罪を喰らう11
「ふるや、れい...」
 名前がその名を紡ぐと降谷は頷いた。名前をベッドに座らせると、その足元にしゃがむ。掴んだ掌を上に向け"降谷零"と指を滑らせた。
「俺の名前。本当の俺」
「零、さん...」
「前に話したやらなくてはならないことが本当の仕事だ。安室透は実際には存在しない人間で、探偵もポアロのバイトも、それに必要だから。そしてお前を傷付けたのはバーボンという三人目」
 膝上で重なったままの手に力が込められる。普段と違い粗暴さを感じさせる口調と苦しげに紡がれる三つの名前。過ごした時間はまだ少ないが、完璧と言わざるを得ない降谷をここまで追い詰めるものがあることに驚く。同時にそれから守ってあげたいと思った。
 名前は空いている手で降谷の髪を撫でた。慰めるよう静かに梳かれると、心にぐちゃぐちゃに絡みついていた糸が解け、するすると言葉は紡がれた。
「ある組織に潜入している公安警察なんだ」
 名前の手が動きを止めた。ただ開かれただけの感情の読み取れない瞳にじっと見つめられ堪らず視線を下げる。
 組織、潜入、警察、あまり日常会話に出ないそれに驚いたのか、それとも自分を犯した相手が警察官で、その上、結果的に見逃してくれと言ったことに呆れているのか、憤っているのか。いくら受け入れると言ってくれても、はいそうですか、と簡単にいくものではない。命と呼んで相違ない素性を明かしたとしても、名前にはなんの価値も無く、それどころかもっとマシな嘘を吐けと罵られるかもしれない。
 それでも受け入れて欲しかった。自分が名前を愛していて、どうしようもなく求めていると。
 少女に願っているはずなのに、まるで縋り付き許しを乞うている様は滑稽だ。安室透という完璧な好青年を知る名前だって、きっとそう思っているに違いない。
 後頭部に置かれていた手が頬へと滑り、降谷は恐る恐る視線を名前に向けた。
「零さん、ありがとうございます。伝えるのには相当な勇気と覚悟が必要なんですよね。見てれば分かりますよ。だから零さんの誠意に今度はわたしが応えます。わたしなんかじゃしれてるけど、零さんを支えさせてください」
 降谷の手から力が抜けると、名前はもう片方の手も頬に添えて前髪に口付けるとそのまま頭を抱き込んだ。降谷は嗅ぎなれた自宅の洗剤の香りに名前自身の優しいものが混ざっているのを感じ酷く安心した。
 胸へと顔を埋めてくる降谷に恐怖も嫌悪も無い。名前は最低限の明かされた情報と出来事を繋ぎ合わせて、あの日自分の身に何が起きたかを理解する。警察官という素性を隠し潜入する組織のバーボンは、知られてはならない相手に電話の内容を聞かれたと思い、自分に乱暴を働いたのだと。深い海底にでもいるかのように身体は重く思考は闇に閉ざされ、痛くて苦しくて怖かった。でもそれは降谷も同じだ。
「潜入している警察だと知られればすぐに消される。そんな世界で俺は生きていて、時々息が苦しくなる。すれ違う誰かが、目の前で笑う誰かが刺客かもしれないと信じられなくなって、一人孤独に追いやられる。俺が死んでも誰も気付かず、今まで積み重ねてきたものは何の役にも立たず消えていく。俺は無意味な存在なんじゃないかと虚しくなるんだ」
 今まで誰にも明かせなかった胸中を一回り下の少女に吐露した。弱い所を見せてしまったとは思っても、見せたくなかったとは思わない。弱く完璧な人間ではないと知って欲しかった。その上で受け入れ抱き締めて欲しかった。
「...名前...」
 掠れた声が切実で軋んだ降谷の心が泣いているようだった。名前にはかけるべき言葉の見当もつかない。求められているのはどんな言葉で、どんな行動なのか、降谷に安らぎを与えられるのか。それが無理だとしても伝えたいことは伝えなければならない。名前は腕の力を抜き、今にも泣き出しそうな降谷の顔を見下ろした。
「零さん、わたしに言ったじゃないですか。自分無しで生きられなくなればいいって。わたしもう零さんがいないと生きていけないんですよ。それなのに孤独とか、無意味な存在なわけないじゃないですか。わたしには零さんが必要です」
 名前の真っ直ぐな言葉に乗せられた想いが降谷に雪崩込んでくる。何だって受け入れて一緒に背負うから、足りないところや弱いところは支え合おうと。両頬に添えられていた名前の手を取り、膝の上で握った降谷の表情は、眩しいものを見つめているようだったが憂いは無く晴れ晴れとしていた。
「告白の...いや、プロポーズの返事を聞かせてくれるか」
「!」
  ──責任感なんかじゃなくて、あなたの人柄に惹かれたから僕は言っているんです。一生涯をかけてあなたを守る覚悟はとっくに出来ているんですから。
 脳裏に返事をするはずのなかった、夢のような安室の言葉が蘇る。つんと鼻の奥が痛くなって名前は瞳を細めた。
「名前の傍にいたい。俺を愛してくれるか?」
「...はい...っ」
 降谷は返事を聞くと、ベッドに乗り上げ名前を後ろから抱き締めた。
「...愛してる...」
「っ、わたし、も、です...」
 耳に唇が触れると恥ずかしそうに小さな身体は身動ぐ。さらさらの髪を耳にかければ昨夜付けた痕はしっかりとそこに残っていた。
「怖がらなくていい。これ以上はしないから」
 そう告げて降谷は耳裏に吸い付いた。震える肩を宥めるように撫で、消える前により濃く残すことが出来たそれを満足気に眺める。ぎゅっと抱きしめる力を強くすれば、それに応えるように名前の手が腕へと触れた。髪に顔を埋めて、頬擦りのあとそこに口付けを繰り返す。羞恥と緊張に身体の熱が高まり名前がもう無理です、と身を捩れば耳元で軽やかな笑い声が溢された。
「何が無理?」
 ぎりぎりのラインを保ち漂っていた雰囲気はすっかり可愛らしいものへと変わった。降谷の鼻先が耳の裏を突き、明るい髪が頬をくすぐると名前も笑い声を漏らす。
「っ、ふふっ、零さん、くすぐったいですよ」
「俺はくすぐったくない」
「じゃあ、お返しします」
「あ、くすぐったい」
 振り返った名前は肩に乗った自分の髪を摘み、その毛先で降谷の頬や首筋をくすぐった。
 安室の穏やかな笑みとは違う、無邪気な笑みが愛しい。俺という一人称も少し荒っぽく感じる口調も触れ方も、彼が安室透でもバーボンでもなく、降谷零だと伝えてくる。
 名前は降谷の首に腕を回すと滑らかな頬に口付けた。一瞬呆気にとられて視線を俯かせた頬は少し赤い。もう一度口付けると降谷は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「...大人を揶揄うな」
 降谷が視線を上げ顔を覗き込んでくる。近くで見た深い瞳が瑠璃色をしていると気付いた時には唇に柔らかなものが触れていた。初めてのキスが与える幸福感に溶かされるようにして名前は瞳を閉じ、ただそれを受け入れる。
 脳裏に焼き付いた宝石は美しい夜空のようだった。視界の端で揺れる金の髪はまるでそれを飾る星で、名前は降谷の輝かしい栄光を思い涙を滲ませる。
 成功の保証。宝石が持つ言葉に、やはり何の役にも立たないなんてことも、無意味なんてことも無いのだと確信した。その瞳が真実を追い求める限り、必ず彼の目的は達成される。それならばわたしは彼が疲れた時、くじけそうな時に少しだけ手を引いてやればいい。そうすればすぐにまた手を引いて先を歩いてくれるから、その背中を信じてついていけばいい。
 頭の後ろにを手が支え腰を引き寄せられると、名前は思考するのをやめた。今はこの心地良いキスだけを感じていたかった。



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