罪を喰らう19
 次の日も、その次の日以降も七星はハムサンドを持って、たった20分程の朝食のためにやってきた。どういう訳か、ハムサンドを食べてからは他のものも食べたいと思えるようになり、名前の胃袋はちゃくちゃくと大きさを取り戻している。
 朝七時頃に二人は公園で落ち合い、ベンチやブランコ、七星の車の中でハムサンドを食べながら話す。車に乗るのは抵抗があったものの、降谷と思い出深いこの車は、あいにくそこらへんを走っている代物ではない。語りかけてくる思い出に、気付けばナビシートへ身を沈めていた。
 七星はここから車で20分程の閑静な住宅街に兄と住んでいる。年齢は名前の二つ上で、大学一年生になる年だ。しかし事故が原因で大学受験を断念、残ったのは手を覆う手袋らしかった。
 よく話し、よく笑う。そんな七星の隣は自分を繕う必要がなく楽で安心できた。名前が抱える傷を何となく察して、傷付いた心に寄り添うような柔らかい言葉で語りかける。
「ねえ、零さんのこと聞いてもいい?」
 当たり障りのない日常会話に混じえ、時折降谷について訊ねてくることがあった。不思議と嫌な気持ちにも、泣きたい気持ちにもならないのは、話すことで思い出を昇華しているからなのかもしれない。
 小さく頷けば七星はありがとうとでも言うように瞳を細めた。
「うーん...、今日は好きなところを教えて」
 七星は決して言葉を過去形にはしなかった。好きだったところ、ではなく、好きなところ、と。いつもそうだった。そうして語り終えた名前に最後は大好きなんだね、と嬉しそうに笑顔を向ける。何が楽しくて聞いて嬉しそうにするのか、名前にはまるで分からなかった。ただ大好きな人の話をする度に愛しい気持ちが増して、それを聞いた人が笑顔になっていると、自分は間違っていない、この愛を貫けばいいのだと自信が持てた。
「零さんの好きなところはたくさんあるよ」
 はじめ、七星が降谷の名を口にした時、しまった、と思った。いくら亡くなったとはいえ危険な組織に所属していたし、風見もまだ危険があるかもしれないと言っていたから。しかし全く知らない人なのに大丈夫だと、全く知らない人だからこそ大丈夫だと思えた。友人たちには話せない降谷零という本当の彼について自慢出来るのは嬉しかった。
「何から言っていいのかなあ...。とりあえず上からいこうかな」
「...上?」
「うん、髪の毛」
「ふふっ、単位が細かいなあ」
「細胞レベルで愛してるってことだよ。零さんも髪の毛一本から爪の先まで愛し尽くすって言ってくれたもん。それでね、髪は金に近い茶色で、太陽とか照明に照らされるとキラキラ光って星みたいで凄く綺麗なの」
「うんうん」
「男の人だからちょっと髪質は固めだけど、でも指を通すとさらさらで、前髪をかき上げる仕草を見た時は心臓が爆発しそうになった」
 おおげさ、と笑う七星の瞳は甘く優しかった。
 何でそんな瞳で見てくるのだろうか。もしかして、彼も誰かの姿をわたしに重ねているのだろうか。
 そう思うと合点がいった。そうでなければ初対面で面倒にも泣いた女に会いに、わざわざ朝から車を走らせはしないだろう。きっと明日はわたしが彼の話を聞こう。そう思って名前は言葉を続ける。
「瞳は羨ましいくらい大きくて可愛い。あとタレ目がちなのも可愛い。でもキリってしてる時は強い意志が宿っててかっこいい。わたしのほっぺたがぽぽぽって赤くなるのに気付くと、今度は柔らかく細めて、愛してるって視線で伝えてくれるの」
「眉も意志の強さを示すようにしゅっとしてる。鼻はハーフさんだからなのかやっぱり高い。顎のラインもシャープで横顔はいつ見ても見蕩れるくらいに綺麗。うん、思い浮かべただけでほっぺたにたくさんキスしたくなる」
「それから唇。唇にもたくさんキスしたいなあ...。見た目は薄いんだけど触れるとふっくらしていて、いつもキスは気待ちよかった。わたしはいつも息切れしてばかりだから、次会った時はしっかり応えられるようにしたいなあ」
「身長は高いし、身体もがっちりしてる。くぼんで、膨らんで、筋肉の隆起が、なんだろう、美しくてね、いつまででも触れていたいの。胸板と腹筋は硬くて、引き締まった腕には血管が浮いていて、骨張った指は少しかさついていて、ああ、わたしとは違って男の人なんだなって触れられる度にドキドキする」
「って、わたしまずい方向に話向けちゃったね!今の忘れて!」
「えっと、えっと...、うん、とにかくわたしを甘やかしてくれる人、かな。甘えていいよ、って言うんじゃなくて、甘えて欲しい、ってわたしが甘えやすいようにしてくれるの。優しいよね。いつも年上の余裕があって悔しくて、でもたまに照れたり、拗ねたりするのが可愛い」
「わたしが子供っぽいのを気にしてたら、そんなところも好きだし、愛してるって言ってくれた。すっごく嬉しくて、わたしも大好きだなあって、ずっと一緒にいたいって思ったの」
「今は会えないけど、また会えるって信じてる。早くあの逞しい背中に飛び付きたい。そのあと正面から抱き締めてもらって、胸に顔を埋めたい。可愛く下から見上げてきゅんってさせたい。顔中にキスを降らせて、愛してるって言って欲しい」
 まだまだたくさん好きなところはある。全部全部伝えたい。わたしは零さんのことが、こんなにも好きなんだよって。
 ランドセルを背負った男児が車のすぐ側を走り抜けて行った。立ち止まったと思えば、後ろから追いかけていた女児と合流して今度は二人で走り出す。
「......零さんとあんなふうに過ごしてみたかったな。制服デートとか」
 ぽつりと叶わない願いが口から溢れた。それを拾った七星はじゃあさ、と白い歯を見せる。
「零さんと出来なかったこと、俺としようよ。制服デート。プリクラ撮って、ゲーセンでぬいぐるみも取ろう」
「でも...いいの?七星くんはわたしとで」
「名前ちゃんとがいいんだよ」
 胸にきゅぅと走った痛みをわたしは知っている。何度も経験した。零さんが与えてくれた愛しい痛みだ。零さんじゃないのに。こんなこと許されないのに、望んでいないのに。
「......ありがとう。でも零さん以外の人とそういうのは...。ごめんね」
「ううん、俺も考えなしだった、ごめん。気にしないでね」
 少しの気まずさに静寂が訪れる。ふと目をやった時計は登校時間に差し迫っていて、名前は慌ててドアに手をかけた。
「俺、明日も待ってるから」
 反対の手を運転席の七星に掴まれて名前はそちらを振り返る。しかし視線を合わせることは出来なかった。
「...うん。またね」
 緩められた手から逃げるように車を降りると、いつも見送るのをそのままに道路を走った。
 部屋に辿り着くと出て行った時と何も変わらない光景が広がっていた。部屋に出入りする時は必ず感じられる降谷の香りがしない。まるでこのまま自分を忘れろと言われているようで、名前はベッドで毛布を被り丸くなった。
 香りが薄れていくのが怖い。零さんの記憶が、存在が消えていく。
 一ヶ月が経った時、わたしはどうなっているだろうか。
 涙が出る。どうすればいいのか分からない。
 零さんが望むように自分の足で立って未来へと歩きたい。でも日を重ねるごとに零さんは過去になっていく。忘れたくない。忘れたくないのに、香りが、想い出が、存在が薄れていく。
 ただの過去になって懐かしんでしまうのが怖い。いつか消えて無くなってしまうのが怖い。いつまでも色褪せることなく、鮮明なままであってほしい。そうするためにはどうすればいいんだろう。
「れぇ、さん...」
 何で微笑むだけなの。教えて。どうしたらいいのか、どうして欲しいのか。そうしたら何だって受け入れるから、だからあの時みたいに、零さんの心を教えてよ。



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