悲愴2
 翌日以降も名前の不安な日々は続いた。潜入捜査中の降谷と会えるのは降谷が登庁した時だけで、いつどこにいるか分からないため電話が出来るのも降谷から掛かってきた時だけ。恋人になる前と変わったところなんて、名前が運命に怯えるようになったくらいだ。今この瞬間にも、自分の知らないところで降谷が運命の番と出逢っているかもしれない。そんな不安や恐怖に苛まれ名前はすっかりまいっていた。
「おい、大丈夫か?」
  風見の問いに名前は抑揚の無い声で答える。
「何をもって大丈夫と言えばいいでしょうか。肉体的に問題はありませんが、精神的にはきついです」
「...あまり無理はするなよ」
 普段の馬鹿みたいに明るい姿があの日以降鳴りを潜め、それを心配する捜査員たちにも影響が出ている。肉体的に問題無いと言ってはいるが食事量が減ったため痩せていることも、そうやって追い込まれているのは精神的不安、もっと言うならば降谷絡みだと風見は知っていた。そして潜入中の降谷は恋人がこんな風になっているなんて知らない。どうしたものか、と風見が頭を悩ませていると携帯の着信音が部署に響いた。咎めるより先に名前が謝罪し、電源を落とす。その数秒後今度は風見の携帯が震えた。
「はい」
「風見か。今何か案件があるのか」
  凛とした声が鼓膜を震わし、廊下へ移動した風見の背筋がすっと伸びる。
「いいえ、特には。苗字のことですか」
「ああ。ここのところ電話に出ない」
「今も連絡が来た後で電源を落としていましたよ。相当まいっているようです。それを心配して他の者達にも影響が出ているので、早々に対処をお願いしたいのですが」
 風見の言葉で全てを察した降谷は一つ息を吐いた。
「そうしたいところだが、暫くは会えそうにないな」
「それでは、わたしがフォローに回りますがよろしいですか」
「こればかりはやむを得んな。頼んだ」
 本当は可能な限り男と関わって欲しくはない。それも弱っている時に。しかし自分が傍にいてやれないのだから、一番信頼する部下に託すしかない。
 降谷は自分が堪えられなくなったからと、安易に想いを告げてしまったことを少し後悔していた。その一方でこれで良かったとも思う。不安のためとは言え、名前は一日中自分のことを考えているのだろうと。
 電話を終えた風見は部署へと戻り、名前の様子を伺う。黙々とパソコンに向かい、降谷の溜まった事務作業を代わりにこなす姿が痛々しい。心休まる事が恐らく最近は無いのだろう。睡眠を取れているかも怪しい。降谷にフォローすると言ったものの、良い案は浮かばない。
「苗字、」
 とりあえず昼食にでも誘うかと考えて、はたと思い当たることがあった。降谷が安室透として懇意にしている女子高生と、恋模様を繰り広げるその幼馴染みのことだ。二人は確かβとαながら互いの気持ちを受け入れている、と降谷に聞いたことがあった。年下ながらその二人の存在は降谷を安心させただろう。
 同じβの彼女からならば苗字も何か得られるものがあるかもしれない。さっきの感じだと組織の仕事で忙しいようだからきっと店に顔は出さないだろう。
 声を掛けたまま思案している風見に首を傾げながら名前は静かに待つ。風見は名前のデスクのメモに喫茶ポアロという店の名前と住所を書き付けた。
「夕方この店へ行け。行けばきっと......。いいか、必ず行けよ」
「え?何ですか?ちょっと、風見さん?」
 名前の呼び掛けを無視して風見は自席に戻る。話す気が毛頭ない事を知り名前も作業を再開した。何故その店に行かなければならないのかは分からないが、行かないと無理矢理外に追い出されるだろうことだけは分かって、昼食は遅めに取るかと名前はキーボードを叩くスピードを早めた。

「風見さん、お昼行ってきますけど、わたしはその店で何すればいいんですかね?」
「...帝丹高校の制服を着たロングヘアとショートヘアの二人組が恐らくいるはずだ。話を聞いてこい」
「...は〜い」
 益々意味が分からなくなったが名前は頷き警察庁を出た。
 バスを降りてのんびりと歩きながら、空や通りの景色、往来の人々を眺める。最近は辺りが暗くなってから帰宅することが多いため、こうしてゆっくり行動することは無かったように思う。
 やがて辿り着いた喫茶ポアロ。ドアベルを鳴らし入った店内は静かにジャズが流れている。
「いらっしゃいませ。空いてるお席にどうぞ」
  にこりと笑い掛けてきた女性店員に頭を下げ、店内を見回す。窓際の席に条件に当てはまる姿を確認して、名前は歩み寄った。
「お嬢さんたち、相席お願いしてもいいかな?」
「えっと...」
「何か御用ですか?」
 言葉を濁すロングヘアの子と、訝しげにするショートヘアの子。確かにこれじゃあただの不審者だと名前は苦笑する。こういうことなのだろう、とお節介な上司の特徴的な眉を思い出しながら、名前は口を開いた。
「わたし、今ちょっと悩んでることがあって...。誰から聞いたとかはちょっと言えないんだけど、二人に話を聞いたらいいんじゃないかって言われたの」
「そうだったんですか。ちなみにどんなお話なんですか?」
「恋愛相談なの」
「お姉様!どうぞお座りください!すっごく美人だもの、さぞ素敵な恋愛をされているんでしょう!聞かせてください!」
 腕を引かれるままショートヘアの子の隣のソファ席へ腰を下ろし、名前はもう一度苦笑した。
「突然ごめんなさい。わたし、苗字名前って言います」
「わたしは鈴木園子!」
「わたしは毛利蘭です」
「園子ちゃんと、蘭ちゃんね。よろしく」
「こちらこそ!それで恋愛相談って!?」
 わくわくと楽しさを滲ませ名前に詰め寄る園子を蘭が注意する。それを気にしないで、と制し名前は続けた。
「わたし、二人のこと詳しく聞かされていなくて...。もし嫌な思いをさせてしまったらごめんなさい」
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
「そうそう。勿体付けずに早く話してください」
 頬を膨らます園子に名前は思わず笑う。最近笑っていなかったことに気付き、何だか少し心が軽くなったように感じた。女子高生の若いパワーに当てられたおかげかもしれない。
「わたしはβで、付き合ってる彼はαなの。告白された時、あなたの運命じゃないからって断ったけど、運命にしてやるって言われて、付き合うことにした。でもそれから毎日彼が運命の番に巡り逢うんじゃないか、別れた方が楽なんじゃないかって、そう思ってしまうの」
  園子が瞬き蘭へ視線をやるのを追い掛けて、名前も蘭を見る。蘭は水滴を纏うアイスティーを一瞥した後で、真っ直ぐに名前を見返した。
「わたしはβで、好きな人はαです」
「!」
「お互いの気持ちは知ってるけど、付き合ってません。最近は中々会えないし、電話も忙しいからってすぐ切られて、不安じゃないことなんてありません。でもわたしはあいつが好きだし、信じたいんです」
 無垢な女子高生だからこそ、恋に盲目になりそう言えるんだと思った。しかしその幸福な考えこそが幸福を呼ぶのかもしれないとも思えた。
「難しく考えたって好きになってしまったものは仕方ないじゃないですか。運命の番が現れない可能性だって十分にある。運命の番でなくても、運命の相手にはなれるんですから。なるようになりますよ」
 楽観的ながらもロマンチストな園子は、悩む蘭にもこうして言葉を掛け支えてきたのだろう。彼女の暖かな心が名前にも伝わった。
 女子高生二人の言葉に名前の心は羽が生えたように軽くなった。しかし傷だらけだった心では女子高生のように綺麗な答えへと向かうことは出来ない。
  割り切ってしまおう。今と、未来を。いつか彼に運命の番が現れた時は潔く身を引こう。
「二人ともありがとうね。気持ち固まったよ。好きな物たくさん頼んで!何でも奢るから!わたしお腹空いちゃった!」
 悪いですよ、と口では言いながらもデザートメニューを眺める二人にやはり名前は笑ってしまう。視線が交わった店員が歩み寄って来るのを笑顔で迎えた。
「ごめんなさい。お話が聞こえてたんですけど、わたしの友人βでαの人と結婚したんです。今の貴女みたいにたくさん悩んでました。でも今は本当に幸せそうです。信じる者は救われる、ですよ!友人も言ってましたから」
 ぐっと拳を握る姿に名前は頷いた。
「...ありがとうございます。店員さんも良かったら何か頼んでください。今なら誰もいないから食べても大丈夫でしょ?」
「えっ、いいんですか!?」
「遠慮なく頼んでください。わたしはたまごサンドとアイスティーを。食後にホットチョコレートをお願いします」
「かしこまりました。わたしはガトーショコラいいですか?」
「ええ。二人は決まった?」
 二人の注文も聞くと梓と名乗った店員はカウンターの中へ向かった。梓が準備したドリンクがカウンターに並べられるのを名前はトレーに入れて運ぶ。礼を言いながら梓も他のフードメニューとデザートを乗せたトレーを持ち、配膳すると蘭の隣に腰掛けた。
 仕事詰めの名前は歳下の女の子達と話せるまたと無い機会を存分に楽しんだ。
 すっかり日も暮れた頃に慌てて警察庁へ戻り、憑き物が取れたように清々しい笑顔で謝る名前の頭を風見は優しく撫でた。


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