最愛10
 梅雨の晴れ間。ベランダに置かれた鉢植えの葉には、遅くまで降ってい雨露が残り太陽の光を受けてきらきらと光る。涼介は晴れて良かったと息を吐き、暖かなコーヒーを胃の中に流し込む。緊張で昨夜は中々寝付けずに、隣で眠る名前をじっと見つめている間にいつの間にか寝ていた。それでも浅い眠りはすぐに覚めベッドの中に名前を残し涼介は恐る恐るカーテンを開いたのだ。地面はまだ濡れているものの昨日の土砂降りが嘘のように空は晴れ渡っていた。
 六時過ぎ薄ピンクのパジャマを着た名前がリビングに姿を現した。涼介の着る水色のパジャマと色違いでセット購入したものだ。椅子に腰掛けた涼介を見つけると頬を膨らませながら涼介に抱き着いた。
「何で先に起きちゃうの。不安になったじゃん」
「不安に感じることなんて何も無いだろう。こんなにも名前を愛しているのに」
「仕方ないじゃん。素敵な旦那さんなんだもん」
 数少ない名前からのキスに涼介は気を良くして顔を寄せる。すぐに名前は離れていって涼介は名残惜しさに名前を見上げる。
「そんなに物欲しそうに見ないでよ。わたしも堪らない気持ちになっちゃう」
 火照った顔を涼介から背けると名前はキッチンへ向かい朝食の準備を始める。いつもと同じ朝の一時が今日はとても特別に感じられた。
 朝食と片付けを済ませるともう家を出る時間になっていた。二人は着替えると連れ立ってマンションのエントランスへ降りる。二週間程前に配車を依頼したタクシーはもう停まっていて、二人が乗り込むとすぐに出発した。休日の早朝は車も少なくスムーズに進む。いつもは話題に困らない二人だが今日ばかりは口数も少なく、一時間程で着いた式場を見上げ肩を寄せた。
「緊張するなあ」
「心臓が口から飛び出そうだ。医学的にはおかしな話だが」
「ふふ」
 涼介の口からそんな冗談が飛び出すくらいには緊張しているらしいことを名前は嬉しく思った。
 二人は今日、神の前で愛を誓う。
 控え室の前で二人は手を離し別々の部屋へと入る。通された部屋には悩んで選んだ純白のドレスが掛けられていた。ドレス選びに涼介は参加しなかったため、この姿を見せるのは初めてだ。
「綺麗って言ってくれるかな」
「それは当然言ってくれますよ。ドレスを着た高橋さん本当にお綺麗ですし、旦那さん愛の言葉は惜しみなく伝えるようですからね!」
 名前の呟きを拾ったスタッフは興奮気味に話した。この式場を初めて訪れた際に案内をしてもらい、そのまま担当になった人で二人のファンになりましたと熱弁されたのはまだ記憶に新しい。それに涼介は名前の肩を抱き寄せ言葉を返した。
「妻の魅力を理解してもらえて嬉しいです。男に理解されると困りますが」
「きゃーっ!」
 担当スタッフは黄色い声を上げ、周りで聞いていた他のスタッフも涼介の言葉にほぅ、と聞き惚れたようだった。
 名前は机の上に持ってきたハンドバッグを置いた。ウェルカムカードは涼介自ら一人一人の席に置くと涼介が持っているし、その他の小物も全て涼介が飾るからと取り上げられてしまっていたためハンドバック一つだけだ。
「高橋さん、早いけど着替えましょうか。旦那さん少しでも早く会いたいでしょうし」
「ええ、そうですね」
 涼介は気付かれていないと思っているようだが、今日のためにカメラは新調されていた。数日前に啓介が家に来た時、こそこそと多すぎるフィルムの予備も合わせて渡しているのを見ていたのだ。
 名前は服を脱ぎブライダルインナーを身に付けた。スタッフの手にしたドレスがふわりと揺れる。レースがふんだんに使われたプリンセスラインのドレス。ロングトレーンが特徴で、入場の際は名前のいとこの子供たち3人が持つことになっている。
 するすると柔らかな布が肌に触れる。何度打ち合わせをしても現実感が湧かなかったはずなのに、当日ドレスを着てみると途端に実感が湧き瞳の奥が熱くなる。鼻をすすった名前にスタッフは慌てる。
「まだだめ!泣くのは後にとっておいてください!誓いのとこからなら泣いていいですから!」
「はいぃ」
 どうにか涙を堪え、スタッフが背中の留め具を付けると、くるりと一度回って見せた。スタッフがよし、と頷くとメイクスタッフが入室する。大きなメイク道具がたくさん並べられ名前は鏡の前の椅子に促された。
「ではメイクからしていきますね」
「はい、お願いします」
  プロにベースからしっかりと整えられ、どんどん自分が見慣れない顔に作り替えられていくようで少しドキドキする。首周りにもラメの入ったパフが押し当てられ何だか宝石にでもなったような気分だ。
 時間を掛けて丁寧に崩れにくいメイクが完成したところで、今度はヘアメイクに移った。名前が打ち合わせの段階で伝えていた希望イメージはお姫様だった。メイクもヘアセットも普段の名前からは考えられないようなふんわりとしたものだったが、抑える所は抑えられ名前の魅力を引き出し、より一層輝いて見える完璧なものだった。
「本当にお姫様みたい」
「ええ、旦那さんだけのお姫様ですよ」
 このファンのスタッフは恥ずかしいこともすらすらと言ってのける。それが事実なのだと分かっているから名前は手渡されたブーケと共に素直に受け取った。
「じゃあ、写真撮影に移らせていただきますね。旦那さん呼んでくるので待っていてください」
 そう言って二人は部屋を出ていった。涼介にこの姿を見られると思うとドキドキする。心臓が煩いくらいに拍動し、手まで震えそうだ。
「それではあそこに見えます撮影ブースでお待ちしておりますので、準備が整いましたらお越しください」
「はい、ありがとうございます」
「メイクとヘアセットが崩れてしまうので泣かせたり、あまり激しいスキンシップはダメですよ〜」
「はは、保証はしかねますね。出来るだけ頑張ってはみます。名前、入るぞ」
 スタッフの冷やかしに上手く返す涼介の声が聞こえて肩が跳ねる。ドアが開いて涼介の気配が近付いてくる。ドキドキとすぐ耳の近くで心臓の音が聞こえた。
「名前」
 すぅっと落ち着いた声に心が凪いでいく。
「名前」
 きっとそこには白いタキシードが誰よりも似合っている夫が柔らかに笑んでいるのだろう。そして似合っているとたくさん褒めてくれる。
 さっきまで緊張していたはずなのに、それはどこかに飛んでいって、かっこいい涼介が一秒でも早く見たくて名前は振り向いた。
「ああ...名前、とても綺麗だ」
「涼介くんも、凄くかっこいい」
 名前は涼介が直視出来ず、ブーケを顔の前に掲げた。涼介は笑うと足を進め、名前の手を取りブーケを下ろす。
「隠さないでもっとよく見せてくれ。一生忘れないように、俺の身体全身に名前を焼き付けたいんだ」
「りょ、すけ、くん...」
 そう言われて名前も涼介を見つめた。撫で付けられた見慣れない前髪と額に触れたくなる。
「こんなに綺麗な名前を妻に貰えるなんて俺は本当に幸せ者だ。俺を選んでくれてありがとう」
 顔を真っ赤にする名前の頬に涼介は嬉しそうにキスを落とす。
「ブーケには俺達の花が使われているんだな」
 ブーケは二人の花、白いバラと向日葵をメインとして名前自ら作ったものだった。
 シャッター音が聞こえて二人は部屋の入口を見る。少し開いたドアからそれぞれカメラを手にした啓介と緒美の姿が覗いた。
「お邪魔しました」
 緒美はにこりと笑い、すぐさまその場を去る。啓介もワンテンポ遅れて付いて行くのを名前は信じられないといった瞳で見つめた。
「撮られたものは仕方ない。それが良い出来であることを祈ろう。スタッフを待たせるといけない、そろそろ行こう」
 涼介が左手を差し出す。生涯この手を離すことはないのだ。名前はしっかりと大きな手に自分のものを重ねた。

 チャペルに柔らかな陽射しが差し込んでいる。濡れていた地面はすっかり乾き、梅雨の晴れ間であることを忘れさせた。祭壇前には涼介が立ち、新婦側からはその美貌のためにひそひそと声が上がる。
 アナウンスが入り、涼介は振り向いた。入口の大きな木製の扉が開き、ベールに包まれた名前が父と共に入場してきた。その後ろにトレーンを持つ2歳、3歳、6歳の子供たちが続く。ゆっくりゆっくり近付いてくる名前の姿に涼介は胸の奥が熱くなった。
 長すぎる年月だった。名前と出会い、最初は妹のように思いながら喜怒哀楽様々な表情を見て、多くの出来事を共にしてきた。次第に気持ちは一人の女性へ向ける愛へと変わり、犯した罪を明かし、受け止めてもらい、惜しみなく愛を伝えてきた。今度は証人たちの前で神に永遠の愛を誓う。
 近付いてくる名前の表情は、早くも涙を堪え始めていて涼介は口角が緩む。それは家族や友人も含めて同じで、名前が感情豊かな事は皆の知るところであるようだ。種類は違えど自分たちは愛され、祝福されている。
 名前の手を受け取り、名前の父と握手を交わす。涼介は泣き顔を覗き込んで安心させるように笑った。
「一生の想い出に残る素敵な一日だ。笑っている名前を見たい」
 名前はぎゅっと瞳を瞑り開くと頷いた。握った名前の手を己の左腕へ導くと、足並みを揃えてゆっくりと階段を上がる。前でも、後ろでもない、隣に寄り添いこれからを往く。

「健やかなるときも、病めるときも」
 神父がにこやかな表情で夫婦となる二人を見つめる。
「喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも」
 楽しい事なんか一年間何も無いなんてこともあるかもしれない。辛い事が立て続けに起きて、喧嘩だってするかもしれない。
「これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け」
 それでも互いがいるだけで幸せだと思える。
「その命ある限り、真心を尽くすことを、新郎は誓いますか」
 涼介の左腕に添えた名前の手を涼介の右手が握る。見上げた涼介の真剣な横顔がはっきりと答えた。
「誓います」
「新婦は、誓いますか」
 名前もブーケを持った手を涼介の手に重ねた。
「はい、誓います」
 胸の奥が震える。甘美な幸せの波が全身へ、触れた手から重なり二人を包み込む。
「それでは指輪の交換を」
 神父の声に被さるように咳払いが起きる。二人の元へ歩んできたのは、緊張の為に手と脚が一緒に出ているリングベアラーを務める啓介だ。かくかくした動きにチャペル内は一瞬騒然とした後で笑いが広がる。啓介は顔を真っ赤にし、厳正で感動的だった空気を壊してしまったことが申し訳なく、二人の顔を見ることが出来ない。しかしくすくすと笑う二人に救われる。フィンガーレスグローブのため、名前はブーケだけを啓介に渡す。涼介はリングピローから小さな指輪を取り、優しく笑った。名前の左手を掬いあげ嵌められている婚約指輪の上に重ねると、更にそこへキスを落とす。女の高い感嘆の声と、男の野太い冷やかすような声が上がるが、それもすぐに収まり皆の視線は名前に釘付けになった。
 世界一幸せな花嫁は、ベールの中で梅雨の晴れ間のように眩しい笑みを浮かべながら、一粒の涙を零した。あまりの美しさに涼介を始め全員が言葉も無く見蕩れ熱い溜息を吐く。
 名前も指輪と涼介の手を取る。刻まれた言葉に愛の誓いを固くし、これからも多くの人を救う骨張った大好きな手に指輪を嵌め、唇を落とす。涼介は護りたい唯一の存在を慈愛の籠った瞳で見つめ微笑んだ。
 ブーケを名前へ渡すと、啓介は今度こそしっかりとした足取りで席へと帰って行く。その背を母と緒美にどつかれているのを見て、チームのメンバーは当然の仕打ちだろうと唸った。
「それでは誓いのキスを」
 名前はブーケを両手で持ち、軽く身体を屈めた。涼介は名前の顔を覆うベールをゆっくりと持ち上げ頭の後ろへと流す。名前が脚を伸ばすと、涼介は名前のブーケを持つ手に両手を重ねた。
「愛してる」
 小さな声で囁かれたそれは名前にだけしか聞こえず、名前が言葉の意味を受け取った時、既に唇は重なっていた。人前という事も構わず長く口付け、最後はリップ音を立てて離れる。
  名前はブーケで口元を隠し涼介を睨み、涼介はしてやった、と優美に笑んだ。そんな二人を祝福する歓声と拍手が惜しみなく送られる。
 命ある限り共に生き、愛する誓いを二人は立てた。その誓いが破られる事は間違ってもないだろう。
 二人の門出と、これから続いていく幸せな生活を太陽が優しく照らしていた。

end.

あとがき



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