罪を喰らう10
 雀の可愛らしい囀りに誘われて瞼を開く。いつもと違う景色を不思議に思いながらぼんやり眺めていると、背中に張り付く熱でここがどこかを思い出し、名前は大袈裟に身体を跳ねさせた。
「ん...ぅ、?」
 頭のてっぺんに息が吹きかけられ、悩ましげな声に脳を揺さぶられると堪らず拘束から逃れた。安室は腕の中が寂しくなり、ぱちぱちと大きな瞳を瞬かせる。膝を抱いた腕で赤らんだ顔を隠した名前はその様子を見下ろした。
「あ、朝から刺激が...強すぎます...!」
「それは名前さんですよ」
「っ、っ...!」
 借り物のシャツでは艶かしい脚がちっとも隠せていない。線が浮き下着を身に着けていることは分かるが、かろうじてそれが見えないギリギリの丈は酷く扇情的で、そこから伸びる白く柔らかそうな腿やほっそりとした足首が遠くない日の記憶を呼び起こすのは当然だ。
 昨夜警視庁を後にした名前は安室のセーフハウスで一夜を明かした。あの部屋では事件が思い出されて不安だろうという安室の気遣いであり、また自身で安全を確認した場所で話をするためだ。
 落ち着いたとはいえストーカーに対峙した恐怖と、初めて男の部屋に上がる緊張で名前の頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 コンビニで下着だけを買い、オートロックマンションの二階の部屋に通されると、生活感の無さに名前は驚いた。間取りは1Kで冷蔵庫と洗濯機、ベッド以外何も無い。閉じられたクローゼットはあるが恐らく中も少量の衣服のみなのだろう。
「疲れたでしょう。着替えは準備しておくので、ゆっくりしてきてください」
 安室は浴槽に湯を張るため操作をしたあとリビングへと戻って行った。湯が吐き出される音を聞きながら名前は一つ息を吐く。酷く身体が重く思考も鈍い。とにかく全身の力を抜き張り詰めた心を休ませたかった。
 時間を確認した安室は名前が入浴を始めてそれなりの時間が経っていることに気が付いた。もしかして泣いているのだろうか、一度様子を見に行こう、そう考えていればリビングのドアが小さな音を立てる。そこには薄く瞳を開いた名前が頼りなさげに立っていた。
「名前さん...」
 やはり一人にしたのはまずかっただろうか。焦った安室が近付くと、見上げた瞳がゆっくりと二度瞬いた。
「あ、むろさん...。わたしおかしいですよね...。あんなことがあったのに、すごく、眠いんです...」
 瞼が閉じられ華奢な身体が揺れるのを、安室は慌てて抱き寄せた。ベッドに座らせるとタオルドライのあとドライヤーで乾かしてやる。その間にも頭や身体はふらふらと動いてやりにくい。
 泣く少女に寄り添う一夜を予想していたので、疲れが限界を迎え眠ってくれるのはありがたかった。
 ドライヤーのスイッチを切るなり傾いてきた身体を抱え横にさせると、苦悶の無い綺麗な寝顔に安堵した。
「名前...。俺はお前を守れたかな。心を救えたかな」
 強がった表情じゃなくて、大人びた心じゃなくて、高校生の名前に触れていたい。互いにありのままの姿で一緒にいたい。願ってはいけないと理解しながらもそう願ってしまった。
「俺が僕じゃないと知ったら、お前はどうする?俺を受け入れてくれるか?」
 応えの返らない問い掛けを繰り返す寂寥感。目の前に欲しい存在があるのに募る虚無感。根源にあるのは拒否されることへの恐れだ。自分がいくら望んでも、選ぶ権利を持つのは名前だと理解している。もし二人の望みが違えたとしても、それに抗うことは許されない。決して消えることのない過ちを安室は、降谷は犯してしまったのだから。
 さっとシャワーを浴びると降谷はベッドの上で丸くなる名前を後ろから抱き締めた。髪に鼻を埋めれば同じシャンプーの香りが重なって、まるで二人は一つの身体であるかのような錯覚を抱く。
 離れている心を一つにしたい。俺を求めてくれ。
 すっぽりと腕の中に収まる存在を守りたいと、愛おしさが溢れ出す。薄い布越しに感じる体温と柔らかさを堪能しながら、項から唇を這わせ耳の後ろ吸い付く。付いた痕が消えた時、再び刻めることを祈りながら降谷は瞳を閉じた。
 夢といった夢を見ない降谷だが、いつも真っ暗な空間にいる。立っているのか、横になっているのかも分からず、何も感じない。
 しかし今日は違った。白く暖かな空間は穏やかで心地良い。しかしそれが遠ざかる感覚、腕の中に閉じ込めておきたい大事なものが消えた喪失感に意識を浮上させた。
 こちらを睨む顔は赤く、花園へと続く道のような脚が安室を誘う。快楽を追い求めた鮮烈な記憶が蘇り、それから目を背けるように名前の言葉に軽口を返した。
「今日は学校を休んで僕とゆっくりしましょう。伝えていたとおり、お話ししたいこともありますから」
 僅かに陰った安室の表情に名前もつられる。しかしそれを吹き飛ばすように安室は笑って見せた。
「朝食にしましょう。何かリクエストはありますか?お味噌汁でも、そぼろ入りのオムレツでもいいですよ」
 名前のリクエストしたチーズオムレツと野菜スープ、トーストが
キッチンと対面したカウンターに並べられる。リビングとキッチンはドアで仕切られているが、運びやすさのためか調理台の前の壁はくり抜かれカウンターが設置されていた。
「すみません。椅子が無くて...」
「いえ。安室さんが料理する姿も見れたし、特等席ですよ」
「そう言ってくださると助かります。どうぞ、食べてください」
「ありがとうございます。いただきます」
 手を合わせると名前はスープに口を付ける。美味しい、とほっとしたように微笑む姿を見て、安室も思わず胸を撫で下ろした。
「チーズ、お好きなんですか?」
「好きです。でもブルーチーズは苦手かも」
「アルコールとの相性はいいですから、もう少し年を重ねれば好きになるかもしれませんよ」
「なるほど...。素敵な楽しみが増えました。安室さんはアルコールが?」
「ええ。あまり飲む機会はありませんが強い方ですよ」
 互いに当たり障りのない質問をして、一口飲み込んでは返事をする。気を紛らわせるためなのか、互いを知るためなのかは、二人にも分からない。
 多くはない朝食も、残った皿もすぐに片付き、安室は名前の手を引きベッドに腰掛けた。
 晒されていた脚も今は制服のスカートの下に隠れている。外界から聞こえていた鳥の囀りは車の走行音へといつのまにか変わっていた。
 安室の左手は名前の手を握ったままでいる。話したいことがあるのに話せないでいる静寂は居心地が悪い。所在無さげに視線を彷徨かせたあと口を開いたのは名前だった。
「あの...、わたし安室さんに謝らなきゃならないことがあるんです」
「...え...?」
 自分が謝ることはあっても、謝られるなんてことはないはずだ。いったい何を言われるのかと身構える安室は隣へ視線をやるが、俯き髪に隠された表情を伺うことは出来ない。
「わたし安室さんを疑ったんです。公園に行く時、人は少なくなって道はどんどん暗くなるし、何も話さない安室さんが怖くて...、また何かされるのかもって。安室さんがわたしのために色々考えていてくれたのに、わたしはそれを裏切ったんです。ごめんなさい」
「っ、僕に謝る必要なんか...無いですよ...」
 段々とか細くなる声に乗せられた感情が安室の心を揺さぶった。
 他にも方法はあったかもしれないのに、早く男から解放して自分だけに意識を向けて欲しくて、結局怖がらせた上に心配までさせた。そんな自分を責めもせず、当然抱くはずの疑いを詫びるなんて。
 心優しい少女を腕の中に閉じ込めたい。誰にも触れさせず、何にも傷つけられないように、ずっと。
 ──名前が欲しい。
「謝らなきゃいけないのは僕なんです」
「安室さん...?」
 名を口にすると悲痛に顔が歪められ名前は戸惑う。安室の纏った空気が何とは言えないが確かに変わった。
「名前さんが好きです。でも名前さんを好きなのは、僕じゃなくて、俺なんだ。名前が好きだ」
 両頬を包んだ指が肌に食い込み安室は慌てて力を抜く。労わるように撫でる手は酷く優しいのに、そこから伝わってくるのは悲しみだった。何がそうさせているのか分からず名前は手を重ねようとするが骨張った指は離れていく。
「あ...」
 離れないで。
 再度名前が伸ばしかけた手から逃れるように、安室はベッドから立ち上がると背を向けた。
「名前さんはどうですか。僕のことを、好きになってくれますか」
 隠されていた素顔はまたすぐに隠れてしまった。気持ちが現れたかのように不安げだった声も。
 心配をかけまいと大人の仮面を被っていたわたしを見抜き、恐怖に溺れそうなのを掬いあげてくれた。そんな彼も偽りの仮面を被っていて、その下の素顔を見せようとしてくれている。離れていくとばかり思っていたのに傍にいてくれようとしている。
「もし全てを受け入れてくれるのなら...、この手を──」
 安室が言葉を終える前に名前はその背中に額を当て、両手を前に伸ばした。
「......あなたの心の準備が出来るまでわたしは待ちます。だからその時、あなたがわたしの手を取ってください」
 腕を腹へと回し緩く抱き締める。薄いと思っていた身体は厚く逞しい。近くにいたのにわたしは彼のことをちっとも知らない。何を思い、どんな葛藤を抱いていたのか、笑顔の裏に隠された真実を知りたい。
「あなたの素顔を、心をわたしに見せてください」
 安室が深く息を吸い胸が膨らんだ。少し窮屈になった腕を緩めると、振り返った顔に真っ直ぐ見つめられる。悲しみ、切なさ、寂しさ、虚しさ、全てが消えた表情は精悍で美しい。名前の細い指が頬を撫でると安室が身動いだ。もう片方の手をきつく握り締められて名前は瞳を細める。目の前の存在の実態を確かめるように、僅かな変化も見落とさないように。
「──あなたは、誰ですか」
「俺は...」
 目元をなぞるともう一度安室が身動いだ。もしかすると手放したくない温もりに擦り寄ったのかもしれない。金に近い茶髪の髪がさらりと揺れて、薄い唇が涼やかな声を発した。
「俺は、──降谷零」



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