罪を喰らう20
 降谷─正確には安室名義─のマンションに来てもうすぐ一月が経つ。あの日を最後に七星は降谷のことを口にしなくなった。口数も随分と減り、やはり気まずくなってしまったなと、最初名前は申し訳なく思った。せっかく気を遣って誘ってくれたのに、その好意を跳ね除けてしまったと。しかしおずおずと窺った七星の表情に戸惑ってしまった。
 ただ愛しいと、そう表情が語っていた。
欲ではなく優しい想いが乗せられた視線と下がった目尻、緩んだ唇。
 胸が締め付けられた。降谷に見つめられていると錯覚して、七星を愛しいと思った。
「どうかした?」
「な、んでもない...」
「そ?」
 ふわふわとたんぽぽの綿毛でも散らしているかのように七星は笑う。その整った目鼻立ちも手伝い春の風のように爽やかだ。このままそれに吹かれ流されればどんなに心地好いか名前は考える。しかしそれでは二人の時間は止まったままだ。
「わたしね、ここにはちょっとの間住んでただけなの。もう家に帰らなくちゃいけない。だから今日は七星くんのことを聞かせて。七星くんがわたしに誰を重ねているのか」
 朝日に照らされるにしては重い空気が二人の間を取り巻く。七星が深く息を吐き出した。
「名前ちゃん...、」
 名前が唾を飲みくだす音が小さく響く。
「ごめん。何の話?」
「えっ」
 七星が苦笑しながら首を傾げ、名前もそれにつられ同じ方向に頭を倒した。
「もしかして、俺が前好きだった人を名前ちゃんに重ねてて、だから会いに来てると思ってたの?」
「...違うの...?」
「はあ〜、全然違うよ。俺は名前ちゃんが好きなの」
「あ、あれ...?」
 てっきりそう思っていた名前は焦りで言葉が出ず、冷や汗が背中を伝う。
「もう、会ってくれないの?」
 口火を切ったのは七星だった。いつだって絶やさなかった笑みはなりを潜め、春ではなく冬の訪れを感じさせるようなひんやりとした雰囲気を醸している。名前は静かに頷いた。
「もうここには来ないから会えないよ」
「会いに行ったらだめ?連絡もしたらいけないの?」
「......気付いてるでしょ?わたしが七星くんを零さんに重ねてるって。顔は似てないのに、表情や仕草がたまにびっくりするくらい似てて、どうしても重ねちゃう。だからいつか七星くんを好きになりそうで怖い」
「...好きになってよ」
 手袋に覆われた七星の手が名前の手を握った。
「俺を、好きになって」
「わたしが好きなのは、どうなったって零さんなんだよ。七星くんを好きになる時だって、それは零さんに似てるから、零さんが好きだからなんだよ」
「それでも...、それでも、いいよ。だから俺を好きになって。愛して」
 哀願する七星が名前の顔を覗き込んだ。上体を逸らした名前がベンチに手を付きそれ以上下がれなくなっても、距離は縮められ鼻先が触れた。
「ごめんね」
 名前は勇気を持って握る手から逃れ肩を押し返す。七星の瞳は涙で潤みながらも、これ以上ないほどの慈愛を湛えていた。
「分かった。困らせるのは最後にするから、一回だけ俺とデートしてください。あの人が叶えられなかったのを俺が叶えたい。お願い」
「......うん、いいよ」
「ありがとう」
 泣き笑いする七星が名前には眩しかった。心優しい七星はあまりに魅力的で、降谷の身代わりのようにしていた狡い自分なんかを好きになって哀れだとさえ思った。





 制服を纏い、学生鞄ではなくキャンバスショルダーバッグで部屋を出る。エントランスから出て最後の階段をジャンプで降り終えると、ローファーの踵が小気味いい音を立て、同時に近くで吹き出す声が聞こえた。
「ぷっ...くく、お、おはよ」
「......おはよ。笑わなくてもいいじゃん」
「いや、なんか階段ジャンプするのとか意外で。すっごい可愛い」
 くしゃくしゃと髪が撫でられて名前は固まった。七星にそうされるのは初めてだ。
 それにしても、と名前は七星の全身に視線を這わせる。照れくさそうに笑いながら七星は腕を開いて見せた。
「...どうかな?」
「うん、似合ってるよ。でもどうしたの?」
「ちょっと知り合いのを借りてね」
 そう言いズボンのポケットに手を突っ込んだ七星は、何故か帝丹高校の制服を着ていた。まるで本当に同級生にでもなったようだ。
「ねえ、今日は俺を零さんって呼んで、零さんだと思ってデートして」
 名前は目を見開き七星を凝視した。その視線を受ける七星は切なさや寂しさを感じているようでもなく、いつもと同じ爽やかな笑みを浮かべている。
「いいでしょ?」
 何故そんなことを言い出すのか分からなかった。それでも名前は頷いた。
「...零さん...。ううん、同じ高校生だもんね。零くんと制服でデートできるなんて嬉しいな」
「...俺もだよ、名前。ほら、行こう」
 今まで話したことをもとに七星は口調まで近付けているようで、名前は鼻の奥がつんとするのを感じた。
 とんだおままごとだ。七星を恋人の身代わりにしている名前と、それになりきり自分を意識させる七星。最低なのはいったいどちらだろうか。
 名前は手を引かれるまま七星の半歩後ろをついて歩いた。休日ということもあり、商業施設の映画館は混み合っている。指差しながらどの映画を見るか、あれこれ話して結局子供向けのアニメ映画に決定した。
 はちゃめちゃな行動を繰り返すキャラクターに子供たちの笑い声が上がり、名前も白い歯を見せている。映画そっちのけの七星はだらしない頬の緩みを何度も引き締めた。
 突然大きな爆発音がして、名前の目が見開き大袈裟に肩が跳ねる。どうやら走っていたキャラクターに爆弾が投げつけられたようで、スクリーンには逃げ惑う姿が映されていた。心臓が暴れたのかそこに手を置きぱちぱちと瞬くのを見て、ついに七星が笑い声を漏らし、名前はむっと顔を顰めた。
「笑わないでよ」
「ごめん、ごめん」
 名前は恥ずかしそうに唇を尖らせると、そのままドリンクのストローに吸い付く。ちゅーと小さく音がするのが可愛くて、ぽんぽんと頭を撫でると今度は頬が膨らまされた。
「......あんまり可愛い顔するなよ」
「っ、」
 スクリーンの明るさを受けた名前の顔は青白い。しかしそれでも、実際どんな色をしているのか容易に分かった。
 離れていく手に寂しさを覚えるのは気のせいだと、名前は自分に言い聞かせスクリーンを見上げる。指が絡め取られ、刺さるような視線を送られても、決してその主に応えることはしなかった。
 映画を見終えると七星は握った手をそのままに上階へと向かうエレベーターに乗った。ぐんぐん高度を上げ着いたのは開放されている屋上庭園で、昼時だからか普段賑わうそこに人影はあまりない。
「お弁当作ってきたんだ」
 空いているベンチに腰を下ろした七星は、肩にかけていたトートバッグを膝に乗せると中から巾着を二つ取り出した。黒とピンクのそれは色やデザインこそ違うが、所詮お揃いというやつになるだろう。勿論中の弁当箱や箸箱もそうだ。
「なな...零くん、料理できるんだね」
「ああ。名前は大好きなはずだよ」
 名前は一瞬誰と話しているのか分からなくなった。七星が料理をしていて、でも今は降谷で、降谷の料理は大好きで、でも今は七星で。
 開けられた弁当箱の中身がきらきらと輝いていて目が釘付けになる。どうしようもなく懐かしいと思ってしまった。
「召し上がれ」
「...いただきます」
 真っ先に箸が伸びたのは綺麗な渦のだし巻き玉子だった。ぷりぷりと柔らかな弾力、鼻腔を突き抜ける出汁の香り、薄すぎない控えめな醤油の味付け。それは降谷が作るものと遜色無かった。
 なんで?どうして?いくつもぽこぽこと疑問が浮かび上がり、期待に変わっては儚く消えていく。いつの間にか視界は滲んでいた。
「名前」
 目尻から溢れた雫を七星の指がすかさず拭った。
「今日はせっかくのデートなんだから涙はなし。笑って」
「......うん。美味しいよ、零くん。ありがとう」
「唐揚げも自信あるんだよ。食べてみて」
 七星の料理はどれも降谷と同じ味付けだった。そんな偶然ありえるのだろうか。いや、ありえない。でもそれならどうして。
 涙を堪えながら食事を進める名前の隣で、七星は中身の減らない自分の弁当箱を手に微笑を浮かべていた。
 屋内に戻った二人はゲームセンターに足を運んだ。相変わらず七星に名前が引っ張られる形で。
「ゲームセンター久しぶりだな。あまり来たことがないんだ」
「そうなの?」
 同年代の七星が、と名前は素直に驚いた。友人と外で遊ぶとなれば必ず行くようなところなのに。
「何か取ってあげる」
「えっ、取れるの?」
「俺を誰だと思ってるんだ?」
 ニヒルに笑う顔が降谷と同じだった。いや、降谷そのもので、七星ではなく見上げたのは降谷だった。
「どれが欲しい?」
 声が発されたのが魔法の解ける合図だった。
 見上げていた顔はふっと七星のものに戻り、落胆する自分に気付かれないようすぐに顔を逸らす。景品を探すためにきょろきょろと視線を彷徨わせ、目に飛び込んできたものに迷わず歩を進めた。
「......これ?ずいぶん可愛いのを欲しがるな」
「零さんに似てる」
「似てる...の?」
 名前が嬉しそうにそれを見る一方で、七星は眉を下げ解せぬと言った表情をしている。
 それは愛らしいくりくりの瞳をし、ふわふわの毛並みを持つ芝犬のぬいぐるみだった。人懐っこく従順な忠犬が警察官と似ているとでも言うのだろうか。
「じゃあ...、これにするか」
「あ、待って!入れ替えしてもらう!」
 一歩前に出る七星を名前が引き止めた。
「零さんは柴犬じゃなくて、ポメラニアンなの」
「!!?」
 スタッフの手によって後ろに陳列されていたポメラニアンと柴犬が入れ替えられるのを七星は愕然と見つめた。
「零くん、頑張って!」
 あまり来ないと言った七星が取れるとは思えないが、ポメラニアンに見つめられるとその可愛さに、そして何故だか降谷に似ていると気付いてしまえば欲しくて堪らなくなり、名前は期待に満ちた表情を向ける。七星はそんなふうに応援されて頑張る他なく、よし、と気合を入れなおした。
 一度で取ろうとせず、着実に進めた七星は三回でぬいぐるみを獲得した。取り出したそれをしゃがんだままで名前に差し出す。
「どうぞ、お姫様」
「...ありがとう」
 美麗な二人は雑多な風景をどこかの庭園にでも変えてしまうようだった。二人の間にあるぬいぐるみも花や指輪に見え、七星も今渡しているのがそんなものならばもっと格好がついたのにと苦く思う。しかし名前が本当に嬉しそうに抱き顔を寄せているのを見ると、もうなんだってよくなった。
「ね、俺プリクラ撮りたい」
「プリクラ?零くんがプリクラかあ...ふふっ」
「笑うなよ」
「だって、ねえ...面白いよ、やっぱり」
 眉を寄せる七星の手を引いて名前は空いているプリクラ機の中に入った。
「こんな感じなのか...」
「プリクラ初めて?」
「ああ。名前の初めてを叶えるはずなのにな...。俺の方が名前に叶えてもらってる気がするよ」
 二つ年上がするような表情ではない、慈愛に満ちたそれに名前の胸は高鳴る。
「誰かのために弁当を作ったのも、クレーンゲームをしたのも初めてだ。それが名前のためにできたから嬉しい。ありがとう」
「わたしもありがとう。初めてがわたしを支えてくれたあなたでよかった。ほら、一緒に選ぼ?」
 硬貨を入れた名前は七星と腕を組むと、顔を近付け画面を覗き込んだ。
「零くん目おっきいから可愛くなりそう」
 目の大きさを一番大きく、肌も超美白なるものを選択したあとで、名前は背景を七星に選ばせた。怖々と無難に無地の背景をいくつか選ぶのが面白くて、最後の一枚になると手を伸ばし大きなハートで囲まれるものを選んだ。はっとした七星が口を聞く暇もなく撮影が開始され、きらきらと笑う名前とマヌケ顔の七星が画面に映った。
「笑って!」
 無邪気に笑う名前に七星もくしゃりと破顔した。
 あっという間に最後の一枚となり、二人はハートの中に収まるよう身を寄せた。名前の視線がカメラに向かい、カウントをするアナウンスが聞こえる。七星はシャッターのタイミングに合わせて名前の頬に口付けた。
「!」
「ほっぺたくらいならキスしてもいいだろ?俺は零さんだから」
 にっと笑う七星を上気した頬で見上げたあと名前は外へ逃げ出した。追った先では画面に映る胸元にバカアホマヌケと小学生みたいな落書きがされていて七星は声を上げて笑った。





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