罪を喰らう13
 降谷と連絡がつかなくなって一週間が経とうとしていた。最後に別れた時の顔が忘れられない名前は、不安で寂しい日を送っている。蘭は探偵の仕事で時折連絡が取れなくなることがあるらしいと伝え、元気づけようとするがたいして意味をなさない。自分も幼馴染みとの連絡が思うように取れなければ落ち込むし、それが付き合いたてとなれば当然だ。
「もう辛気臭いわねえ!どこかでパーっとやれば元気も出るって!ほら、あんた有名パティシエに好かれてるじゃない!こういう時に使わないと!ほら、早く連絡取って!」
「えっ、使わないから!やだって!」
 結局奪われた携帯で連絡が取られ、八時からのスイーツディナーが決定した。
 女は皆自分が好きだと信じて疑わないそのナルシストは、名前の天敵と言っても過言ではない。気に入られたようで不必要に近付いてくるのを咎めても、恥ずかしがっているのだと良いように受け取るおめでたい奴だ。それなのに逃げた名前をスイーツで誘き寄せるような狡賢い一面もある。新作スイーツの試食に呼んでくれたり、下心全開の男に捕まっていると助けてくれたりするナルシストを、何だかんだで名前は慕っていた。
 午後八時、パティスリーの奥に設けられたあまり使われないVIPルームに通される女子高生三人は好奇の視線に晒されていた。それを気にもとめず進むのは園子だけだ。
 部屋の壁には高そうな絵画とオーナーが授与された楯やトロフィーが飾られている。あれでやはり優秀なのか、と感慨深く思っていれば、背後に悪寒を感じた。咄嗟にしゃがむと頭上を腕が掠め、ごんっと額を壁にぶつけたままの状態で見下ろされる。
「名前ちゃん、何で避けるの。痛い」
「いや、何で抱きついてくるの?」
「恥ずかしいだけだって俺は分かってるから、素直になっていいんだよ。ね、だからおでこ撫でて」
「撫でないよ」
「ちょっとタルトさん、名前にばっか構ってないでよ!女子高生はこっちにもいるの!」
 スイーツ業界に名を知られるきっかけとなったタルトは、語尾に王子をつけて男の異名となっている。痛む額を撫でながら彼は押してきたワゴンへと戻った。
「名前ちゃんも座って。商品とは別に残ってた材料で作ったからそんなに数は無いけど...」
 二人がけのソファなので蘭と園子が隣合って座れば必然的に名前は彼と座る。彼は僅かな味の違いに気付くのと同じで人の機微にも敏い。突然の連絡が名前の携帯を使った園子からのものでも、彼にかかれば何かあったのだろうと予想を立てるのは容易かった。
「気付いたら名前ちゃんが好きそうなケーキばかり作っちゃってたよ。だから元気出してね?」
「......ありがとう」
「どういたしまして」
 普段は素直になれない妹とそれを溺愛する兄のようなやりとりに、蘭は微笑み園子はやれやれと肩を竦める。
 スタッフの手で熱い紅茶が運ばれてくると、彼は爽やかな笑みを浮かべた。
「それじゃあ、始めようか」
見るだけで頬も舌も蕩けてしまいそうな魅力を放つケーキを前に、スイーツディナーは幕を開けた。



 男が手配したタクシーでそれぞれ帰路に着き、名前も自宅マンションの前に降り立つ。それと同時に向かいの道路から白い車は滑り込んで来た。タクシーが去った道路を渡り近付いてくる降谷の顔が不機嫌で名前は後退ろうとするが、それよりも早く褐色が手首を掴んだ。
「浮気するな、バカ」
 すぐにきつく抱き締められ、拗ねた口調で言われるも名前には何のことか分からない。
「してないよ。そんなのするわけない」
「分かってるけど、妬くんだよ」
 身体が離れて見えた降谷の顔はやはり不機嫌に拗ねていて可愛さが増している。いつの間にか園子に奪われていたらしい携帯から、安室へ送られた写真にやきもちを焼いたことを知り、名前はくすくすと笑みを溢した。
「人が怒ってるのに笑うな。写真のお前も男の隣で笑ってるし...」
「だって安室さんが可愛いから。やきもち焼いてくれたのも嬉しくて」
「これでもイケメンパティシエの出現にヤキモキしてるんだぞ」
 降谷は外だからと名を呼ばれないのがもどかしい。そのゆったりとした甘い声で呼んで欲しい、自分と同じくらい焦がれ求めて欲しいと欲求は高まるばかりだ。
「名前...」
「ちょっ、外っ...んっ」
 揺れた髪から紅茶の香りがして、触れた唇は甘いチョコの味がする。有名パティシエに会ってきたのだから馳走になったのは当然だが、自分以外が作ったものを美味しいと言って食べたのかと思うと、どうしようもなく苛立った。
 俺が作るものを食べて生きていけばいい。俺が作るものだけを、あんなクソ野郎じゃなくて俺のを、この熱い口腔に、自分で女にした泥濘む穴にぶちまけてやりたい──
「!」
 口内を貪り深い思考の闇に沈んでいた降谷は尻のポケットで震えた携帯にはっとした。目の前の名前は唇をどちらのものか分からない唾液で光らせ瞳を濡らしいてる。
「すみません」
 表示された番号を確認すると一言断り、近くの暗い路地裏へと身体を滑り込ませた。
「今すぐ来てちょうだい。地図を送るわ」
 それだけでぶつりと切れた通話に降谷は舌打ちする。しかしこれで良かったのかもしれない。名前とこれ以上一緒にいては嫌われるほど酷いことをしてしまいそうだから。
 変わらぬ場所で佇む名前は瞳を閉じ、先程まで重なっていた唇に指で触れていた。沈んだ指がいかにふっくらとした唇なのかを見せつけていて妙に艶っぽい。目には勿論心にも毒だった。
「名前」
 名を呼べば花が綻ぶように愛らしい笑みが向けられた。この顔を自分のもので汚してやりたいと思うのだから最低だ。あの日無理矢理組み敷き意識を飛ばすまで抱いたのだって、どこの誰か吐かすためじゃなく欲望に飲まれての行動だった。所詮あの男と同類だ。
「......零さん?」
 小さく遠慮がちに呼ばれ胸がぎゅっと締め付けられた。名前にはもう自分を偽りたくはない。でもこんなに醜い感情を持つことを知られ嫌われるくらいなら、いくらでも、いつまででも欺き続ける。それくらい簡単で、それくらい名前は大切だ。
「行かないと。また連絡する」
 降谷は触れるだけの口付けを送ると、視線を交わすことなく颯爽と去って行った。白いラインが遠くの闇に消えるまで名前はそれを見送る。
 不機嫌だったもののいつもと降谷は変わらなかった。それが去り際にはやはりおかしくなった。何故なのか考えても名前には分からないし、どうすればいいのかも分からない。ただ不安ばかりが募っていった。



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