罪を喰らう16
 発端は新たに潜入した捜査官との連絡が途絶えたことだった。上層部は最悪の想定をし、その二日後である今日降谷はベルモットに郊外の屋敷へ出向くよう支持を受けた。
「全てを知られていると考えたほうがいい」
「死にに行くようなものだ」
 当然の意見をねじ伏せ行った先で降谷は無惨に散った。
 一体何故海なんかに...。通常であればこちらには上がってこない内容の事故だ。
 報道で知るのと似たタイミングでしか入らない情報にイライラし、規制された情報としてヘリコプターからの狙撃があったと風見が知ったのは事故発生から半日以上が経ってからだった。
 タイヤを狙撃され操舵を失った車のブレーキ痕、散らばるガラス片、真っ二つになり崖に突き出たガードレール、断崖とそこに荒々しく打ち付ける高波。
 いくらあの人でも、これでは助からない──
 風見はその現場を目にしてやっと諦めがついた。
 尊敬する上司をみすみす殺してしまった後悔と、彼が残した大切な人を思うと涙腺が熱を持った。
 初めてその名を聞いたのはデータベースの照合を頼まれた時だ。その次はもう恋人の名としてで、電話口の上擦った声も相俟って驚きに口を開くことが出来なかった。あの降谷が恋人をつくり、ましてそれが女子高生で、訳があったとはいえ秘匿事項を明かしたと言うのだから。
 叶うのならば降谷の任務が無事終わり、晴れの日を迎える報告の時にでも邂逅を果たしたかった。こんな形でなど望んでいなかった。
 彼女が住むマンションの静かなエントランスでエレベーターが降りてくるのを待つ。夜間照明で照らされたそこはシックな雰囲気を作り出しているが、インテリアの影から忍び寄る死が震えあがるほどの恐怖を感じさせた。眼下で激しい飛沫を散らす波とその轟音が、いつまでも離れない。
 動きを止めていたエレベーターが高いチャイムの音を響かせてその口を開いた。そこから倒れ込んでくる人影に思わず声を荒らげる。
「苗字さん!」
 抱き起こした身体は華奢な少女のもので、けれどこちらを仰ぎ見る瞳は闇を湛え虚ろで生気を失った屍人のようだった。
「零さん、は...?」
 細く高い可愛らしい声だった。既に事の顛末を理解しているようで、しかし嘘であって欲しいとスーツを握り締め必死に縋ってくる姿に胸が詰まる。
 それでも伝えなくてはならない。例えこの少女が現実を受け止められず、壊れてしまうとしても。
「降谷さんが殉職されました」
 彼女の心がバリバリとひび割れる音が聞こえるようだった。全ての感情を忘れてしまったかのように固まっていた表情が歪み、悲しみに泣き濡れる顔を振り乱す。
「嘘だ。嘘。嘘、嘘。嘘、嘘嘘嘘嘘」
 あまりの痛々しさに何と声をかけていいか分からない。自然と触れた震える手を、どうか彼女が壊れないようにと、祈りながら握るしか出来なかった。





 遺体も、車さえも見つからず、捜索五日目となった昼下がり風見に来客があった。名前だ。
 先日の屍人だったような少女ではなく、凛とした女性の姿に思わず目を見張る。
「風見さん、ですよね。先日はすみませんでした」
「っ、いえ、こちらこそ...」
 薄っぺらな笑顔を向けられて風見は拳を握った。
 正気でいられるわけがないのだ。それを隠し通すこの少女は強情とさえ思える。
「可能な範囲で構いません。何があったのか、教えていただけませんか」
「......ええ」
 風見は眼鏡のブリッジを押し上げ、より表情を硬くすると口を開いた。
「降谷さんがスパイであると組織に露見し、運転中に狙撃されました。車はガードレールを突き破り、崖に叩きつけられ、更に荒波にのまれたした。捜索三日目に大破した車を引き上げましたが、車内に降谷さんの遺体は確認できませんでした」
 名前は静かに聞いていた。途中からは目を閉じ涙を堪えて。
 しかし風見が話を終えると、開いたそれに潤みはなく、生気の漲る力強い眼差しをしていた。
「やっぱり、わたしは彼が亡くなったなんて信じません」
 名前の脳内にはあの日降谷が伝えてくれた愛の言葉が未だに降り注いでいる。嘘ではない真実の愛だった。
 深夜訪ねてきた降谷は覚悟をしていたのかもしれない。でもきっと死ぬ気なんてなかった。
 子供っぽいところも好きだと、わたしがいないと生きていけないと零さんは言ってくれた。わたしも零さんがいないと生きていけないと知っている零さんが、捨てないで愛して欲しいとわたしに願った零さんが、わたしを残して死ぬなんてありえない。
「信じられるはずがありません。あの彼がこんなにも呆気なく。遺体だって見つかっていないのに」
 降谷の生存を心の底から信じる姿は眩しいくらいに美しい。だからこそ深く愛されている降谷に、馬鹿なことをした、と悪態を吐かずにはいられなかった。
「っ、失礼」
 胸が詰まる思いで名前を見つめていると連絡が入り、風見は一度退席する。残された名前は掌に爪が刺さり血が滲んでいるのにやっと気付いた。気付いた今でさえ痛みはなく、けれど心は痛みに悲鳴を上げ続けている。
 早く解放して欲しかった。楽になりたかった。
「──降谷さんが見つかりました」
 けれど降谷の死を受け入れ、哀しみ、過去としたいわけではなかった。
 室内に戻った風見の顔は硬く強張っていた。重々しく開かれた口が告げたのは何よりも聞きたくて、聞きたくなかったもので、名前の爪は更に傷を深くする。
「あ、わせて...会わせてください...」
 涙目で願い出た名前に風見は首を振った。
「海の中で五日...。どのような見た目になっているかは想像がつくでしょう」
 名前はぽろぽろと涙を落とし、座るソファの背もたれに倒れこんだ。首がかくんと折れ風見は慌てて駆け寄るが、脈も呼吸も正常でほっと息を吐く。しかしその安堵も一瞬で、すぐに不安は大きく膨らんだ。
 意識を失う直前小さく動いた唇は確かに降谷を呼んでいた。
 心の壊れたこの少女がもう前を向いて進むなんて無理なのは明らかだった。
  ──風見、俺が死んだらあいつを、名前を頼んだぞ
 最後の言葉が脳裏に蘇る。
 あの人の願いを聞き届けなければ、忘れ形見を支えてやらなければならない。けれど少女に必要なのは、傷を癒してやれるのは、俺なんかじゃない。俺なんかで務まらない。あなたじゃないと、ダメなんです──
「っ、降谷さん...!あなたって人は本当に残酷だ...!」
 風見の恨みがましい声が静寂へと溶けていった。



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