罪を喰らう21
 商業施設を後にした二人はいつもの公園に向かって歩いていた。その手はしっかりと握られていて、傍から見れば高校生のカップルにしか見えない。しかし刻一刻と離れる時が迫る二人の間に会話はなく、表情も硬いものだった。
 ベンチに座った七星は隣の名前に身体ごと向ける。反対の手も取り両手を包むと、ねえ、と話し掛けた。
「どうしても、俺じゃダメかな」
 真剣な眼差しに射抜かれ名前の心は震えた。しかしどうしようもないのだ。今だって愛しい降谷と同じ瞳に魅せられただけなのだから。
「死んだ人のことをいつまでも想ってたって不毛だよ。零さんも名前ちゃんに幸せになって欲しいんじゃないのかな。名前ちゃんが幸せになって怒るような人じゃないでしょ?」
 名前の心に住む降谷が静かに頷いた。怒るわけないだろ、幸せになってくれ、と。しかし名前はそれを求めてはいないのだ。
「わたしは零さんがこれからもずっと好きだよ。いつまでも忘れられないし、零さん以上に好きになれる人なんて絶対にいない。傍にいてくれるのが零さんじゃないなら一人でいい」
「寂しくないの?俺ならずっと傍にいてあげられる。零さんを好きなままでいいから俺を愛して」
 七星の静かな声音には激情が込められていた。瞳には今にも溢れ落ちそうな潤みがゆらゆらと揺れ、同じように名前の心も揺れた。
 七星は見ず知らずの名前を慰め優しくしてくれた。支えられ身も心も癒され、だからここまで立ち直ることができた。そして名前は降谷の死を受け入れ、いかに愛しているか、今後もそれが変わらないことを実感し、誰の手も取らずに生きていくことを選んだ。
「零さんが教えてくれた人を愛する気持ちを覚えていたい。零さんの熱い身体の熱だけを知っていたい。わたしにはもう、あの人の記憶だけがあればいいんだよ」
 降谷の面影を度々感じさせる七星に、甘え縋ってしまいたい弱い自分がいるのは事実だ。好意を寄せてくれて、降谷を好きなままでいいとまで言ってくれている。しかしそれでは誰も幸せにはならない。ただ新たな苦しみを生むだけだ。
「わたしの幸せは、死ぬまで零さんだけを想い愛することなの」
「死んだ人に囚われ続けるなんて、そんなんじゃ君は可哀想だ」
「わたしがそれを望んでるんだよ。でもありがとう。七星くんはこんなわたしにも優しくしてくれて、本当に素敵な人だね」
「...じゃあ、俺のこと好きになって」
「もちろん、大好きだよ」
「違う、違う...!俺が欲しいのはそんなんじゃない...!」
 ぽろぽろと溢れた七星の涙が重なった手と手袋を濡らす。
「それなら、もう七星くんとはいられない。お別れだね」
 名前は右手を抜くと、七星の頬に手を置き親指で下瞼をなぞった。
「......まだ零くんだよね」
 そっと唇が重なった。七星はただ目を見開き、伏せられた白い瞼と長いまつ毛を見つめ、離れようとする唇を求め咄嗟に背へと腕を回せば、名前も抱き締め返した。
「七星くん、ありがとう。ばいばい」
 するりと腕から抜け出た温もりに手を伸ばすも、それが届くことはなかった。心からも名前の存在が抜け落ちていくようで、七星は遠ざかる背にか細い声を投げかけた。
「名前、北の空を探して。そしたらきっと、俺に会いたくなるから」
 名前は振り返らなかった。それが最後、きっと七星の手を取ってしまうと分かっていたから。





 風呂や夕食を済ませた名前が消えた降谷の匂いを探すようにシーツや枕に顔を埋めていると、風見から連絡があった。
「退去時期が迫っているのに誰もそちらに行けそうにないんです。申し訳ないのですが荷造りをしてもらえますか?」
 世話になった風見の頼みということもあり、名前は二つ返事で頷いた。
「もし辛くなったのなら、途中でやめても構いませんから」
 最後まで名前に気遣いを見せ風見は電話を切った。降谷が存在したことを、今でも生きて傍にいると感じられる状態で過ごしたかったが、後回しにして退去を遅らせるなんてことはしたくない。声音に疲れを滲ませる風見に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかなかった。
 早速名前は荷造りに取り掛かる。そうは言っても元から物の少ない部屋で、さほど時間はかからなさそうだった。
 普段借りている数枚の皿とカップ、カトラリーを残し他を見つけた新聞紙に包んでいく。ダンボールが無いので元の場所になおし、ざっとキッチンを見回すがあとはただそのまま詰め込むものしかないようだった。
 リビングにも片付けるべきものはあまりない。唯一該当するのはクローゼットの服たちだが、降谷の香りがするそれを今から片付けてしまうなんて名前にはできなかった。
 開けたクローゼットを閉めようとして、下にいくつか物が収められているのに初めて気付いた。いつもはハンガーにかけられているスーツや隣の戸棚に畳まれているシャツしか認識していなかったのだ。
 そこにあるのは掃除機と積み上げられた数冊の本、それからこの部屋には不釣り合いな20cm四方のアクセサリーケースだった。
 芳醇な香りさえ立ち昇らせるような深いワインレッドのレザーで仕上げられたその上蓋にダークチョコレートで刺繍されていたのは、名前の名前とその後に続くFの文字だった。
(くれるつもりだったの...?)
 アクセサリーケースだけでなく、苗字までも。
 ぐっと胸が締め付けられ息が苦しくなった。込み上げてくる涙も止められず彼岸の者の名を呼ぶ。口にする度に想いは溢れるのに、その慟哭が届くことはない。
「どうして、死んじゃったの...」
 名前をなぞっていた指が縁から落ちると、金具に触れて高い音を奏でた。上品なアクセサリーケースに相応しい飾り細工の施された鍵穴は深淵の闇のように、ただそこで開かれる時を待っている。アクセサリーケースは上蓋の鍵で全ての動きを封じられていて、鍵が入っていそうな引き出しも無い。
「鍵...どこだろ...探さなきゃ...」
 ぽつりと溢したとき、頭に浮かぶ声があった。
 ──北の空を探して
 あの時はそれ以上留まってはいけないと聞かないようにした言葉だ。それなのに耳に残った声が訴えてくる。
 何故今なのだろうか。何故七星の言葉なのだろうか。
 北の空とは。
 バサッ、と積み重なっていた一番上の本が落ち、そちらに視線がいく。並ぶ背表紙のタイトルを目でなぞると、ふと、その一つが目に止まった。ミステリー小説と思われるものが多い中で、それは薄葵のカバーをした星の神話だった。神話だけでなく、星についての詳細も記されたそれはどの本よりも厚みがある。
 流れていく星を集めたような金の髪を靡かせた降谷が北の空を探して、と微笑んだ。
 膝に乗せた本の目次を開くと、方角ごとに星座の名が記されていた。その一番はじめ、"北の空"に"北斗七星"はあった。
「北斗七星...七星...ななせ...!」
 記されたページを開くと小さな鍵が挟まっていた。膝から本が落ちる重い音がしても、アクセサリーケースに向き直った名前の耳には届かない。
 その鍵は深淵の闇を埋め、そして閉じ込められていた光を放った。
 送り主の手ずから渡されず、一人寂しく空白を埋めるはずだったその中に最後の贈り物であるネックレスは収められていた。
 ネックレスを送ることにどんな意味がこめられているのか、あの人は知っていたのだろうか。きっと、いや、絶対あの人は知っている。
「誰にも渡したくない」
「ずっとそばにいたい」
 ネックレスを手にした降谷が真摯な表情で言う。身を寄せ今にも唇が触れ合いそうな距離で微笑みながら名前の首の後ろに手を回した。
「よく似合ってる」
 するりと優しい手が頬を撫で名前は目を閉じた。しかしいつまでも期待した温もりが訪れることはなく、見慣れた部屋に一人なのは変えようもない現実だった。
 首に下がる細身のネックレスには七色の光を閉じ込めたシルバーと、降谷の瞳を彷彿とさせる深い穹の色をした二つの宝石が輝いている。
 ダイヤモンドもサファイアも一途な永遠の愛を表す。それが名前の書かれたアクセサリーケースに収められていることの意味など考えるまでもない。
 降谷は心から名前を愛していた。そして、それは今も変わらない。
「零さん、なの...?」
 床に落ちたままの本に記されたその名を見つめ呟く。
 今すぐ問い質したくとも、頑なに拒否し連絡先も知らないのだから確認のしようがない。
 荷物整理を頼まれたはずなのにかえって散らかしてしまったことに気付き溜息を吐く。どうせ答えに辿り着かない考えがぐるぐると巡り、今日は眠れないだろうと結論づけた名前は夜通し荷物の整理を行った。
 翌朝、公園でいくら待っても七星は来なかった。自分からもう会わないと言ったのだから当然だ。しかしまた会えると言ったのだから、きっと会いに来てくれると甘く考えていた。
 七星が降谷だとしても、名前は七星を深く知らない。七星から会いに来てくれない限り、二度と会うことは出来ない。





BACK