罪を喰らう8
 カゴの乗ったカートを名前が押し、食材を安室が選ぶ。何が食べたい、ならあれも作ろう、と笑い合い店内を進む二人を見て、主婦はうちとは大違いだと夫への不満を漏らし、老夫婦は楽しそうだと頬を緩めた。そのことについては触れないものの、それぞれ耳にした二人は初々しく微笑み合う。
 殺伐とした日常はやはり異質なのだと安室は改めて実感する。ぽかぽかとうちから温もる感覚がむず痒くて、隣の笑顔が愛しくて、カートに乗る手をそっと取った。向けられた瞳が一瞬見開いて、それから恥ずかしげに逸らされる。柔く握り返されると堪らない気持ちになって、自分には到底不釣り合いな日常の幸福がどうしようもなく欲しくなった。
 名前もまるで夢の中にいるようだと思った。自分に向けられる優しい瞳も好きだと語りかけてくるような声音も甘く、あの出来事を忘れさせるには十分に、実際の安室は真摯な男性だと知ることが出来た。何か打ち明けられない秘密を抱えていることは確かで、本当は自分のことなんか好きじゃなくて、ただ罪滅ぼしのためそんなふうに接してくれているだけかもしれないけれどそれでいい。悪夢のようなストーカーと共にこの温もりも消えてしまうなら、素敵な夢だったとそう割り切れる。だから今だけ──。
 名前の自宅へと帰り二人でキッチンに並ぶ。自分の家に安室がいることに名前は心臓をドキドキさせながら、言われた通りにサラダ用のレタスをちぎり、告げられた分量で調味料を混ぜドレッシングを作った。その間にも安室は慣れた手つきでいくつも調理をこなす。
「どうですか?名前さんのために料理する僕はかっこいいですか?」
 にこにこと笑いながら、あっという間に料理を完成させた安室に名前は頬を膨らませる。
「そりゃあ、かっこいいですよ。でも安室さんの料理の腕が常人超えしてるのは、わたしの分もとったからです!」
「ははっ、それならやっぱりあなたの傍にいて、あなたの分も料理をしなければいけませんね」
「むぅ...」
 照れて赤くなった頬に唇を寄せると、茫然とした名前がそこを押さえる。
「さあ、食べましょう?」
 とびっきりの甘い笑顔で安室が首を傾げると、ぎゅっと目を固く瞑った後で名前は背伸びをした。安室の頬に柔らかなものが触れて、体勢を戻し普段の高さにある名前の顔は下を向いている。さらりと落ちた髪の隙間から覗く耳が赤くて、安室もぶわっと顔全体が熱くなるのを感じた。
「......わたし、もう...」
 安室さん無しじゃ生きられないんですよ。
 名前はその言葉を咄嗟に飲み込んだ。
 口にしてしまえばもう後戻りは出来ない。夢が覚め、安室がいなくなったとき自分は壊れてしまう。でも、今だけは少し甘えてもいいだろうか。
 肩に額を預ければぐっと腰が引き寄せられた。
「名前さん、好きです」
 髪に埋めたられた鼻がすん、と息を吸ったあと凛とした声が聞こえた。
「ストーカーの件に方が着いたら、お話したいことがあります」
「......はい」
 夢は近いうちに覚める。そう告げられているようだった。律儀な彼は何も言わず去るなんてことはしないらしい。
 食事と皿洗いを済ませたあと、二人はソファに並んで腰掛けていた。身体はぴたりとくっつき、指も固く絡められている。喋り続けているのはたいして面白くないバラエティだけで、二人に会話は無いが不思議と居心地は良い。甘えるように名前の頭が肩に乗ると、安室も少し首を傾ける。やがて小さな寝息が聞こえてくると、旋毛にキスを落とし安室も瞳を瞑った。
 微睡みの中を漂っていた安室はインターホンの音に覚醒した。名前が起きなかったことにほっとしつつ、夜の訪問者を確認するため静かにソファから腰を上げる。
 モニターに映る男はキャップを目深に被っていて顔は見えないが、その体型からやはりあの店員だと安室は確信した。時刻は夜10時半前で、コンビニのホワイトボードに書かれていたシフトで男のバイトが10時に終わるのも、あのコンビニからここまで歩いて15分程だというのも確認済みだ。
 応答せずにいると再度呼び出しすることなく男は消えた。少し遠くで何かの落ちる音がして、ポストにまた手紙を入れたのだろうと推測する。安室は眠る名前を抱き上げると、探し当てた寝室に運んでやった。
 脅迫状と呼ぶに相応しい恋文をもう名前に見せたくはない。静かに眠る姿はいつもよりずっと幼く、多忙な両親に心配をかけないため強くあろうと被っていた仮面はとうに剥がれ落ちた。少しずつ顔を覗かせるようになった寂しさと甘えは、名前をか弱い少女へと戻した。例えそれが自分の前だけであったとしても、彼女がありのままの姿で安心出来るなら、そのための居場所であり続けたい。
 額にかかる前髪を払うと、晒されたそこに唇を落とす。あと一回口付けたら帰ろう、そう何度も言い聞かせて時間は刻々と過ぎていった。

 翌日、安室のいない部屋で目覚めた名前は、いつの間にか準備されていた弁当を手にエントランスへ降りる。部屋の数だけ並ぶポストに異変は感じられないが、もしあの店員がストーカーなら何か入っていると確信があった。
 恐る恐る伸ばした手を留め具にかけて思い切り開くもそこには何も無かった。
「やっぱり違ったんだ...」
 ほっとした自分にどうしようもない奴だと悪態を吐く。ストーカーに怯え、早くいなくなって欲しいと思っているのは紛れもない事実だ。しかし、実際に特定されたストーカーが、何気なく過ごしてきた日常に潜んでいた人物であると突き付けられるのが怖かった。
 後をつけたのはただ誰かを怖がらせたかっただけなのかもしれない。それがたまたまわたしで、思ったより怖がるものだから面白くなって婚姻届まで準備して、きっとぶつけようのないストレスが溜まっていたからそうしただけでストーカーじゃないのかもしれない。最近はタクシーで帰宅しているからターゲットがいなくなってつまらないと、もう馬鹿な行動はやめたかもしれない。このまま何事も無かったかのようになればそれが一番良い。
 自動ドアを潜った先には低地の街並みが見える。その上にはからり、と爽やかな晴れ空が広がっていて、何だか良いことがありそうな、そんな気分にさせられた。


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