罪を喰らう14
 ぼうっと頬杖をつく名前には妙な色気がある。もとから綺麗な顔立ちをしているのに、それに艶っぽさが加わってくるのだ。以前からそうだったけれど、降谷と付き合い始め会えない日々に焦がれるようになると、それはより磨きがかかったように思えた。おかげでクラスの男子生徒たちは授業そっちのけで机の上に乗った胸を眺めている。
「安室さんと上手くいってないの?」
 躊躇う様子もなく直球で聞いた園子に蘭は呆れるが、自分も気になっていたため咎めはしない。前の席に座る園子と、傍らに立つ蘭に視線をやったあとで名前はぽつりと零した。
「分かんない」
「何よそれ。倦怠期?」
「倦怠期って呼べるほど付き合ってないし、何もしてない」
「じゃあ何なのよ。聞いといてあれだけど、お弁当はいつも通りだし、上手くいってないようには思えないんだけど?」
 名前は溜息を吐くと校門へ視線を向ける。少し前まではたまに送ってもらったり、迎えに来てもらったりしていたのに、今ではそれもぱたりと無くなった。それなのに期待してしまう。あの白いスポーツカーが止まってやしないかと。
「二人になるのを避けられてるみたい」
 蘭と園子は息を飲む。隙さえあれば甘い言葉を吐き触れようとしていたあの安室が、と。
「連絡はこまめにしてくれるし、ポアロに行けば会える。でも依頼が立て込んでるからって他では会えないの。最初は仕方無いって思ってたんだけど、一昨日お弁当はいらないから30分だけ一緒にいてってお願いしたら曖昧に返されちゃった。昨日も今日もお弁当は届けてくれるから......、ああ、避けられてるんだなって」
 分かんなくなっちゃった。もう一度呟いて名前は涙を流す。蘭が背をさするものだからそれは止まらなくなって、結局保健室へと逃げた。
 養護教諭に頭が痛いとてきとうな嘘をついて熱を測ると、驚いたことに微熱があった。降谷のことを考えてあまり眠れずにいたからだろうか。ベッドに横になると途端に身体が重くなり、怠さと眠気に襲われるから、現金だなあ、と苦笑し瞼を閉じた。
 チャイムの音がして名前は目を覚ました。夢を見ることなく眠れたおかげか頭は随分とすっきりしている。身体を起こそうとした時、閉ざされていたカーテンが開かれた。
「あら、起きたの。昼休みになったけど教室戻る?」
「はい...」
 身体を起こすが全身の重怠さは増している。それが伝わったのか養護教諭の手が額に伸ばされた。
「熱上がってるわね。もう今日は帰りなさい。担任の先生に言って親御さんに迎えに来てもらうから」
「あ...いえ、わたし今は一人暮らしなんです。タクシーで帰りますから」
「大丈夫?」
「はい。すっごくきついってわけでもないので」
「じゃあ、荷物取ったらすぐ帰ってくるのよ?」
 頷きを返し緩慢な動作で立ち上がる。ふわふわと浮いているような、嫌なそれに堪えながら教室を目指した。



 安室が夕飯と次の日の弁当を持って名前のマンションを訪れたのは夕方四時前のことだ。そろそろ帰ってくるはずだからさっさと退散しようとしていた安室だが、コンシェルジュから聞かされた話に慌てて携帯を取り出した。コール音が長く続き途切れる様子が無い。安室は歯噛みするとコンシェルジュへ視線を移した。
「出ません。寝てるだけならいいですけど...、もし高熱で倒れてでもいたら」
「行きましょう!」
 不在の立て札を設置したコンシェルジュは、金庫に収められたマスターキーを手にエレベーターへと走る。無論安室も続き二人を乗せた箱は上昇し始めた。
 解錠されると同時に安室はドアを乱暴に開き中に踏み込んだ。寝室までの道すがらカバンや制服がぽつぽつ落とされているのを避けて進む。
「名前!」
 安室の不安も知らず名前はベッドで静かに眠っていた。いつもと違うのはその頬が熱で赤くなっていることくらいだろう。携帯も玄関の鞄の中にあると思えば応答が無くて当然だ。安室は部屋の前で待機していたコンシェルジュに心配が必要無かったことと、仕事に戻って欲しいことを伝えるとドアを閉め施錠した。
 眠る名前を見下ろして、随分久しぶりだな、と安室は一人ごちる。当然自分がそうなるよう仕向けたわけで、だからこんな時なのに連絡はなかった。それがどうしようもなく苛ついた。何故頼り甘えてくれないのか、求めてくれないのか、俺はそれに足る存在ではないのか。醜い感情を名前にぶつけないよう距離と時間を置いたはずなのに、それは無意味に散り欲望は露わになる。
 降谷は名前の額に浮いた汗をじっと見つめたあと、迷うことなく舌で舐めとった。そして何の味もしないその体液が確かに自分の一部となったことに快感を覚えたのだ。
 膨れ上がっていた欲望が少し満たされたのか、降谷の頭は急激に冷えた。
 名前を前にすれば同じことばかりを考える。無理矢理犯すだけでは飽き足らず、浅ましく名前を身体の一部とし、一部になりたいなどと。
 自分の行いと伴った感情の脅威を理解しても、感じた悦びが静まることはない。自己嫌悪に陥りながら少女を見る瞳は険しい。暫く眺めた後で降谷は逃げるようにキッチンへと向かった。



 微睡みの中で包丁がまな板にぶつかる音を聞く。リズミカルなそれは心地好くて、今日も朝が来たんだなと幼い日は当たり前に聞いていた。それが遠くなって久しい。
「お母さん...?」
 自分の口から漏れた声で名前は覚醒した。ぼんやりとする天井を見つめて熱に浮かされているらしいと息を吐く。それでも耳に届く音は消えなかった。
「...?」
 不思議に思っている間に今度こそ音は消える。名前が身を起こし額から濡れたタオルが落ちるのと、ドアから降谷が顔を覗かせたのはほぼ同時だった。
「起きた?調子は?」
「あ、え...、零さん...?」
「体温計どこだ?」
「......えっと、リビングの電話台の下の...」
 降谷は手にしていたトレイをローテーブルに置くと、名前の言葉を最後まで聞かないうちに出て行く。すぐに戻ってきた降谷が傍によると、汗でパジャマが濡れていることもお構い無しに名前は抱き着いた。一瞬降谷はどきりとするが仕方のないことだろう。
「零さん、本物?」
「こんなに精巧な作りした偽物がいるか?」
「ううん。零さんのかっこよさは零さんにしかないから無理」
 へらりと笑った名前に降谷は手にしていた体温計を手渡す。名前がそれを大人しく受け取り脇に挟むのを見届けると、トレイに乗った小鍋の蓋を開け取り皿に移した。
「たまごがゆ作ったから、とりあえず食べられる分だけ食べて」
「忙しいのにごめんなさい」
「気にしなくていいから。ほら、あーん」
「自分で食べられるよ」
「脇閉めてなきゃだろ。これ熱いし溢したらたいへんだから」
 レンゲに盛られた一口分の粥からいい匂いが立ち上ってくる。唾を飲みくだすと、恥ずかしいなんて気持ちも抱くことなく名前は口を開いた。舌に落とされた熱い粥にはふはふと口を動かしながらも、広がった出汁の風味に顔を綻ばせる。これだから降谷は料理を作ってあげるのをやめられないし、傍にいるのもやめられない。
「すっごく美味しいです!」
「食欲はありそうでよかった。りんごも切ってあるから、あとで食べような」
「はい!」
 元気のいい返事に自然と笑えていることを安堵しながら降谷はレンゲで粥をすくう。名前の口からレンゲを取り出すとタイミングよく体温計が鳴った。
「38.7...。高いな。風邪か?他に症状は?」
「特には。最近眠れてなかったからですかね」
「眠れないのか?」
「ちょっとだけ。でも今までたくさん寝たし、零さんがご飯も作ってくれから大丈夫です。ありがとうございます」
「......よかった。体調が悪い名前をひとりぼっちにしないですんで」
 降谷は名前の頭を優しく撫でた。久しぶりに触れる嬉しさと、触れたところから穢してしまうような不安。名前が擦り寄るより早くその手は離れていった。
「ほら、冷めないうちに食べよう。口開けて」
 寂しそうにしながらも言われた通り口を開ける名前は可愛い。暗い思考へと引き摺られそうになるのをどうにか堪えて降谷は手を動かした。
 粥を全て平らげりんごも二欠片食べた名前に降谷は薬を飲ますと眠るよう促した。しかし名前は首を振ってそれを拒否する。
「これだけ熱があるんだ。きついだろ?しっかり休まないと」
「だって...、だって、元気になったらまた会ってくれなくなるんでしょ...?それならずっと熱あるままでいい...」
「名前...」
 熱で情緒不安になっているのか、あっという間にぐずぐずと鼻をすすり涙を拭う姿に降谷は罪悪感に苛まれる。自分の汚い欲望を抑えるために名前の気持ちを蔑ろにしていたとやっと気付いた。
「名前のこと嫌いになっちゃったの?だから一緒にいてくれないの?」
 幼い物言いに込み上げる愛しさの行き場を探す。目の前の少女以外にはあるはずもないのに。それでも晒せない。無垢な存在を汚したいなんて、醜い欲を知られ嫌われたくはない。
「違う。大好きな名前に嫌われたくないから一緒にいられないんだ」
「零さんのこと嫌いになんかならないもん。そんな理由で一緒にいられないなんて分かんない」
「本当の俺を知らないからだ。本当の俺を...」
「じゃあ教えてよ。わたしは知りたい。どんなに小さなことでも知って、受け入れたい」
 名前が伸ばした手に降谷はびくつき距離をとる。抱えた頭を振って後退すると壁に背がぶつかった。
「言えない。名前を穢してしまったのに、これ以上...」
「零さんは、わたしを汚いと思う?零さんに犯されたわたしの身体を」
 名前は細めた瞳で切なげに降谷を見た。自分の言葉が愛する少女を傷付けたと降谷は後悔に泣きそうなほど顔を歪める。
「わたしは零さんに抱かれたこの身体を汚いなんて思ったことないよ。零さんが触れたって、わたしは汚れない。零さんの心に触れたって、わたしは変わらない。零さんを好きなわたしのままだよ」
 立ち上がった名前の膝が折れ床に真っ直ぐ倒れていく。すんでのところでそれを抱き上げた降谷の首に腕を回すと、名前は色素の薄い髪に隠れた耳へ濡れた声を吹き込んだ。
「抱いて──零さんの罪を食べてあげる」
 花蜜のようにとろりと甘い誘惑の言葉は波紋となって全身に広がる。反響、増幅したそれに欲望は溢れ出た。
「名前に触りたい。もっと深くで、身体も心も繋がりたい」
 それから、それから──
 すっと名前の瞳が細められた。ついでほっそりとした指に左頬をつねられて、降谷は場にそぐわない声を漏らす。
「えっ、えっ」
「それだけじゃないでしょ。全部、全部、何だって受け入れてみせるから、零さんの心を教えてよ」
 その姿は無償の愛を与え慈しむ聖母のようで、愛されようと必死に縋る幼子のようで。
 己の欲望を口にしないことこそが何よりの罪に思えた。
「名前、お前を俺で汚したい」



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