最愛9
 土曜の午後、名前は昼食を母と済ませ、リビングでそわそわと時計を見ていた。母は皿を洗いながらその様子を眺める。これから出掛けるとだけ聞いていたが、何時に出ると告げぬことから涼介と出掛けるのだろうと推測し、何も言わずにただニヤついていた。
「!」
 玄関のチャイムが鳴るなり名前はソファの横に置いていた鞄を手に廊下へ出て行く。
「行ってらっしゃい、気を付けてね〜。涼介くんによろしく」
 背中に投げ掛けられただけの言葉で、話してもいないのに母は全て気付いていたことを知る。意地の悪い人だ、と思いながら行ってきます、とだけ伝えると玄関を出た。涼介の姿を認め名前はそこが外で自宅の前という事も忘れて抱き着く。
「おっと」
 蹣跚けることなく受け止めた涼介も名前の腰に両腕を緩く回し旋毛に唇を寄せる。
「寂しかったのか?」
「うん、すっごく...。ずっと涼介くんのこと考えて授業集中してなかったから、当てられた時気付かなくて怒られた」
「それは悪い事をしたな。でも身が入らなかったのは俺もだからお相子だ」
 手を引かれ、家の前に停められたFCの助手席に身を滑り込ませる。さらりと言ってのけられた言葉が嬉しい。運転席に涼介が乗り、ハンドルに手を置く姿に見蕩れてしまう。思わずうっとりとした表情を浮かべていると気付いた涼介が顔を近付けてくる。キスをされるのかと、瞳を閉じようとするも唇が触れたのは耳だった。
「キスは出来ない。お母さんが見てるからな」
「えっ!?」
 振り向いた先にはリビングのカーテンから覗く母の姿があった。気付かれたために開き直り手を振ってくる図太い神経の持ち主に呆れてものも言えない。涼介は母に頭を下げるとアクセルを踏み込んだ。低い音がして車が走り出す。
「どこに行くの?」
 迎えに来るとだけ言われていたために名前は行き先がどこかを知らない。住宅街を抜け大通りの道に入るとスピードが上がる。
「着いてからのお楽しみ」
 右腕をドアに乗せ左手だけでハンドルを捌く涼介は名前に視線をやり、ふっと笑う。車はすいすいと進む。運転しない名前にも涼介が上手いというのはよく分かった。
 高校での話や、大学での話、昔の懐かしい話。二人は色々な話をして笑い合い、途中で数度の休憩を挟み漸く目的地に着いた。名前は駐車場入口の看板に書かれた花の名前を呟く。
「ひまわり」
「ああ、向日葵」
「涼介くん、向日葵が見たかったの?」
「半分正解ってところだな」
「?」
 駐車場に車を止め涼介はカメラを首から下げると、名前の手を引いて歩き出す。背が高い鮮やかな黄色のその花は少し離れた所からでも視認出来た。
「すごーい!」
 上から見渡せば圧巻の景色が広がっていた。一面が黄色に彩られた世界。名前は涼介の手から離れると、花と花の間の細道を走り出す。カメラの電源を入れ問題なく作動することを確認しながら涼介は名前に声を掛ける。
「あまりはしゃぐと転ぶぞ」
「そんなに鈍臭くないよ!」
 そうは言うが、出逢いのきっかけは幼い日の名前が骨折したことだ。確かに背後から転がってきたボールのせいとはいえ、もしそれが涼介や啓介であればよろめく程度だったろう。やはり離れるのはまずいな、と手元から視線を上げた時には名前は背の高いひまわりに姿を隠されてしまっていた。
「名前?」
 呼び掛けても返事はない。
「名前!」
 大きな恐怖を涼介が襲う。叫びそうになった時、鈴のような声が空気を震わせた。
「あれ?涼介くんどこ?」
 見当違いのところから聞こえた声に涼介は酷く安堵する。めちゃくちゃに道を移動したのか、と涼介右斜め後を振り向いた。
「涼介くん!」
「!」
 そこには一等綺麗な名前がいた。半袖の白いレースワンピースと黒い髪が緩やかな風に揺れ、その周りには涼介にとって名前を彷彿させる向日葵が咲き乱れている。熱い夏の陽射しよりも名前の笑顔の眩しさに涼介は見蕩れ、シャッターを切るのを忘れてしまう。慌てて涼介がカメラを構えると、名前は一瞬呆けた後でまた笑った。
 涼介が傍に寄ると名前は再び歩き出す。時折涼介がちゃんと着いてきているか確認するように振り返るその姿を涼介は瞼と、心と、そして写真に収めていく。
「さっきの続き。どうして向日葵だったの?」
「...名前は俺を花に例えると何だと思う?」
「涼介くんを?」
 名前は腕を組んで首を傾げる。
「うーん、やっぱり華やかなバラかな?白の。花言葉もぴったりかも」
「花言葉?」
「そう、花言葉。白いバラの花言葉はいくつかあるけど、涼介くんにぴったりだと思うよ。それとわたしたちの関係にも」
「俺たちの関係?ますます気になるな」
「ふふっ、花言葉って知っていくとどんどん楽しくなるの。まず一つ目は尊敬。涼介くんは啓介やチームのみんなにたくさん尊敬されてるでしょ?」
「尊敬なんて大層なものじゃないさ」
「ううん、本当にみんな涼介くんを尊敬してる。それは涼介くんだって気付いてるはずだよ」
 はぐらかそうにも面と向かって言われては照れ臭くて、涼介は曖昧に笑う。
「もう、信じてないね?」
 これ以上言っても無駄だと分かり名前は肩を竦ませた。
「二つ目は純潔。これはちょっと結びつけるのは難しいなあ」
「そうでもないさ」
「え?何かある?」
「お前の純潔は俺が貰ってる」
「なっ...!もう!」
「顔が真っ赤だ」
「あんまり見ないで」
 名前は頬から口を両手で覆うと涼介を睨む。しかしそれも涼介の瞳には可愛い抵抗にしか映らない。頬を膨らます名前の頭を宥めるように撫でながら続きを促す。
「三つ目は......、”わたしはあなたに相応しい”」
「!」
「ちょっとくさい感じになっちゃったかな?恥ずかしい」
「いや、俺たちの関係そのものだな。俺には名前が相応しいし、名前には俺が相応しい。そうだろう?」
「...うん」
 涼介は名前の左手を取り、名前に視線を向けたままでその薬指に口付けた。柔らかな唇の触れた位置に気付き名前は胸が熱くなる。そのまま指を絡めると名前の身体を引き寄せた。瞳の前の顔が迫ってきて、名前は慌てて手を突き出す。
「涼介くん!ここ外だから!それで、わたしは何の花なの?そういうことだよね?」
 近くで子供たちのはしゃぎ回る声と、その親の声が聞こえて涼介は溜息を吐く。
「ああ。名前は向日葵みたいだ。見ている者の気持ちを明るくさせて、勇気づけてくれる。名前には向日葵が似合うだろうと思って、向日葵に囲まれた名前の姿を見たくて、写真を撮りたくてここに来たんだ。花言葉は知らないから、もしかしたら的外れかもしれないが...」
 苦く笑う涼介に名前は優しく微笑むと首を振った。
「ううん。的外れなんかじゃない。向日葵の花言葉は”あなただけを見つめる”。涼介くんしか見てないわたしにぴったりの花だよ」
 名前は涼介の左手を取り、先程涼介がしてみせたのと同じ様に薬指に口付ける。
「いつまでも涼介くんだけを見つめるよ」
「......あずな、俺もお前だけを見つめて、お前だけを愛してる」
「わたしも愛してます」
「俺だけを?」
「そう、涼介くんだけを」
 二人は心からの幸せを感じる。涼介は名前の腋の下に手を差し込むとそのまま抱き上げ、くるくると回ってみせた。綺麗なひまわり畑の真ん中でそんなことをしてもらえて、お姫様みたいだ。そう言った名前に涼介は当たり前だ、と続ける。
「名前は昔から俺のお姫様だから」
 心から幸せだと告げる名前の笑顔に、息苦しいほどの愛しさが涼介を襲い、我慢出来ずに顔を寄せていく。名前もそれに応え腕を首に絡ませると瞼を閉じた。誘われるままに涼介は重ねるだけの優しい口付けを贈る。離れると涼介はポケットからあのリングケースを取り出した。
「それ...」
「ああ。この前は酷い渡し方をしてしまったから、今となっては名前が受け取ってくれなくて良かったかもって思ってるよ。だから今、こうしてきちんと渡せる」
 リングケースの中では小さなダイヤモンドがシルバーリングを彩っていた。それを手に取りケースをポケットに仕舞うと、涼介は名前を見下ろした。真剣な瞳に射抜かれて名前は息を呑む。涼介は名前の左手の薬指にそっと指輪を嵌めた。
「名前、結婚してほしい」
 風が止み、黄色い世界が消えた。名前には涼介しか見えず、涼介にも名前しか見えない。
「数年後、二人の準備が整ったらもう一度伝える。だから今はこの指輪だけ貰っていてくれるか?」
「......はいっ」
 零れ落ちる涙を涼介はハンカチで拭った。嬉しくて嬉しくて涙は止まることを知らず、涼介のハンカチをどんどん濡らしていく。
「名前、お前を不安にさせてしまうことがあるかもしれない。でも俺にはお前しかいないし、それが変わることはこの先ありえない。だから、一生涯俺に愛し尽くされると覚悟していてくれ」
「っ、うん、うん」
 何度も頷きを返しながら名前は涼介の胸に縋り付く。
「高校を卒業して、涼介くんがお医者さんになっても一緒にいてくれる?」
「ああ」
「結婚して、子供が産まれて、孫が産まれて、しわくちゃのおばあちゃんになっても、それでもずっと一緒にいてくれる?」
「名前がしわくちゃのおばあちゃんになる時、きっと俺はしわくちゃでよれよれのおじいちゃんになってるけど、それでも最期の時が来るまで一緒にいて名前を愛して、生まれ変わっても白い乗り物で名前を迎えに行くよ」
「っ、うう」
 もう何も言えなくなって名前は腕に力を込め精一杯の愛を返す。涼介も名前を強く抱き、互いの発した言葉を頭の中で反復しては喜びを噛み締めた。
 風の音と黄色い世界が二人の前に戻ってくる。
 これから先、どんなことが二人を待ち受けるかは分からない。嬉しいことと同じだけ悲しいことや辛いこともあるかもしれないし、別れの危機だってあるかもしれない。それでも互いの気持ちは永遠に変わらない確信が二人にはあったし、恐らく二人を知る周りも同じだろう。
「名前、いつまでもお前を愛し続ける」
 甘い言葉は名前の中に柔らかく溶けていった。


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