罪を喰らう7
 父から電話が来たのは半月ぶりのことだ。時差があるため普段はメッセージのやり取りをしていたが事は急を要するようで、名前は休日の昼下がり出掛ける準備を始めた。
 コンシェルジュから荷物が届いたと連絡が来るなり、ロビーへ下りそれを受け取ると配車されたタクシーに乗り込む。向かうは両親が叔母と経営している会社で、この荷物を届けるためだ。
 ランジェリーブランド代表を務める父はニューヨークにいるデザイナーと試作までを行い、父の妹である叔母がその仕上がりを確認する。
 思ったよりも時間がかかり、焦った父は会社に送るべき試作品を自宅へと送り間違え、モデルのスケジュールは今更変更出来ないと、叔母にしこたま怒られたらしい。そのため名前はおつかいとして、両親のいない会社を久しぶりに訪れた。
 叔母におおいに感謝されながら、届けたばかりの下着が専属のフィッティングモデル達に手渡されるのを眺める。サイズ表記は同じなのに、着てみるとサイズが少し違う。そのズレが学生の頃から嫌いだったという叔母は徹底してモデルへの聞き取りを行う。妊娠や出産が無い限りサイズ毎に一人のモデルを専任として決めたのもそのためだ。
「名前、久しぶりに着てみない?あんたと同じサイズの子が結婚するから、早めに後任決めときたいんだけどなあ」
 セットの下着片手ににやにやと近付いてくる叔母に名前は苦笑する。
 どうしてもモデルが来れないとのことで、一度だけ名前がその仕事をしたことがあった。着心地の感想と数枚の撮影だけだが、叔母とカメラマンはかなり気に入ったようで会う度誘ってくるがやはり恥ずかしさが勝ちいつも首を振る。
 ランジェリーブランドと言っても過激なものは無い。そうでなければ身内に着せたりはしないだろう。あくまで素材は女性の身体であり下品なデザインでそれを貶めてはいけない、と母を抱き締め豪語した父の姿は未だ記憶に新しい。
「残念。気が向いたらいつでも教えてね。久しぶりにご飯でもどう?」
「あ!行きたい〜!」
「じゃあ、もう少し仕事するから、下のコンビニで待っててくれる?」
「うん!」
 叔母の誘いを了承した名前は知り合いに挨拶を済ませるとフロアを後にした。
 両親との待ち合わせのためによく会社は訪れていたが、それも無くなったためこの複合ビルに入るコンビニに来るのも久しぶりだ。弾んだ男性店員の声にレジへ顔を向けると、にこにことした笑顔で見つめられ、名前は小さく頭を下げた。とりあえず飲み物だけ、とジュースを眺めたが温かいものが飲みたくてレジへと向かう。まるでずっと見られていたかのように店員と視線が絡み、名前は一瞬身を竦めた。
「いらっしゃいませ。カフェラテのSサイズでよろしかったですか?」
「え...」
「違いました?以前はよく頼まれてましたよね?」
「あ、はい...。えっと、それをお願いします」
「かしこまりました。最近は姿を見なかったのでどうされたのかなって思ってたんです。学生さんですか?」
「...そうです」
 店員は話しながら会計を進め釣り銭を差し出す。怖々と名前が出した手を下から握り支えると、もう片方の手で釣り銭を掌に乗せた。にんまりと浮かべられた笑顔に反射的に手を引くと、あ、と店員は声を上げた。
「カップを切らしてしまったみたいです。お持ちしますので、掛けてお待ちいただけますか」
 そう言うと男は奥へと消えて行った。気持ち悪さの残る手を服にごしごしと擦り付けて、入口近くのイートインスペースに座り携帯を取り出す。叔母から届いていたメッセージは、食事はまた今度にしようというものだった。急ぎの案件でも出来てしまったのだろうと残念に思いながら返事を送り、とりあえずカフェラテを飲み終えて、それから昼食をと考えると安室の顔が浮かんだ。同時に携帯の画面が切り替わり、その名が表示されると思わず肩が跳ねた。
「ぁ...もしもし...」
「こんにちは、安室です。今大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
 カフェラテを運んできた店員に頭を下げながら答えれば、ふふ、と爽やかな笑い声が鼓膜を揺らした。
「何だか電話は緊張しますね。いつも直接会っているのに。──会えないのがもどかしい」
「っ、」
「会いたいです。実は今マンションにいるんですけど、コンシェルジュの方からお話を聞いて...。そちらに迎えに行ってもいいですか?一緒に買い物をして、それから僕が料理するところを見て欲しいんです。少しでもあなたにかっこいい姿を見せたい」
 言われたことのない甘い言葉に頭がくらくらする。垂れ目がちなのに凛々しい顔が柔らかく微笑んでいるのが容易に想像出来て、名前は考えるより先に口を開いていた。
「......待ってます。迎えに来てください」
「ええ、今すぐに」
 電話を切ると名前は深く息を吐き出す。安室が言ったように、何度も顔を合わせているのに初めての電話は気恥ずかしく緊張した。細く湯気を上げるカップを手に取り口を付けると少し落ち着いて、一緒に買い物に行くんだから料理のリクエストが出来ると心を踊らせた。
 安室からビルの前に着いたとメッセージが入り、名前は腰を上げた。飲み干したカップを捨てようと手を伸ばした時、すっと店員がそれを奪う。
「あ...、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
「...?」
 急ぎ足でコンビニを出てビルのエントランスも抜けると、目の前に見慣れた車が停まっていた。
「こんにちは、どうぞ」
 促されシートに腰を下ろすと、安室の鋭い視線が外に向けられていることに気付いた。
「安室さん...?」
「......ストーカーはあいつですね」
「え?」
 振り返ろうとした名前の頬を両手で包み安室は耳に唇を寄せる。
「見ない方がいい。凄い形相をしていますから」
 安室は名前に待っているよう伝えると車を降り、ビル内のコンビニへと進んで行く。思わずそちらに視線を向けるが、安室の直線上にいる店員の姿は名前に見えない。ストーカーだと断言した直後に自ら近付いていくのが信じられなかった。安室の身に何かあってはと考えると、自分が体験したのとは違う種類の恐怖が押し寄せて来る。強く握った拳を胸に抱き、笑って帰ってくる姿を必死で思い浮かべた。
 名前がそんなふうになっているとも知らず、安室は睨み付けてくる店員が立つレジへと真っ直ぐに向かった。ある程度近付くと店員の顔には薄っぺらな笑顔が貼り付けられ、もっと上手くやれ下手くそ、と内心で悪態を吐く。
「すみません。先程の女性と同じものを一つ」
「カフェラテですね、かしこまりました」
「彼女、よくカフェラテを買うんですか?」
「......ええ、以前はよく」
「実は僕の恋人なんです」
 ひくり、と僅かに男の顔が引き攣ったのを安室は見逃さなかった。更に煽るように言葉を続ける。
「僕が働いている喫茶店の常連さんなんですけど、彼女から告白してくれて最近付き合いだしたんです。喫茶店でいつも頼むのはコーヒーなんですよね。カフェラテを取り扱っていないもので...」
 するすると吐いた嘘に釣り銭とカップが乱暴に渡される。気にしていない素振りでマシンを操作しながら、安室はにこやかに言った。
「もし僕に会うために苦手なコーヒーを頼んでいたんだとしたら...、僕って凄く愛されてますね」
 背中に突き刺さる視線を感じながら安室は車へと戻る。油に熱されていたチキンを投げ付けられることも、さすまたで追撃されることも無く、からりと笑う安室に名前は声を鋭くした。
「犯人かもって人に喧嘩を売りに行かないでください...!何かあったらどうするんですか!」
 運転席に身を収めるなり、縋るように腕を掴まれて安室は嬉しくなる。心配してくれていることは勿論、名前から距離を縮め触れられて。
「大丈夫ですよ。僕は強いですから」
 安室は噛み締められた名前の唇を頬に手を添え優しく撫でる。
 視界の端に映る男がレジカウンターを叩きつけるのが見えた。


BACK