最愛8
 顔の至る所を掠める何かに意識を掬い上げられる。時折リップ音らしいものが聞こえて、名前はぱちりと瞳を開いた。視界一杯に広がる綺麗な顔は名前が起きたことに気付いていないのか、顔中にキスを繰り返し枕にした手で髪を梳く。もう片方の手は肩から腕、背中から腰、そして腿までを不規則に撫で回していた。官能を刺激され名前が身動ぐと、気付いた涼介は身体を少し離す。赤くなった名前の顔を見つめ、普段より数倍も穏やか笑むと伴うキラキラを撒き散らした。
「おはよう、愛しい子」
 愛する男が一糸纏わぬ姿で、しかも初めて身体を重ね共に寝たその朝に歯の浮くような台詞をかっこよく決められてしまって、ときめかないわけがない。赤みを耳や首、胸へと広げながら視線を下げると毛布の間から見えた薄闇の中に力無い様子の、散々昨夜己の中で暴れ周り責め立ててきたものが見えた。名前はぎゅっと瞳を瞑り涼介に背を向け毛布を口元まで引き上げる。涼介は己を見てそんな態度をとる可愛い姿が微笑ましく、するりと腹に腕を回し抱き寄せた。涼介の胸と名前の背が重なり、二人の熱が混ざり合う。触れ合った部分から涼介の少し早い鼓動が伝わってきて名前はどきどきしているのは自分だけではないと安心し嬉しい気持ちになる。
「身体は大丈夫か?」
「......少し怠いかもだけど、大丈夫」
 半分以上の声が毛布に吸収されてしまって少し息苦しそうだ。せっかく迎えた初めての朝なのに、と寂しさを感じ涼介は腹に置いた手で名前の子宮の上を撫でる。
「んっ」
「そんな声出して誘ってるのか?」
「ちがっ、涼介くんがそうやって触るから!」
「もう呼び捨ては終わり?」
「そ、れは...昨日は殆ど無意識で呼んじゃってたし、何か吐き捨ててるようでわたしは嫌だったから、ごめんね」
「いや?強きな態度で誘ってくる名前は良かったぞ」
「もうっやめてよ!」
 すっかり拗ねてしまったようで、後ろからでもむくれた頬が見える。普段は容姿から大人びて見える名前だが、中身はまだ小さな頃のやんちゃが残る可愛い一面がある。名前が現す全ての表情が、感情が、仕草が愛おしい。その一つ一つを写真のように自分の中に収めたいがそうもいかないから、名前自身を永遠に腕の中に囲ってしまおう。耳裏に鼻を押し付けて甘やかな香りを吸い上げる。そのまま強く吸い付けば、がばりと名前の身体はベッドから起き上がった。壁側に寝ていたため、涼介を跨いで床に降り立つと散らばった下着を身に付けクローゼットの前にある姿見へと駆け寄った。
「ああっ...!」
 髪を避けながら肌を確認すると、羞恥に顔を染めた。
「こ、こんなに...!見えるとこまでつけてどうするの!」
 愛された証の多さに驚くがそれは喜びへと直結していた。それでも学生には人前で着替える機会も多い。見られてしまったらと考えると名前は喚いた。
「見せつけてやればいい。こんなに愛されていると。それとも名前は付けて欲しくなかったか?」
 寂しそうな涼介の表情に名前は閉口した。そろそろとベッドへと戻ると、身体を起こしていた涼介の首に腕を回す。
「ねえ、わたしもつけたい」
 思わぬ申し出に涼介は数度瞬く。言葉の意味を噛み締め、同じように独占欲を示してくれた喜びのままに、名前の後頭部に手をやり首筋と導く。
「俺は見えるところにつけてもらおうかな。まずは付けるところを舐めて濡らす」
 涼介の言葉に名前は涼介の首筋をじっと見つめる。首の根元、丁度肩と合わさるその境目の少し上辺りへと決め、唇を数度掠めると熱い舌を這わせた。たどたどしく動かされる小さな舌の動きがもどかしく、涼介の官能を揺さぶる。今まで我慢し押さえ付けていたはずの理性は、昨夜の情事のせいで崩れ去っていたために押し倒したい気持ちが膨れ上がるが、続け様に求めては身体が辛いだろうとどうにか踏み止まる。呼吸で心を落ち着かせ、小さな頭を撫でてやれば頭がすり寄ってくるのが堪らない。
「今度はちゅうの口をしてごらん」
「ちゅう?」
 至近距離で視線が交わり、思わず名前は顔を離そうとするが後頭部に手を回されているためにそれは叶わない。涼介の肌を舐めたせいで濡れ光るぽってりとした唇に涼介は指を這わす。
「そのままの口でくっつけて吸い上げる。痕が付くのには時間がかかるから長く吸い上げて、それを繰り返す」
 言葉に導かれるまま、名前はそこを今度は舌全体で舐め上げると、口を窄め強く吸い付く。じんわりと自分の唇にも痛みが走り、今涼介と同じ痛みを感じているのかと思うと、先程涼介が触れた腹の奥がじんわりと熱を持った。それを目敏く見つけたのか涼介は括れた腰を撫でる。少しずつ場所を変えながら吸い付き、顔を離した時には鎖骨の上などにも十分な数の痕が涼介の身体を彩っていた。夢中で涼介の肌を求めた名前はいつの間にかこんな数になっていたことに驚き、己の独占欲を知る。
「ご、ごめんなさい!わたし調子に乗っちゃって」
 焦る名前の唇を塞ぎ涼介は舌を絡める。情事を思い出させるには十分なねっとりとした濃厚なキスに名前は思考が鈍くなっていく。股の奥が潤みを帯びていくのを感じて名前は気が気では無い。昨日の今日で自分の身体は一体どうなってしまったのかと不安になる。
 二人の唇を繋いだ糸が涼介の口から切れ、名前の胸元へと張り付いた。それを指で伸ばしそこに唇を寄せると涼介も痕を付けていく。思わず涼介の頭を抱き締めてしまい、浅ましく涼介を求める本能を知る。
「涼介、好き...」
「俺も好きだ」
 情事の際には伝えられなかった言葉を名前は何度も繰り返し、同じ数だけ涼介も伝える。
 玄関の鍵が開く音が聞こえて、二人は啓介が帰宅したことを知る。離れるのは惜しいが、散々世話をかけた弟はきっと心配しているだろうと涼介は最後に愛してるの言葉と共に深いキスを贈った。
「学校はどうする?行かないのであれば、シャワーを浴びてここでゆっくりしてればいい。俺は外せない講義があるから一緒にはいられないが...」
「そっか。なら、わたしも学校行く。お母さんにも友達にも心配かけてるから。シャワーもお家に帰ってからにする」
「ああ、送るよ」
 着てきたシャツワンピースを涼介の手によって頭から被され、大人しく袖を通していく。涼介も身支度を整えれば、支障ないと言っても聞かない涼介に腰を抱かれたままリビングへと向かった。
「あ、あ...よう...」
 色々察したのだろう啓介にそんな態度を取られ、夜這いをすると話していたにも関わらず実際そうなった後では恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。見兼ねた涼介が苦笑し、口を開いた。
「啓介、面倒を掛けたな。もう大丈夫だ」
「そりゃあよかったよ。まあ俺に迷惑がかからない程度によろしくやってくれ。それと...殴って悪かったよ、兄貴」
「いや、あの態度が真っ当な男のものだ。悪いのは俺だし気にするな」
「殴った?どういうこと?」
 思いもよらない単語が飛び出し名前は涼介を見上げる。確かにその頬には薄暗い涼介の部屋では分からなかった赤い腫れがあった。
「お前を泣かせたって啓介に殴られたんだよ」
「そんなんじゃねー」
「意味は同じだろ」
 心配そうに傷に瞳をやる名前の手を掴むと両頬に触れさせた。
「心配しなくていい。痛みも殆どないし、遠慮せずどんどん俺の身体に触れるといい」
「なっ」
「人がいるとこでいちゃつくな!」
 身内二人のそんな姿に気恥ずかしくなり啓介は自室へと逃げ込む。
「啓介もまだまだ子供だな」
 握ったままの手の甲に恭しく口付けると、涼介はきつく手を絡め合わせ玄関へと向かった。外は朝の爽やかな空気で二人を迎え入れ、涼介は口角を上げる。
「名前、初めての朝帰りだな」
「!」
 歩いて三分もしない距離にある名前の家の駐車場には、まだ母親の車が停っていて、何だか家に入りづらく思ってしまう。
「もう!涼介くんのせいで入りづらい!」
「なら一緒に入るか?娘さんを返しに来ましたって」
「なんかそれ、いらないから返却しますって感じでいや!」
「そんなわけないだろう」
 くすくすと笑い涼介は静かな朝の住宅街という事を考えもせず唇を重ねた。がちゃ、と音がして名前は恐る恐る振り返る。そこにはスーツに身を包み手でにやつく口元を隠している母の姿があった。
「まあまあまあ、これはこれは...いいのよ、何も言わないで、気にしないで。お赤飯は炊いてあるから!涼介くんも食べて行って!」
「ではお言葉に甘えて」
「じゃ、お母さんお仕事行ってきまーす」
 車で走り去る母を茫然と名前は見送る。昨日の夕飯は白米だったから仕込んだのは昨夜だろう。父は帰ってこない娘と朝食に出された赤飯の関係を繋ぎ合わせただろうか。深く溜息を零す名前を引っ張り涼介は久しぶりの苗字家に足を踏み入れた。中学に入ってからは玄関までしか行かなくなっていたためか、見慣れた家具や置物がやけに小さく感じる。
 リビングにはお弁当が風呂敷に包まれており、その横には三角に握られたおにぎりが二つと、おかずがいくつか乗った皿がフードカバーの下に鎮座している。
「涼介くん赤飯どれくらい食べる?」
 キッチンへ入り炊飯器を覗き込みながら名前は尋ねる。
「いや...さっきはああ言ったがもうそろそろ大学に向かわないと行けないんだ」
「あ...そうなんだ」
 落ち込む様子に涼介もキッチンへと入り名前の頭に手を乗せた。
「昼用のおにぎりを握ってもらおうかな」
「うんっ!」
 名前は手を洗うとラップを準備して赤飯で三角おにぎりを作り丁寧に巻く。
「二つ?三つ?」
「四つ。一つは車の中で摘むよ」
「は〜い」
 瞳を細め穏やかに笑う姿に涼介の瞳が眩む。新婚みたいだと互いに緩む頬を引き締める事が出来ない。
 名前はラックから取り出した自分のものと色違いの風呂敷におにぎりを包むと涼介に渡す。涼介も色違いに気付きそのいじらしさに喉の奥を鳴らした。
「ごめんね、おにぎりだけで...」
「いや、名前の握った飯が食えるなんて死ぬほど嬉しいよ」
「あっ、もう...ふふっ、大袈裟だよ」
「まだ俺の愛の大きさが伝わっていないようだな?」
 話しながら頬に幾つもキスをする。揺れる髪が耳を擽り名前は身を捩った。
「ここ二日俺は腑抜けてたからな...やらなきゃならないことが溜まっていて、暫く会えそうにない。来週末には少し遠出しよう」
「いいの?楽しみ...」
 うっとりと頬を染め涼介の胸に手を置くと、名前は身を寄せる。応えるように涼介は額にキスを落とし、顔が上げられると深く唇を奪った。
「全く、こんなにも離れ難いとはな」
 心底離れるのが辛いと語るその表情に、名前から涼介にキスを贈る。ちゅっと音を立てて頬から離れた柔らかな感触に涼介は瞬く。赤面してはにかむ名前を涼介はぎゅっと抱き締める。
「あまり可愛いことをしてくれるな...。離したくなくなる」
「離さないで」
「!」
「離さないでよ」
 胸に顔を押し付け幼子のように力一杯抱き締めてくる様子が愛しくて愛しくて細い身体を優しく抱く。
「ああ、離さない」
 暫くそうして名前と涼介は立ったまま引っ付いていた。引き留めてしまった為にいいかげん時間が危ないだろうと、名前は腕の力を緩め身体を離そうとする。しかし涼介はそれを許さず一向に名前を解放しない。
「涼介くん?遅れるよ?」
「名前を離せないから連れてく」
「えっ!?」
「離さないでと言ったのは名前だぞ」
「そうだけど...!」
 名前は涼介が自分を深く愛してくれていることを素直に嬉しく思うが、こうも駄々を捏ねる涼介には戸惑わざるを得ない。これも自分しか知らない一面だと思うと強く言うことが出来ずにいた。
「でもわたしも学校行かなきゃならないし...涼介くん講義出ないとたいへんでしょ?お医者さんになるんでしょ?」
 名前の口から出るお医者さんの破壊力に内心頭を振り乱しつつ、これ以上困らせては年上の威厳も何も無く、ただの駄々を捏ねるガキだと涼介は顔を顰める。しかし離れたくないものは離れたくないと、一つお願いをしてみることにした。
「名前から、キスをしてくれないか?」
「えっ」
「ダメ、か?そしたら名前から離れても講義を受けられる。もしかしたら溜まったやらなきゃならない事もすぐ終わらせられるかもしれない。そしたら週末より早く名前に会いに行ける」
 恋人からそうお願いされては叶えてあげたいものだ。しかし自分からキスをしたことはなく、上手く出来るか不安と羞恥で行動に移せない。
「ほら、キスしてくれ」
 名前は涼介の綺麗な顔を見ただけで顔が熱くなる。それ以上のことをしたんだからキスくらい、と気合を入れようとして昨夜の激しい情事を思い出し、尚更身動きが取れなくなって。それを内心面白く見ているが、顔には寂しそうな表情を貼り付けて涼介は待つ。名前はまんまと騙され、涼介の胸に手を置くと火照る顔を涼介へと近付け一瞬だけ唇を重ねた。離れようとする頭を押さえ付け舌を差し込み、涼介は瞳の前で震える睫毛眺める。やがて舌を抜き、唇を一舐めすると涼介は名前の耳元で愛を囁き家を出て行った。残された名前はその場に思わずへたりこむ。熱い吐息を吹き込まれた耳を抑えて涼介の言葉を頭の中で再生した。
「次会う時も名前の可愛い姿をたくさん見たい」
 名前は今から来週末が楽しみで仕方なくなるのだった。


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