罪を喰らう17
 遮光カーテンで閉ざされた空間は日中でも薄暗い。時折ベランダに止まる鳥の囀りや救急車のサイレンを聞きながら瞼の裏の暗闇をじっと見つめ、目が覚めて寝ていたことを知る。正確な時間も、あれから幾日経ったのかも分からぬまま、名前はシーツから日々薄れていく降谷の香りを感じていた。
 名前の担任から登校していないと連絡を受け、駆け付けた叔母が見たのは抜け殻になってしまった姪だった。声を掛けても反応せずぼんやりとただ見つめてくる瞳は深い闇を湛えそこへ誘い込んでくる。胸には男性用のシャツがくしゃくしゃになって抱かれていて、なるほど、と言葉を漏らした。
「まだ若いんだから、男と別れたくらいでこんなにならないでよ」
 呆れを含んだ物言いよりも、腕の中からシャツが奪われたことに名前は反応した。
「かえして...、かえして」
 虚ろな瞳でのっそりと身体を動かす様に叔母の背中を悪寒が走る。おぞましいまでの負の感情が一気に身の外へ溢れ出し、こちらに向かってくるのが分かった。
「やめて、怖いわよ。本当にどうしちゃったの」
「ねえ、かえして、かえして...」
「っ、」
 ふっ、と糸が切れた人形のように名前はベッドに倒れた。暴れる胸を手で押え覗き込んだ顔には酷いクマがあり、頬は痩け、肌も唇の色も悪い。
 この子に何があったのだろうか。変わり果てた姿を怖がるよりも、家族としてすることがある。
 叔母は痩せた身体に毛布を掛けると寝室を後にした。

 気付くとベッドの傍には叔母がいた。不安げに寄せられた眉に申し訳なく思うも名前には口を開く体力も気力もない。
「名前、ご飯全然食べてないでしょ?食べよ?」
 食欲など全く無かった。胸が詰まって、息をするのだって苦しい。
 どうしても食べなきゃならないなら、零さんの手料理がいい。
 小さく首を振ればシーツからふわふわと花の香りがした。花の香り。
 ──零さんの、香りじゃない。
「っ、っ...?」
 シーツが変わってる。シャツがない。ない。
「しーつ、しゃ、つ」
「......洗濯したわよ。そのままで臭いもしてたし。別れる直前にする男って最低よ、最低。別れて正解」
 真実を知らないまま姪を励まそうと選ぶ言葉はどれも降谷を悪く言うもので、愛と哀しみしか持ち合わせていない名前の中で怒りが急速に膨らんでいく。ふぅふぅと息を乱し憎いと思った相手に掴みかかろうとするもその力は無く、それに気付くと急速に怒りは萎え、次いで湧いてきたのは不安だった。
 零さんが消えちゃう。やだ、消えないで。消えないで。忘れたくない。
「ぅ...ぅぅっ」
 怒りでは動かなかった身体が震えながらも立ち上がった。ふらふらとクローゼットまで歩き、掴んだ取っ手を引くことさえ困難になっていても、降谷のシャツがないか、使ったタオルが無いか泣きながら探す。
「ない、ない、きえちゃうよぉ」
「名前っ」
 ようやっと異常だと気付き後から抱き締めるも名前は拙い言葉を吐き続ける。
「きえちゃうよ、どこ、どこにいるの、ひとりにしないで、いきていけないよ、ねえ、どうして、どうして、わたしをおいていったの」
「名前、名前」
 声は届かず同じ言葉が何度も繰り返される。抱き締める腕の中で姪が壊れていくのをただ見ているしか出来ないのが情けないと、いつのまにか叔母の頬も涙で濡れていた。
 名前が意識を失うまで細い声とすすり泣きが部屋に響き続けた。眠る名前の髪を所在無げに撫でる叔母の耳にインターホンの音が届く。画面に映るのは肩で大きく息をするスーツ姿の男だった。
「苗字さん!大丈夫ですか!?」
「あ、の...どちら様ですか...」
 叔母が訝しげに尋ねると、応答しているのが名前ではないと気付いた風見は胸元から警察手帳を取り出した。
「突然申し訳ありません。携帯に連絡しても出られないので何かあったのかと。ご家族の方でしょうか?名前さんが無事でしたらわたしはこれで失礼します」
「待ってください!何であの子がこうなったのか、知っているんですか?」
 一瞬眉間に皺を刻むと風見は唸るように返事をした。
「...ええ」
「お入りください」
 エントランスのドアが開くと風見は暫し思案し中に身体を滑り込ませた。玄関の呼び鈴を鳴らすとすぐにドアが開き、もう一度手帳を掲げる。
「風見です」
「わたしは名前の叔母です。学校から登校していないと連絡があって来てみればもう抜け殻のようで...」
 風見をリビングへと招きながら叔母は話を続ける。
「彼氏に捨てられたのかと思っていたんですが...」
「そのことを彼女に?」
「......はい」
「そうですか...」
 深く息を吐き出す風見に叔母は唾を飲みくだす。言ってはいけない言葉だったのだと、もう身をもって知っていたため更に心が抉られるようだった。
「名前さんの恋人...安室透は死にました」
 大きく目を見開いた叔母は、込み上げてくる涙と後悔に唇を噛んだ。話せないほどに憔悴した彼女の心の傷を抉り、壊してしまったのは自分だと己を責める。
「どうしよう...わたし...」
「とにかく、」
 風見の言葉の続きを止めるようにリビングのドアが開かれた。光のない瞳をした名前に見つめられて、風見はもう無理だと叫びたくなった。
「風見さん、あの人は死んでなんかいません。死んでない。死んでないもん」
 はらはらと涙を溢しながら一歩一歩近付いてくる名前に、二人は動くことも声を発することもできない。生を感じさせない人形のような存在にただ恐怖を抱いてしまった。しかし再び糸が切れたように名前は床に崩れ落ち、抱え起こした風見は顔を顰める。名前は酷い顔色で、身体も薄く細く、何より軽すぎた。
「まさかこんなふうに気絶を?」
「わたしが知るだけで今のが三回目です。食事もしていなかったようで...」
「病院に行きましょう。このままでは危ない」
 ぐっと眉間に皺を寄せ言う風見の必死さに叔母は事の重大さを知る。
 大人びているから、しっかりしているからと、まだ危うい女子高生の姪を気にかけてこなかった。どれだけ愛し合っていたか、二人を見て理解していたはずなのに。
 浮かぶ死んだ恋人の顔に、連れていかないでと、叔母は繰り返し願った。
 救急病院に着くなり名前は転倒後意識消失ありと画像診断まで行ったが異常はなかった。採血により脱水と栄養失調を指摘され輸液が開始されると、叔母は風見に断り点滴室を出て行った。
 残された風見はベッドに横たわる名前を静かに見下ろした。
 あの生気に満ち溢れていた面影はない。あの人の愛する少女が存在を変えてしまう。それはあの人にとっても少女にとってもよくないことだ。
 押し上げられた青白い瞼の下から現れた瞳が見つめる虚空には、何が映るのだろうか。
「苗字さん」
 一つ瞬いてこちらに顔が向けられた。依然として瞳は深い闇を湛えている。
「あなたは降谷さんがどんな人なのか知っているはずです。今のあなたを見て何を思い、何と願うか、分かるはずです」
 きらりと一瞬暗い闇の中に光が過ぎった。
「あの人は死ぬ前、俺に言いました。あなたを頼むと。あなたは俺にその任を遂げさせないどころか、降谷さんの最後の願いも叶えないつもりですか。あなにしか出来ないというのに」
 闇が涙に溶け溢れていく。室内を照らす照明に眩しそうにしたあと、潤みながらも陰りのない瞳が風見に向けられた。
「零さんが...、零さんが笑ってくれるなら、わたしは何だってしてみせます」
 たまに振り返るのを許してくれるなら前を向いて進む。百年生きろと言うなら生きてみせる。でもね、次会った時にボケて零さんのことを忘れてても知らないからね。
「風見さん、零さんの部屋に行きたいです」
「...分かりました。明日わたしの登庁前...七時頃にお迎えに上がります」
「ありがとうございます」
 風見が微笑めば名前も瞳を緩めた。
 壊れた心が戻ったわけではない。負った傷が癒えたわけではない。しかし唯一無二の人物の死を受け入れ、その意志を尊重するという想いが彼女を立ち上がらせた。その強さがただの強がりだったとしても、その強さにきっとあの人は惹かれた。その輝きが失われてはいけない。
 またいつか二人が巡り会う日まで──



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