罪を喰らう18
「退去まで一ヶ月あるので好きにしてください、と言葉を準備していたのですが...、その必要はなかったですね」
 呆れたように肩を揺らす風見の視線の先には名前が持つ大きなカバンがある。中には着替えや学校の教材などが入っているのだろう。
「それにしてもご家族がよく許しましたね」
「...まあ...」
「まさか了承を得ないで来たんじゃ」
「ちゃんと最後は納得してくれましたよ!」
「ならいいですが...。本当でしょうね?」
 疑り深い風見に名前は苦笑するが、そうするのが仕事のようなものなのだから仕方ないのかもしれない。
 しばらく安室さんの家にいるね、と言った名前を当然叔母は止めた。ただ辛くなるだけだと。しかしどこまでも澄んだ晴れやかな笑顔で傍に感じていたいと言う名前に最後は頷いてくれた。
 名前は一度だけ降谷が招いてくれたこの部屋で一人過ごす。そうして降谷の想い出に浸り、死という現実を受け入れようと思った。それがどれほど辛いことなのか哀しいことなのか分かっているつもりだ。しかしそうしなくては降谷の願いが遂げられない。
  ──生きろ。みっともなく足掻いてでも生きろ。
 いつだって降谷の声が聞こえる。その声に支えられ、次会った時うんと褒めて甘やかしてもらおうと思うと、一人で生きるのにも勇気が湧いた。
「安室透についてですが、勿論死亡という扱いになっています。組織の人間が接触してこないとも限りません。十分に気を付けて、身の危険を感じたのならすぐに知らせてください」
 風見はそれだけ言うと腕時計を確認して足早に去って行った。
 急にしんと静まった部屋に一人で立ち尽くす。
 ドアの向こうから、ここから覗けるキッチンに、降谷が顔を覗かせる気がして、そんなのあるわけがないと自分で希望を破り捨てた。
 ああ、痛い。痛い。哀しみが心臓を食い破るように暴れている。
 ベッドに倒れ込むと全身を大好きな香りが包んだ。
「零さん...」
 降谷に抱き締められている安心感に身体の力が抜けて、砕け散っていた心が繋ぎ合わさるのを感じる。
 過ごした時間はそう長くはないのかもしれない。それでも愛を囁き合い、肌を重ねることが出来た。たとえそれが過去の話だとしても、彼を愛おしく想う気持ちが薄れ消えゆくなんてことはない。いつまででも、死ぬ時でも、ずっとずっと愛しく想う。
「零さん、好き、好き...」
 愛しすぎて涙が出る。あの幸福だった日々を思うと。
「寂しい...」
 顔を埋めた枕の中で息を止める。このまましていれば零さんに会えるだろうか。でも、もし会えたとしても零さんは笑ってくれない。怒って、愛想を尽かして、わたしから離れていく。今だってわたしの中の零さんは凄い形相で怒ってる。
  ──わたしは零さんのいない息苦しい世界で、それでも一人で生きていくんだ。




 連絡を入れた欠席を五日、無断欠席を一日、更に連絡を入れた欠席を二日。恋人を失った名前を待っていたのは優しい友人たち、ではなく、ゴリラ並の包容力(物理)を持つ友人たちだった。
「名前くん〜!心配したよお!」
「バカ!一人で苦しまないでよ!こんなに痩せて!」
「そうよ!あんただけの安室さんじゃないのよ!わたしだって悲しいの!」
 温かい慰めの言葉とともに受けた、内蔵が出てしまうのではというくらいに強く身を締め上げるハグに、名前は川の向こうで嘘だろと言う降谷を見た気がした。
 安室透という人物が死んだことは、捜査を行っていた警視庁から蘭の父親である毛利小五郎を通して三人には伝わった。バイト先であったポアロにも勿論連絡はいき、しかし混乱を招かないよう彼の不在を尋ねる客には辞めたとだけ告げているらしかった。
「その、詳しい理由は聞いた...?」
「......ううん、何も」
「そうだよね、ごめん」
 歯切れの悪い園子にらしくないと思うも当たり前だろう。身近な人が、自分にだって大切な恋人が死んだのだ。それなのにわたしは平然と嘘を吐いた。もう感情の感覚なんてとっくに麻痺してる。
 遮断していた意識が何かの拍子に浮上して、またすぅっと沈んでいく。身体の感覚も水の中を漂っているようで、聞こえる教師の声はくぐもりを強くしてどんどん遠くなる。それを幾度も繰り返しているうちに午前の授業は終わっていた。
 周りがガタガタと机の向きを変え、弁当の中身が見えて、その匂いが鼻をつくと胃がせり上がってきた。思わず口を押さえトイレへ向かうが吐き出せるものは何もない。食欲は未だ湧かず栄養補給ゼリーを胃が受けつける分流し込むだけなのだから。
「名前!」
 心配して来てくれた蘭の肩を借りて立ち上がる。一瞬で全身にかいた汗のせいで身体が冷えてしまった。
「ごめん、お弁当きついや。保健室行ってるね」
「一緒に行こうか?」
「ありがと。でも大丈夫。蘭はお弁当食べてて。授業始まる前には戻るからさ」
 よろよろと歩きどうにか保健室へ辿り着いた名前だが、カーペットの上に足を置くなり倒れ込んだ。養護教諭はいないらしく、そのまま目を瞑り呼吸で吐き気を落ち着かせる。
「わっ!ちょっと!大丈夫!?」
 開いたままの背後の引き戸から教諭の声がした。肩を支え座らせようとしてくれるが、急な浮遊感にそれどころではない。
「はい!」
 視界が真っ黒に塗り潰される寸前に袋が差し出されて、そのまま口を突っ込んだ。汚い声とともに吐き出される何かが喉を焼く。
 痛い、苦しい、気持ち悪い。とにかく最悪の気分だ。
 前向きになったはずの気持ちに身体が追い付かず、結局はまた気持ちが落ちていく。
 零さん、苦しい、苦しいよ。楽になりたい。零さん。
「大丈夫、大丈夫だからね。全部吐いちゃおう」
 また胃が異音を立てて動く。鳩尾が気持ち悪い。この詰まってるものを吐き出したい。
 零さん、ごめんなさい。死にたいよ、もう死にたい。
 言ってはいけないと思っていた言葉を心の中で言った。胸のつかえが無くなるとまた喉を痛みが襲う。まるでもう話すことを許さないと、必要ないと、そこを焼かれているようだ。
 吐き気が治まると、思考もまとまりがついた。そして言ってはいけないことを言ってしまったと気付き涙が出た。
「苦しかったね。でもすっきりしたでしょ?」
 的外れなのに的確な言葉が慰めてくれて心が落ち着いた。
 ごめんなさい、零さん。ごめんなさい。ごめんなさい。もう二度とそんなこと思わないから。あなたが生きたかった世界で、わたしは生きるよ。
  ──次は許さないぞ。
 腕を組んで仁王立ちで見下ろされると笑ってしまった。
 どんなにみっともなくても生きるよ。わたしは零さんのために生きる。でも、でもまだ今は弱気になることも、泣くことも許してね。





 零さんが使っていたシャンプーとボディソープ。男性用のものだけど、自分から立ち上る香りに、肌を重ねている感覚になって使うのをやめられなかった。おかげで髪は少しパサつくようになったし、肌は乾燥気味だ。
 最後に愛された証は日を追うごとにどんどん消えていった。まるでもう愛されていないみたいで怖くて、寂しくて、腕の内側についた痕を自分で上書きした。薄かったそれが濃い赤に生まれ変わると、愛されているんだと安堵し幸せに浸れた。
 風呂上がりは彼の服を身に纏った。ベットの上で微睡むわたしを大事そうに抱き締めてくれる腕が確かにあった。

 ──名前
 朝の微睡みを漂っていれば名を呼ばれた。空気が震えて呆れられているのが分かる。それでも重い瞼は開くことを拒否していて、髪や頬を滑る指先はイタズラをやめない。
 ──名前、俺はここにいる
 はっと目が覚めた。薄明るい寝室のベッドに一人。髪に触れているのは自分の指だった。
 湧くはずの虚しさはない。何故だか彼がいると、ありえないのにそう思って朝の陽射しを透かすカーテンを開いた。
 そこには黄色い光を受けて眩しく輝く街並みがあった。小鳥が囀り自由に空を飛んでいる。彩りを濃くしながら世界が起きていく。
 すっきりとした空気も風も空も、黄色い光も、彼に似ていた。
 ぽろぽろと勝手に溢れてきた涙をそのままに、窓を開けてサンダルをひっかけると手すりに凭れた。
 でも違う。彼じゃない。
 きょろきょろと辺りを見回して見つけたそれに息を飲んだ。玄関へと走りサンダルを履き替えると、顔も洗わぬまま部屋を飛び出した。
 マンションと十字の道路を挟んだ対角にある公園の前に、その白いFDは停まっていた。車は詳しくないけれど同じ型の同じ車。ナンバーは違うし、リヤ側からではシートに座る誰かの姿は見えない。でも彼だと確信した。
「零さん...!」
 車の通りがないのをいいことに赤信号を渡る。走りっぱなしで息は苦しいし、何度も脚は絡まって転びそうになった。それでも止まることなど考えもしなかった。
 少し手前で速度を緩め呼吸を落ち着かせる。意を決して覗き込んだ座席には誰もいなかった。視線を向けた公園入口の車止めに腰掛ける人影を見て再び息を飲んだ。
「俺の車、かっこいいでしょ?」
 長い脚を投げ出す青年は頭上に広がる晴れやかな空を思わせる、からりとした笑みを浮かべた。
  ──零さんじゃない
 その事実がここまで鞭打ってきた身体に大きな衝撃を与えて、名前はその場にへたりこんだ。
「えっ大丈夫!?」
 肩で息をしながら泣く名前に、青年は慌てながらも伸ばした服の袖で涙を拭ってくれる。その手つきが酷く優しくて、降谷に慰められているようで、思わずその名を呼んだ。
 ぴくり、と青年の手は一瞬動きを止めたあとで、溢れ続ける涙を袖で受け止めた。
「辛いことあった?とりあえず朝飯食おうよ!人間不思議なもので食えば元気が出るからさ!」
 青年は助手席のドアを開けると何かを掴み、それから名前の手を引いた。触れるのは肌ではなくさらりとした白の手袋。温度は感じられないはずなのに、この温もりを知っている。見上げた背中の広さが、背丈がおかしいくらいに同じで一層涙は溢れた。
 青年は朝日が照らす公園のベンチに名前を座らせた。ずびずびと鼻を鳴らすのを笑って頭を撫でる。わざとやっているのかと思うくらいに優しい仕草が彼と同じで、でも彼ではなくて胸を抉った。
「なんか美味しいって有名らしくて、朝から買いに行っちゃったよ」
 隣に座った青年が紙袋から取り出したのは、ラップに包まれた安室考案のあのハムサンドだった。パン屋で売られていたそれを差し出されて名前は首を振る。
「...お腹空いてない?」
 お腹は空いてない。でも吐き気も無い。降谷の手によるものではなくても、彼の存在を感じさせるそれに胸が苦しくなった。食べたいと思った。でも食べたあとに吐き戻してしまうかと思うと、食べようとは思えなかった。
「ちょっとでいいから食べてみない?こんなに痩せてたらさ、零さんも心配ちゃうよ」
 零さん。零さん、零さん。零さん。
 青年が手にしたそれを差し出してくる。恐る恐る口を開いて端に齧り付くと素直に美味しいと思えた。それはいつの日か食べた味と相違ない。
「美味しいでしょ?元気出た?」
 青年は名前の手を掴みそれを持たせると、新しいものを手に取り口をつけた。
「うん!美味しい!やっぱ美味しいものは元気が出るよな!」
「...うん」
 大粒の涙をぼとぼとと落としながら、名前は長い間感じなかった空腹感を思い出す。久しぶりに酷使される顎が疲労を訴えるのを無視して、あっという間にそれを食べ終えた。
「落ち着いた?」
「はい、ありがとうございます」
 鼻声に恥ずかしくなりながら頭を下げる。それから見上げた顔は優しく緩められていて、ちっとも顔は似ていないのに、表情が似ていて胸がずくりと痛んだ。
「ねえ、俺明日も来るからさ、君も、えっと...」
「名前です」
「名前、うん、俺はナナセ。北斗七星の七星。ね、名前ちゃんも来てよ。またこのハムサンド買ってくるからさ」
 期待の込められた熱っぽい眼差しに見つめられて躊躇う。しかしすぐに頷いた。嬉しそうに破顔されるも、上手く笑えていたかは分からない。
 ロータリーサウンドをまだ静かな朝に響かせ去る七星を見送ると、途端に寂しくなった。
 出会ったばかりの青年に死んだ恋人を重ねて、それに気付いてもなお青年を通して恋人を愛したい。最低だとは分かっていても、今は生きるため縋るしかなかった。
「零さん、また明日」



BACK