最愛 閑話b9
「ちょ、ちょっ!名前ちゃん!誰!あれ!イケメン!呼んでる!」
 店の奥で備品の整理をしていた名前の元へ、慌てふためく二つ年上の先輩が走り寄ってきた。肩を何度も揺さぶられ言われた言葉に、名前は心当たりのある顔を思い浮かべる。涼介が職場に来るのは初めてのことだ。
 名前は高校卒業後、フラワーデザインを専門学校で学び今年度からこのフラワーショップで働き始めていた。大好きな花に囲まれての仕事は楽しくやり甲斐がある。
「たぶん彼氏です」
「彼氏!でも納得!美男美女!」
「そんなことないですよ」
 作業を中断して名前は店先へと急ぐ。そこには色とりどりの花を眺める涼介の姿があって、彼の前では花の美しさも霞んでしまうと苦笑した。
「涼介くん」
「ああ、名前、仕事中にすまない」
「ちょっとなら大丈夫だけど...どうしたの?」
 涼介はにっと笑って見せる。いつもの淡い笑みとは違う珍しい笑い方だ。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、仕事が終わってから会えないかな」
「...あ」
 聞いたことのある台詞に思わず声が漏れた。
 高校三年生の時、秋名へ走りを見に行くという涼介に誘われたことがあった。涼介の目当ては秋名のハチロク、藤原拓海。涼介が拓海と交流を深め、名前も彼とその周辺人物を覚えつつあったある日、名前は街で拓海と武内樹に遭遇し、近くの喫茶店へ連れ込まれた。
「おいイツキ、涼介さんの彼女だぞ。まずいよ」
「何がまずいんだよ、ただ話するだけじゃねえか!そうだよね、名前ちゃん!」
 名前は二人の遣り取りを見て、拓海はいつもこうして振り回されているのかと凸凹でぴったりなコンビを見て笑った。
「うん、大丈夫だよ。それに何か話があったんじゃないの?」
「そうなんだよ!拓海が名前ちゃんに聞きたいことがあって〜」
「なっ、俺は別に」
「隠すなよ〜」
「言いづらい事なの?啓介に虐められた?」
「いや、涼介さんに...。まあ、嫌がらせみたいなことされた、かな」
「涼介くんが嫌がらせ?」
 やっかみを受けることはあっても、あの涼介が人に嫌がらせをするとはどうしても思えない。戸惑う名前を前に、拓海は頬を爪先でぽりぽりと掻いて重そうな口を開いた。
「...バイト先にバラが匿名で送られてきたり...」
「えっ」
「この間なんて熱烈な告白の呼び出しされてたよな!」
「告白!?何それ!?詳しく!」
 聞き捨てならない単語に、名前は思わず向かいの席に座る拓海の肩に掴みかかった。拓海は涼介と話す時同様頬を染めてしまい顔を逸らす。
「ちょっと話したいことがあるんだけど、バイトが終わってから会えないかな、って携帯の番号書いたメモ渡されて...」
「こ、告白の呼び出しだ...」
 名前は手を離すと顔を覆った。
「何それ。わたしもバラ貰いたいし、呼び出しされたい。拓海くんは涼介くんに告白されたの?わたしフラれるの?」
 泣きそうな名前に拓海は慌てて言葉を紡いだ。
「違うよ!プロジェクトDの誘いだよ!」
「ああ...なるほど。でもわたしもそれ言われたい〜!」
「頼めばいいんじゃないの。涼介さんならきっと言ってくれるよ。よく苗字の話聞くし」
「自分からお願いするのは違うの!しかもなに、涼介くんわたしの何を話してるの!?恥ずかしい失敗とか!?」
 拓海は惚気話と言ったつもりだが伝わらなかったようだ。これだけ察してもらうことが出来なければ、涼介の愛情表現も真っ直ぐすぎるものになるのだろう。捻じ曲がった感覚は男にさえバラを贈り、言い回しもそれらしいものになってしまったのかもしれない。拓海は自分が巻き込まれたことに気付き拓海は遠い目をした。
 後日、拓海は涼介にこの日の出来事を話した。自分を巻き込むな、とそれを一番伝えたかったのに、涼介の心に一番響いたのは当然名前が拓海にヤキモチを焼いていて、自分も言われたい、されたいと思っていることであった。そして涼介はいつその行動を起こすか機会を窺い、ついに今日の日に決めたのだ。
「...えっと、今日は5時には仕事終わるけど...」
 自分がその言葉を掛けてもらえる日が来ると思いもしなかった名前は、頬に色と熱が宿るのを感じながら言葉を発した。酷く優しい表情の涼介に見つめられ、名前は胸が苦しくなる。
「それじゃあ、5時に迎えに来るよ」
「えっ、涼介くん!」
 名前から詳しい事を尋ねられるのを拒む様に、素早く涼介は車に乗り込み去って行った。遠くなるエンジンの音に先輩と店長が近付いて来る。
「芸能事務所に所属してるとか?」
「どこで捕まえたのあのイケメン!」
「違いますよ。今は研修医で、もともとは幼馴染みだったんです」
「ほお、医者の卵と幼馴染み。それで今は付き合ってると。どれくらい?」
「三年です」
「ひぇ〜羨ましい〜」
「まあ詳しくは今度ご飯の時にでも!」
 店長が先輩を連れレジへと向かい、ひそひそと話してはきゃーっとどちらかの声が上がる。
「?」
 不思議に思いながらも名前はやりかけていた仕事をしに奥の備品室へと戻る。
 涼介が来たのは驚いたが素直に嬉しかった。忙しそうで伝えなかったが、今日は三年前、涼介からプロポーズされた日だ。記念日として毎年共に過ごしていたが、今年は無理かと諦めていたところに涼介からあの言葉で誘われて、このまま背に羽が生えて空でも飛べそうなくらいに心は舞い上がっている。約束はしていなかったが、もしかしたら少しでも会えるかもしれないと準備はしてきていた。それが無駄にならなかった事にほっとしつつ仕事に戻るも、緩む頬を抑えることは出来なかった。

 早出だった為に先輩と店長の二人に見送られ名前は店を出た。車に寄り掛かりその様子を見ていた涼介は、助手席のドアを開け名前に手を貸す。その行動に背後ではひぇ〜と先輩の悲鳴が上がり、何もせず去るわけにもいかず名前は熱い頬のまま会釈をした。
「職場、いい人達そうでよかったわ」
「わあっ!?」
 後部座席から聞こえた突然のママの声に、名前は座席から身体を起こし振り向いた。優雅に長い脚を組み微笑む姿はまさに涼介の母親といった風貌だ。
「えっ、何でママが!?」
「いいから気にしないで存分にいちゃつきなさい」
「......どういうこと?」
 運転席の涼介に視線をやっても淡く微笑むだけだ。いつも通りのお楽しみ、というやつだろう。こうなっては何も話してくれないことは分かっているので、名前は大人しくシートベルトを締めた。
 やがて車は街の中心地で赤信号に合わせ停車した。
「ん?」
 首を傾げている名前の頭を撫でると涼介は口を開く。
「じゃあ、頼んだよ、おふくろ」
「任せてちょうだい。ほら、名前ちゃん、降りて!信号変わっちゃう!」
「え?え?」
 シートベルトを外し後は降りるだけのママにせっつかれ、名前は車から外に出た。同じドアからママが降りドアが閉まると、窓から涼介が微笑む。
「また後で」
 信号が青に変り涼介は車を発進させた。それを見送ることも叶わず、名前はママに組んだ腕を引かれるまま歩く。暫くして着いたのは高級感溢れるブティックだった。怖気ずく名前を無理矢理中に入れると、近寄ってきた馴染みらしい店員にママは伝える。
「この子を完璧に仕上げたいの。金は惜しまないわ」
「かしこまりました」
 乱暴な口調も気にせず店員はディスプレイされたドレスをいくつか持ってくる。
「一番新しく入荷したのがこちらです。どれか気になるものは...」
「名前ちゃんにはこの色ね」
 ママが指差したのはネイビーのロングドレスだ。ぴたりと身体に張り付くだろう細身のラインを見て名前は首を振る。
「こ、こんなの着こなせない...!それよりわたし何でここにいるのかも分かってないんだけど...!」
「まあまあ、それは聞かずに着飾られなさい」
 実際の目的はそれか、と幼い頃から幾度となく着せ替え人形にされた名前は項垂れる。店員は苦笑しながらも、ドレスに合うミュールやハンドバッグ、ヒールを見繕い持ってきた。ママの指摘にそれではこちらは、と店員がまた別の商品を持って来てはあれこれと話しているのを着せられる当人はただ眺める。
 やがて決まったらしい一式を手に持たされ、名前は試着室に押し込まれる。ここまできて断ることも当然出来ず─まあ今までの着せ替え人形を断ったこともないが─大人しく一式を身に付けた。
 カーテンを開き外に出ると、ママと店員は顔を見合わせ神妙な顔付きで頷いた。着たままの状態で店員がタグを切り落としていき、その間にママは取り出したカメラのシャッターを何度も押す。やがて全てのタグを手にした店員に、ママは財布から出した黒いカードを手渡した。
「えっ、ママ!お会計!」
「いいのよ。あれ涼介のカードだから」
「誰のとかの問題じゃなくて、買ってもらうことが問題なの!」
「そうは言われても、名前ちゃんが払うのはこちらとしても問題なのよ。昔からのわたしの着せ替えだと思って受け入れてちょうだい」
 一度言ったら聞かないのはママも涼介も同じだ。心苦しいが名前はお礼を伝えると、鏡に映った自分を見る。服に着られてる感が否めないが、どうにか人前には出ることが出来そうだ。
 店員からカードと領収証、名前の服の入った紙袋を受け取るとママは素早く店を出た。
「次はこっち!」
 数件先の美容室へと入ると、すぐさまメイクとヘアセットをされる。当人の気持ちをおいてどんどん進む現状に、名前は目が回りそうだ。
 やがて上から下まで完璧に仕上がった名前をママは写真に収め会計を済ませた。
「とってもお綺麗ですよ」
 頬を上気させた女性スタッフの言葉は心からの言葉だろうことがよく分かる。その後ろでは見習いの男性スタッフがぽーっと名前に見蕩れていた。
「当たり前でしょ。わたしの自慢の娘なんだから」
 ママは誇らしげに言うと名前の手を取り、通りへ出るとタクシーを停める。ママが名前を車内へと引きずり込み行き先を伝えると、タクシーは夏の夕暮れの中を走り出した。
 停まったタクシーのドアが開くと、今度は外に押し出される。
「わっ」
「最上階のレストランで待ってるから」
「え」
 似た者親子の何も言わなかったり、短い言葉だけしか告げなかったり、すぐ去ったりするのは何とかならないのだろうか。走り去るタクシーを茫然と見送るがこのままでいるわけにもいかない。涼介がせっかく忙しい中に時間を作ってくれたのだから。
 名前は少し乱れた前髪を整えると、深呼吸して建物の中へ入った。ホテルの最上階は高級レストランとして有名な場所だ。そこに行くだけでも気後れするのに、一人で向かうなんて虐めと相違ない仕打ちのように感じてしまう。
 各階で止まらず、レストランにだけ繋がるエレベーターに乗り最上階へと向かうが、何階建てなのかかなり時間がかかる。視線をやったガラスの向こうには幻想的なパノラマが広がっていた。夕暮れに染まる美しい街並み、暗くなりつつある東の空には星が瞬いている。
 名前は仕事中で外したままだった指輪を鞄から取り出し左手の薬指に通す。星の瞬きに劣ることの無い、涼介と名前の愛を示す宝石の嵌められた大切な指輪。涼介と離れていても少しでも近くに感じたいと、仕事中や家事以外では必ずつけている。
 やがてエレベーターが音を立てて、目的の階に着いたことを知らせる。目に鮮やかな猩々の絨毯にヒールを乗せると、レストランの前に立つスタッフがにこりと笑い掛けてきた。
「いらっしゃいませ」
 洗練された所作に緊張してきて、名前はえっと、と言葉を探す。美しい女が困惑し慌てる様子にスタッフはくすりと笑った。
「高橋様のお連れ様でよろしかったでしょうか?」
「あ...はい」
「こちらへどうぞ」
 重厚感のある明かりが照らすレストランからも美しい景色が見え、何組かが腰を下ろし食事を楽しんでいる。スタッフは一列に並んだその席を通り過ぎ、更に奥へと進んで行った。
「?」
 奥まったそこはドアこそないものの個室になっていた。部屋の中央にはテーブルと椅子。一面ガラス張りの窓の前には、黒のストライプスーツに身を包んだ涼介が立っていた。吸い寄せられるように近付くと、振り向いた涼介に大きな薔薇の花束を押し付けられ腰を抱かれる。思わず花束を抱えると、頬に手が滑り唇が重なった。身を捩る名前の耳に涼介は息を吹き込む。
「スタッフならとっくにいないぞ」
 再び重ねられた唇が口紅を奪い、二人の間に挟まれた花束の包装がくしゃりと音を立てる。差し込んだ舌で上顎を擽ると、名前から甘やかな声が漏れ涼介は唇を離した。
 涼介は胸に添えられた小さな手を握ると一度外に視線を向けた。
 赤く燃える太陽と、涼やかな輝きを放つ月、その傍らで瞬く星が空を彩っている。
 涼介の真剣な眼差しが名前を捉えた。
「名前、お前は星よりも可憐で、月よりも美しく綺麗だ。そして太陽よりも眩しい」
 恥ずかしげもなく言った涼介がその場に跪き、名前は瞳を見開き言葉を無くす。
「お前のことが愛しくて堪らない。柔らかく、暖かなお前の傍に一生いたい」
 握られた手にぎゅっと、力が込められた。
「俺と結婚してほしい」
「っ!......っ」
 言葉が出ない代わりに涙が次々と溢れる。手を握られたままでは涙を拭うことが出来ず、薔薇の花弁をきらきらと飾っていく。
「ほら、何も言わないと良いように受け取るぞ」
 笑う涼介は名前の左の薬指に口付けを落とす。愛を示す宝石に愛を誓い刻み込むように。
「もう名前無しでは生きられない。俺と添い遂げてくれるな?」
「っ、はい、っ!」
 どうにか絞り出された了承の言葉に涼介は胸を熱くし、小さな温もりを一生離さないと強く強く抱き締めた。
 ダイヤモンドは幸せな二人の愛を示すように、いつまでも美しく輝き続けた。


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