罪を喰らう1
 カランコロンと軽いドアベルの音を聞く。店員が発した、いらっしゃいませ、の声に聞き覚えがある気がして、ドアを閉めるのもそこそこに名前は前を向いた。
「あれ、あなたは...」
「え、名前、知り合いなの?」
 名前は園子の言葉に返事をすることなく、淡く笑む金髪の男に頭を下げた。後ろで控える蘭も驚いている。
「先日は申し訳ありませんでした。その後お変わりはありませんか?」
「大丈夫ですよ。あなたは?」
 爽やかな笑顔も耳触りの良い柔らかな声も昨日とはまるで違う。しかしその持ち主は間違いなくあの金髪の青年だった。
「わたしも大丈夫です。謝罪もそこそこに立ち去ってしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「怪我がないならいいんですよ。もう気にしないでください。こちらへどうぞ」
 ソファ席に促され名前と園子が窓際の席に、園子の正面に蘭が腰を下ろした。
「それにしてもお二人の知り合いだったとは...、ご学友ですか?」
「いえ、」
「幼馴染み!年上の幼馴染みなんです!」
 名前の言葉を遮り園子は声を大にして言う。蘭と園子が制服なのに対し名前は私服姿だったため、何の気なしに問い掛けた結果園子の勢いに圧倒される。きょとんとした姿に蘭は焦るが、すぐに男の表情は緩んだ。
「僕は安室透。ここでアルバイトをしながら、しがない探偵をしています」
「あなたが...」
「?」
 再び安室はきょとんとしてみせる。29歳と聞いてきたが、ふと見せる表情が幼く可愛らしい。
「わたしは苗字名前といいます。あなたのお話を二人に聞いて依頼に参りました」
 名前の言葉に安室は瞳を細める。落ち着いているが、まだ歳若い女だからこそ言葉の重みがより伝わってきた。
「差し迫っているようですね。他にお客さんもいませんから、このまま聞かせていただけますか」
「気を使っていただいたようですみません。ただその前に...」
 言いづらそうに眉を寄せる名前に安室は首を傾げる。
「注文いいですか?実は安室さんを紹介してもらうお礼に、この二人にご馳走することになってて」
「へ」
 申し訳なさそうに話す名前に安室は笑う。見れば蘭と園子はメニューを閉じていて注文は既に決まっているようだった。
「ええ、勿論。ご注文ありがとうございます。何になさいますか?」
 安室が問うと待ってました、とばかりに園子はケーキをいくつも頼む。有名財閥の令嬢とは思えない態度に名前は呆れ返る。
「蘭も好きなの頼んでね。安室さんに相談したらって言ってくれたのは蘭なんだから。便乗しただけの園子ばっかり得させたらダメ」
「じゃあ...」
 蘭が一つ追加して、名前は安室のおすすめを頼む。その際、安室にも好きなものを食べてくださいと言うのは忘れない。無理をお願いしているのだからこれくらいは当然だろう。
 メニューがテーブルの上に出揃い、安室が正面に座ると名前は早速切り出した。
「ストーカーをどうにかしたくて」
 少し低くなった声が発したその単語を安室は繰り返す。
「ストーカー...ですか」
「実は先日もあとをつけられていて、それで...」
「まさかそれって遊んだ日の帰り!?だから送ろうかって言ったのよ!」
「...ごめんなさい...」
 園子にクリームの残るフォークを向けて怒られ名前は頭を下げる。小さくなる姿は可愛いが、怖い思いをしたのに加え年下から怒られるのが可哀想で安室は間に割って入った。
「園子さん、落ち着いて。車で引きそうになった僕が言うことではありませんが、怖い思いをしたんだから名前さんも十分分かっているはずですよ」
「引かれそうになったって何?それも聞いてないよ?」
「蘭さん...」
 静かに怒りを燃やす蘭を安室が落ち着かせ、やっと話は本題へ入る。
「それじゃあ、順を追って聞きますね。いつからどういった行為をされているんですか?」
「最初は...、丁度二ヶ月ほど前です。帰宅中に後をつけられました。毎日じゃないし気のせいだと思ってはいたんですが、一ヶ月前今度は...これが」
 名前はカバンの中から封筒を出し、安室へ向けて机の上を滑らせる。では、と短く伝えて安室が中身を確認すると、それは何も書かれていない婚姻届だった。同封されている折り畳まれた紙を開くと、とても綺麗とは言い難い字が並んでいる。

"名前を書いたら渡しに来てね。君と僕は運命の赤い糸で結ばれているから、僕の名前が書いていなくても、きっと僕を見つけられるよ"

 文字を書き、紙を折り、封をする時、きっと込めたのは愛情だったろう。しかし受け取り手からすれば、目に見えない影からの慕情は恐怖でしかない。それなのに安室は淡々と話す名前に違和感を覚える。これだけの行為をされているのに、恐怖をコントロールしている姿は異常と言っていい。
「ご家族には?」
「......両親は海外に。不安にさせるだけですから、まだ伝えていません」
 これだ。親に心配させたくない気持ちが彼女の恐怖心を抑えている。
「これだけじゃ警察が動けないのも分かっているので、一度安室さんにご相談させていただけたらと思ったんです。やっぱり人に話すとすっきりしますね。何だか安心しました」
 貼り付けられた笑みに安室は眉根を寄せる。警察には相談出来ないから、解決法が無いからと我慢するなんてさせたくなかった。
「まだ何かありますよね。話してください。怖いのを我慢しなくていいんですよ。僕も出来る限りのことをします。あなたを助けさせてください」
 安室の真摯な瞳で見つめられて、氷のように固まっていた名前の恐怖心は溶け瞳からぽたぽたと溢れ出した。
「最近あとをつけられる回数が格段に増えたんです。月に数度だったのが週に三、四回になって...それに段々距離も近くなっていて...それが怖くて仕方ない」
 立ち上がった安室は震える名前の肩を優しい手付きで撫でた。
「話してくれてありがとうございます。恐らくこれをわたして一ヶ月経ち、しびれを切らしているんでしょう。解決するまで一人になることは控えてください。学校の帰りは僕が迎えに行きます。ただどうしても無理な日はタクシーで帰っていただけますか?」
「そんな...!タクシーで帰れますから大丈夫です...!」
「しかし」
「ありがとうございます。お仕事中に話を聞いてもらった上、迎えなんてお願い出来ません。わたしは大丈夫ですから」
 名前の言葉に安室は渋々頷く。
 これが普通の反応なのだろうが、自分に関しては女から願ってくることが多く、断られることが無いため少しやりづらい。もっと頼ってくれていい。
 親に心配かけまいと自分を鼓舞する健気さが安室の心を強く揺さぶった。
「それでは契約書類を準備してくるので、また明日来ていただけますか?その際に身分証も、」
「あ...すみません。今紛失してしまっていて...。無いと契約は難しいでしょうか?」
「本来であれば難しいところですが...。蘭さんと園子さんのお知り合いということなので大丈夫ですよ」
 ほっとした表情に安堵したのは安室も同じだった。落ち着いているように見えた名前が、実際は気を張りつめさせていたのだと気付いたからだ。
「ただ本当に紛失ですか?もしかして気付かない間に盗まれていたなんてことは...」
「自宅で見たのを最後に持ち出していないので、それは無いかと」
「では見つかり次第教えてくださいね。それから、僕の連絡先です。登録していてください」
「分かりました」
 名刺を受け取る名前の表情は随分明るくなっていた。
 少しは不安が拭えただろうか、そうであったなら良いと安室は隠された表情が無いか探る。しかし安心したらお腹が空いた、と笑う名前の笑顔は本物だった。
 安室がおすすめとして提供したハムサンドとチョコレートケーキをぺろりと平らげ、名前は園子のケーキにまでフォークを伸ばす。その姿を見つめる安室の瞳は酷く優しいものだった。


BACK