」
 待ち人が二人一遍に来ないとは何事だろうか。徐々に寄っていく眉間に気付いてそこを揉みほぐす。
 補習が今日までに終わったら夏祭りに一緒に行こう、と言い出したのは緒美だった。解答欄が一つずつズレていた世界史と、涼介に教えて貰ったから大丈夫とテスト一週間前に勉強したのを最後に臨んだ数学、一夜漬けの結果テスト中に眠ってしまった生物。補習の出来次第で短縮も延長もありえたそれを、どうにか日程通り終えた緒美から連絡があったのは昨日のことだ。約束していた通り夏祭りに行ける嬉しさと、忙しくしている涼介に浴衣姿を見せられない寂しさが同時に湧いた。
 一緒に来る予定だった啓介は、出来た用事を済ませてから来る、と愛車に乗ってどこかへ行ってしまったし、補習は昨日で終わっているはずの緒美は何故か来ない。行き交う人々が笑い合っているのを見て、何だか虚しくなってくる。
 ぷくっ、と知らず頬を膨らませた時、ぽんと肩を叩かれた。しかし振り返って見た顔は待ち人のどちらのものでもなかった。
「ねえ、相手来ないんでしょ?それなら俺らと回らない?」
 ちりちりパーマに暑苦しいロン毛がニタニタと笑っていて、名前は後退り男の手を肩から落とした。
「結構です」
「何で?ほっぺた膨らませて、眉間にシワも寄せてたじゃん」
「イライラしてるより俺らと遊んだ方が楽しいよ?」
 再び男の手が伸びてきて名前は顔を歪める。しかしそれは名前に辿り着くより早く掴み上げられた。
「おい、てめえら、誰に汚ねえ手で触ろうとしてんだ?ああ?」
「ってえっ!?何だよお前らっ!?」
「てめえらこそ誰だ、こらあっっ!?」
 突然現れた厳つい集団はぐるりと男達を取り囲んだ。その輪には必然的に名前も入っていて、自分のことを知っているふうではあったが、見ず知らずの集団に恐怖を覚える。道が無い程に犇めき合っていた人々が遠巻きにこちらを眺めては去って行き、気を抜けば零してしまいそうな悲鳴を名前はどうにか堪えた。
「名前!」
 手を掴まれるのと同時に降ってきたのは大好きな声だった。待ち人よりも待っていたその人物の登場に名前は涙を滲ませる。
「涼介くん...!」
「とにかく今はここから...」
 涼介は言葉を紡ぎながらカタギではなさそうな集団に目をやった。二人組の男達はいつの間にかそれぞれ胸倉を掴まれ怯えている。逃げようと涼介が名前の手をより強く握った時、再び人の群れから抜け出て向かってくる者の姿があった。
「おいおい、何やってんだよ」
 眉を顰めながらやってきたのは啓介だった。胸ぐらを掴んでいる男達の手を数度叩くと呆れたように言った。
「祭りの日くらいもめ事起こすのやめろよな」
「でもこいつら名前さんナンパしてたんすよ!」
「そうだぜ。こんなに可愛い名前ちゃんを怖がらせてよお!」
「怖がらせてんのはお前らも一緒だろ」
「はあ?んなこたぁねえだろ」
 集団から一斉に視線を向けられた名前は、肩を跳ねさせ涼介の胸へと縋り付く。腕の力が緩んだのを見計らい二人組の男達は脱兎のごとく逃げ出した。
「啓介、お前の知り合いか?」
 涼介は胸に顔を埋めて動かなくなった名前の髪を崩さないようにしながら撫でる。頷いた啓介は立てた親指をすっと集団に向けた。
「いつもつるんでる奴らだよ。どうやら名前を助けてくれたらしいけど、名前は俺のダチだって知らねえから怖かったみてえだな」
 傍に寄り名前の背を叩くと、弱々しい力でシャツが握られて啓介は笑みを浮かべる。しかし涼介の手によって啓介のものは振り払われ、至近距離で鋭い眼光をぶつけられた。
「何笑ってるんだ。お前の知り合いがいたから良かったけどなあ、どこかに連れて行かれるかもしれなかったんだぞ。遅れて来て一体何してた。お前が付き添うって言うから俺は名前と緒美が祭りに行くのを許したんだぞ」
「わ、悪い...。用事がちょっと延びちまって。名前もごめんな?こっちに向かってる最中に緒美から連絡あったんだよ。あっちのじいさんの法要が明日あって前乗りするんだったのを忘れてたらしい」
 不機嫌そうに吐き出された溜息に啓介は身を竦ませる。兄から怒りをぶつけられることは珍しく、いつまでも慣れることが無い。
「アニキ、ここにいるってことは時間あるんだろ?名前と回れよ。俺はこいつらと行くからさ。早く行こうぜ」
 二人にしてやるから機嫌直せよな、と声なき声を残し啓介がいそいそと離れていくのを見て涼介はもう一度溜息を吐いた。それから久しぶりに抱き締めた幼馴染みに頬擦りをして、耳元に唇を寄せる。
「俺がもう少し早く来てやれればよかった」
「涼介くんが来てくれただけで嬉しかったよ」
「......今日はもう帰るか?」
 涼介が問い掛けると名前は顔を上げ、ゆるゆると首を振った。僅かに濡れた目尻が屋台の照明を反射してきらきらと輝く。
「涼介くんさえよかったら、一緒に回りたい」
「もちろん。俺でよかったら」
 顔全体を綻ばせ、嬉しさをこれでもかと露わにした名前に、涼介は細指を絡め取った。
「それと、浴衣似合ってる。可愛い」
 一瞬で真っ赤に染まった頬を繋いでいない方の指で突くと淡く笑む。ますます色味を濃くしながら、名前は口を開いては閉じ何かを言い淀んだ。
「あの、ね...」
 羞恥のあまり潤む瞳が向けられて涼介の鼓動は煩くなる。身長差のため女子から上目で見られるのは慣れているはずなのに、この少女が相手だと逸る気持ちを抑えられない。妹だから、この子が高校を卒業してから、そう自分に言い聞かせるのもそろそろ限界が近い。狂おしいほどの愛しさは内から涼介の身を焼き苦しませる。
「助けてくれてありがとう。ヒーローみたいだった。でも涼介くんには王子様って言った方がしっくりくるね」
 涼介は思わぬ言葉に瞬く。王子だと褒められたのに気付いた時、口から零れそうになったクサい台詞を喉の奥に押し込めた。
「なら、俺の愛車は白馬だな。はぐれないよう繋いだままでいよう」
 込み上げる気持ちが溢れてしまわないように、涼介は理由を付けて絡めた手の力を強める。すっ、と名前が俯いて、その表情は窺えなくなった。弱々しく握り返されたのが嬉しくて涼介は口元を緩める。反対に名前の表情は悲しげだった。
 やっぱり、いつまでも幼い妹でしかないんだ。
 優しくされる度、勘違いしそうになるのを妹だからと言い聞かせて、そうして苦しくなる。一人の女性として傍に置いて欲しいのに、非の打ちどころがない兄にこの想いが届くはずもないと打ちのめされて。
「涼介くん...」
 向けられた切れ長の瞳が優しげに細まる。それだけで胸がいっぱいになって、これ以上のことを望むのは愚か者のすることだと踏み止まる。
 いつか、いつか彼に素敵な相手が現れるその時まで、妹という特別でいられれば十分だ。これ以上を望んで気持ちを吐露すれば、今までの思い出も温もりも全てが過去の遺物となりただ薄れゆく。それならばこの風に吹かれるように身を任せ、少しでも長く傍にいたい。
「どうした?」
「......なんでもない。はぐれたら、探してくれる?」
「俺が、」
 ぐっ、と涼介は息を詰める。先程と同じように言葉を飲み込もうとして、それをやめた。
「俺がお前の手を離すはずないだろう。この先も、ずっとだ」

──俺が王子なら、将来俺だけのお姫様になってくれるか。


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