罪を喰らう9
 ポアロに来て欲しいとのメッセージに気付いたのは放課後になってからだった。愛しの彼から呼び出し?とニヤニヤする園子とそれに呆れ気味の蘭を伴いポアロへ着いたのは五時前で、少し早いけど夕食にしようと名前はオムライスを、それならと蘭はコナンを連れて来てそれぞれナポリタンとカレーを、園子はチーズケーキを頼んだ。
 注文を受けた安室がカウンターへ消えると、名前は逃げようとするコナンをすかさず膝の上に抱き上げた。
「コナンくん〜!久しぶりだね!」
「は、恥ずかしいから離して〜!」
 小さくなっているとはいえ、同級生に抱き締められコナンは暴れる。しかし一向に腕の力が緩められることは無い。
「男共がして欲しくて仕方の無い名前からの抱擁をもらえるのはあんただけよ。今のうちに十分してもらっときなさい」
「そうだよ、コナンくん。名前はすっごくモテるんだよ」
「あ、安室さん...!」
 助けを求めてコナンが呼べば安室は笑った。推理中の姿からは想像のつかない、紅潮し焦った表情が新鮮だったからだ。しかし安室がそんな態度をとるならコナンにも考えはある。
「名前姉ちゃん、僕オムライスも食べたくなっちゃった」
「わたしの分けてあげるね!」
 頬擦りされたコナンは安室に舌を出す。やはり油断ならない小学生だと、安室は笑みを浮かべながらもこめかみをひくつかせた。

 閉店の作業を終えた安室は名前の手を引いてポアロを出ると、いつもとは違う方向に歩き出した。
「安室さん?」
「少し歩きませんか?」
 有無を言わさず強く引かれ、名前は半歩後ろを行く。どこに向かっているのかは分からないが段々と人が疎らになり、それに比例するように街灯も減ってきた。会話は無く見上げた顔も影になっていて表情が伺えない。何かがおかしい、怖い。そう思った時には木に覆われた暗い公園に連れ込まれていた。
 身体を貫き心を裂くあの痛みを思い出し足を止める。繋いでいた手に力が込められたかと思うと、次の瞬間聞こえてきたのは男の怒鳴り声だった。
「誰なんだよ、お前!名前から離れろ!」
「それはこちらの台詞ですね。彼女はあなたの名前も知りませんよ」
 突然のことに名前は身を縮め、抱いていた恐怖心は対峙する男へと対象を変えた。怒気と憎悪で恐ろしく歪んだ形相に尻もちをつくと、男は安室に向けていた視線を名前へと移す。
「名前、その勘違い男に言ってやれよ。お前は遊びだって、本命は俺だって...!何とか言えよ!あれは持ってきたんだろうなあ!?何のつもりでそいつを連れてきたんだよ!?」
 怯える名前に男は声を荒らげる。しかし言葉の意味も分からず、震えるしかない名前に代わり安室が答えた。
「昨夜残していった脅迫文なら、彼女には見せていませんよ。見せる必要もありませんからね」
「勝手に見てんじゃねえよ!ストーカー野郎が!」
「ストーカーはどちらですか。脅迫文をポストに入れるしか出来ないあなたと、彼女の部屋でそれを確認していた僕と。誰に聞いても明らかですよ」
 顔を引きつらせた男は怒りに震える腕を動かし、ポケットから取り出したカッターの刃を伸ばす。ひゅっ、と名前の呼吸が乱れた時、男は地面を蹴り安室に襲い掛かった。あっという間に男は地面に転がり、木の影から飛び出した男たちに取り押さえられる。
「名前さん」
 場にそぐわぬ清々しい笑みを浮かべる安室を名前はただ見詰める。しゃがんで目の前に来た唇が大丈夫ですかと問い掛けると涙が頬を伝った。
「あ、むろ、さ...。怪我、?」
「僕は大丈夫ですよ。名前さんも怪我は無いですか?脚や腕を痛めていたりは?それともお尻が痛いですか?」
 冗談めかして言う安室に飛び付くと、名前は堪えていた嗚咽を解放した。
「ご、ごめんなさい、怖かったですよね」
「怪我した、ら!どうす...か!」
 ぐずぐずとしがみついて泣く名前が襲われたことを怖がっているのではなく、自分の身を案じていたのだと知り、安室は優しく身体を抱いた。焦ったり嬉しそうにする上司に、風見と男を取り押さえる二人の部下は、降谷さんも人間なのだなあと不思議な心地になる。
「ほら、立て」
 風見が促すと身体を打ち付けた痛みから僅かに回復した男は暴れた。しかしその手には既に手錠がかけられ、両脇をがっちりと掴まれている。
「名前!誤解を解いてくれ!俺が逮捕されてもいいのかよ!?」
「誤解も何も、殺人未遂だろ」
「違う!そのストーカー男が名前を誑かして奪おうとするから!俺は二人の未来を守ろうとしたんだ!」
「静かにしろ!」
「ちょっと待ってくれよ...、本当に俺がストーカーなのか?だってプロポーズしてきたのは彼女からだぜ?俺に生理止めてくれって、俺のカフェオレを美味しそうに飲んでたのに俺がストーカーなわけないだろ...!俺と名前は愛し合ってるんだよ!」
「早く連れて行け」
 安室は聞くに堪えない言葉に名前の耳を手で覆い指示するが、嗚咽は止まり聞こえてしまったのは明らかだった。
 男の叫び声が遠ざかると安室は名前を支え立ち上がらせるが、もとから華奢な身体は一層頼りなさを増していた。失礼しますと断り横抱きにして愛車を停めたいつものパーキングへと向かうが、放心している名前は何の反応も示さなかった。
 警視庁に出向くと、入れ違いで風見たち三人が頭を下げ出て行く。引き渡しは無事終えたようだ。
「安室くん...。被害者はその子かね」
「ええ」
 見送りをしていた目暮にそのまま案内されて安室は名前の手を引いた。未だ鼻をすすり怯えているのが可哀想で、愛しさとあの男への怒りはとどまるところを知らない。
 佐藤と高木にそれぞれ聴取をするよう目暮が指示を出すが、名前は安室の腕にしがみつき首を振った。
「いや...」
「目暮警部、僕も彼女に付き添いたいです。どうしても個人聴取が必要なら、もう少し日にちを置いてからでも構いませんか」
「ああ、君が隣にいるほうが落ち着いて話せそうだ。佐藤くん、頼むよ」
「はい」
 佐藤に入るよう促されたのは白を基調とした明るい部屋で、見慣れた薄暗い聴取室では無いことに安室は胸を撫で下ろす。あんな陰気臭いところでは、いくら女性刑事の聴取でも居心地は悪い。隣合ってパイプ椅子に腰掛けると、間に机を挟んだ佐藤が口を開いた。
「名前ちゃん、怖かったわね。もうストーカーは捕まったから安心してね」
「っ、...はいっ...」
 再びぽろぽろと涙を流し始めた名前は安室の左肩に頭を預けその先の手を握る。骨張った温かい指が絡められると、どうしようもなく安心した。
「僕から話させていただきますね。何があったかは全て聞いているので」
「分かりました。ではまず──」
 佐藤が問い掛け安室が答える。恐怖が蘇り時折身体を震わす名前を気遣いながら進め、昨夜のことを話すにあたり安室は一度言葉を止める。名前には知らないままでいて欲しかった。また後日にしてもらおうか、そう考えていると繋いだ手を名前が引く。
「安室さん、教えてください。これはわたしの問題で、安室さんに甘えてばかりじゃいけないと思います」
「...でも...」
 紙に書き連ねられた汚い言葉をやはり見せたくはない。治らない心の傷を自ら負おうとしなくていい。
「安室さん」
 意志を曲げるつもりは無いと、真っ直ぐに見つめられて安室は嘆息する。車のダッシュボードから持って来ていたそれを机の上に並べて置くと、飛び込んできた恐ろしい言葉の意味を理解して名前と佐藤は息を飲んだ。

"あの男は誰だ"
"俺という婚約者がいるのに、他の男といるな"
"明日21時に×××公園東入口すぐのベンチへ婚姻届を持って来い"
"もし来なかったらお前も男も殺す"
"脅しなんかじゃない 俺を裏切ればお前たちを絶対に殺す"
"俺にお前を殺させないでくれ"
"愛してるよ 俺の愛しい愛しい名前"

「大丈夫、僕がいます」
 抱き寄せた肩を撫でて名前を慰めると安室は佐藤に視線を向けた。
「昨夜10時頃男が彼女の家を訪ねて来ました。インターホンを鳴らされたのですが応答しないでいると、この脅迫文をポストに残して帰りました。彼女には見せたくなかったので僕だけで確認し、指定された場所にも一人で行こうとしたのですが...彼女がいなければ接触してこない可能性も十分に考えられたので」
 安室は空いている手で名前の頬をするりと撫で、目元を赤くした顔に見上げられるとその考えを悔いた。
「何も言わず暗いところに連れて行って...僕は何も進歩していないようです。あなたを不安にさせない方法だって他にあったはずなのに」
 暴走した日と同じだ。一人で決めて名前を傷付けて。
 しかし名前は顔を顰める安室に首を振ると笑いかけた。
「安室さんがいなかったら、わたしはまだ一人で怯えていました。あなたがいてくれて本当によかった」
 安室は衝動に突き動かされるまま華奢な身体を腕に閉じ込めてしまいたくなる。しかしそれをどうにか堪えるとポケットからボイスレコーダーを取り出した。
「現場に着いてからの会話はこれに記録されています。カッターを振りかざしてきたので避けて取り押さえたところに、あの刑事さんたちが通り掛かり犯人は任せました。それから僕の運転でここに。他に話せることは無いと思います」
「分かりました。──事件直後にも関わらず聴取に応じていただきありがとうございました」
 いつもは好意的に聴取に応じる安室が帰りたがっていることに気付き、佐藤はこれ以上の続行は困難と諦めた。
「行きましょうか」
 腰を上げた安室が促すが、名前は佐藤を見つめ、何かを言おうと口を開いては閉じるのを繰り返す。
「どうかした?」
「あ、の...。わたし、言われた意味が分からなくて、プロポーズって何のことなのか...。もしわたしが何かしたせいで、そうさせてしまったなら...」
「名前さん、あなたは...」
 どうしてそうもお人好しなのか。脅迫までされて泣くほど怖い思いをしたのに、自分にも非があるんじゃないかと行いを見つめなおして。もっと自分のことだけを大切にして甘やかすべきだ。俺の罪も、傍にいることも赦して、だからいつ俺の中の獣が目覚めるか分からないのに離れられない。怒りを感じるのと同時にその真っ直ぐな心が眩しく、無垢で己の魅力を知らない少女の愚かさがどうしようもなく愛しい。
 少し待つよう言うと佐藤は部屋を出て数分で帰ってきた。
 安室が脅迫文を見せたくなかったのと同様に、薄暗い取調室で確認したストーカー行為の内容や、するに至った経緯を聞き、佐藤も伝えることを躊躇う。その表情は硬く、名前は聞くのをやめてしまおうとする弱い自分を叱りつけた。
 怯えるな。強くなって前に進め。
「佐藤さん」
 不安げに揺れながらも決して逸らされない瞳に名前の意志を感じ佐藤は頷く。安室は正直聞かせたくないが、選択するのは名前だと口を噤んだ。
「名前ちゃんが生理を止めてって言ったんですって」
 取り押さえられた時も男は同じことを言っていたが、当然名前が言うはずもない。
「わたし、そんなこと言ってません...」
「そうね。あなたはただ生理用のナプキンを買っただけ」
「......それを、そんな意味にとったんですか...?」
 そんな買い物をした記憶なんて無い。きっと一年以上も前の話なんだろう。名前は身体の中に溜まっていた気持ち悪さを息とともに吐き出した。
「あのコンビニにはよく行ってたんです。そんなふうに思っていた人に会計されてたと思うとぞっとします」
 バンッッ
 名前が言葉を終えると安室は机を叩き乱暴に部屋を飛び出した。目を見開き固まる名前を置いて佐藤は追い掛けるとその腕を掴んだ。
「安室さん!落ち着いてください!」
「落ち着けるわけないだろう!あいつが名前に...!名前に何を飲ませたか分かってるのか!?」
──俺のカフェオレを美味しそうに飲んでたのに
 男の汚い声が安室の頭で何度も反響する。今すぐ殺してやりたいという衝動が抑えられない。
 佐藤は口調や纏う空気を一変させ、強く掴んだにもかかわらず腕を振り払い進む安室を奥から向かってきた千葉と共に押さえる。言われるがままの千葉は普段と違う安室の様子に戸惑いを隠せない。むしろ抜き身の刀のような鋭さに気圧されていた。
「あの子は全部知りたそうだったけど、それは言うべきじゃないわ!」
「言えるわけない、こんなの!」
「それなら落ち着きなさい!あなたが取り乱したら、あの子は不安になる!あの子を今支えているのは、あなたなのよ!」
「っ...くそっ...!」
 安室は深呼吸し荒くなっていた息を整え、冷静さを取り戻したと判断した二人が拘束を解くと、完璧な笑顔を貼り付けた。
「僕としたことが見苦しい姿をお見せして申し訳ありません。この件に関しては彼女でなく、僕に連絡していただけますか?」
「ええ。彼女に話すかはあなたが決めた方がいいでしょうね」
「助かります。では今日は失礼しますね」
 安室は何事も無かったかのように名前が取り残された部屋へと戻る。そうして不安そうな少女を胸に抱き唇を耳に寄せた。
「帰りましょうか、僕の家に」


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