離れゆく愛1
 決まった休みの取れない職に就き数年が経つ。友人との約束をドタキャンするのも、不在票に気付いた時には受取期限がとっくに過ぎているのも、もう何度目か分からない。それでもやりがいを感じ、自分を高めてくれる誇り高い職に就いたことに何の後悔も無かった。それにこの部署に配属されなければきっと、彼にだって出逢えなかったのだから。
「降谷さん、よければ今日ご飯食べに来ませんか?うどと日本酒が実家から送られて来たんです」
「うどと日本酒か...。魅力的な誘いだが今日は私用で行けない」
「あ、もしかして赤井さんですか?」
 茶化すように言えばむっとした顔が向けられ、名前は笑ってしまう。
「赤井とは別に仲良くないからな」
「どう見ても仲良しなんですけどねえ」
「とにかく、今日は赤井じゃない。梓さんがストーカーにあってるらしいんだ。少し様子を見てこようと思って」
「...そっか。気を付けてくださいね」
「ああ。行ける日が分かったらすぐ伝えるから。お疲れ様。気を付けて帰れよ」
 降谷は名前の頭を撫でると、鞄を手に部署を出て行く。急ぎの案件の無い今日、残っている人は少ない。名前も帰ろうと荷物を纏め始めた。
 今日降谷を自宅へ誘ったのはうどをお裾分けしたいのは勿論だが、近頃抱いていた疑念を確かめてもらうためだった。
 最寄りのバス停で降り自宅マンションへ向かう。大通りに面したマンションはとても楽だ。近くにスーパーやコンビニがあるし、人通りも多く安全。そのために選んだ物件だったがそれが今は悩みの種となっていた。今日も感じる嫌な視線。それなのに人通りが多く、特定が出来ない。降谷ならばこの中からでも見つけられるかもしれないと思っていたのだがまた後日になりそうだ。
 名前が降谷と付き合い始めたのはここ一年の話だ。数年前降谷は組織に潜入し、その傍ら情報収集のため喫茶店でアルバイターとして働いていた。公安と組織の仕事で早退したり、直前に休みの連絡を入れたりする降谷をフォローしていたのが梓だ。今でも懇意にしていて、初めて会った時に誤解しないようにと強く念を押し説明されたが、名前の心は穏やかになれなかった。年上の、ましてや降谷のフォローまで上手くやってしまう女性なんてそういない。関係を疑っているわけではないが、二人が想い合うようになってもおかしくないと、不安を覚えるのは仕方のないことだ。梓は名前の知らない降谷をたくさん知っているのだから。会うなとは言わない。誠実な降谷は誤解がないようにと話してくれるから、聞きたくないとも言えず名前は二人が会った日の話をよく聞いた。本当に彼女にはお世話になったんだ、そう懐かしんで降谷はいつも話を終える。そんな彼女がストーカーに脅かされているとなれば降谷が動かないはずはない。警察沙汰になるほどの出来事は起きていなくても、それが起きるのは今日かもしれないと降谷は案じているだろうし、そんな彼に名前が無理を言うことはとても出来なかった。
 自動ドアを抜け、オートロックの鍵を開けようと手を伸ばした。後ろに人の立つ気配がして、名前は勢いよく振り返る。そこには大学生くらいの男が立っていて、人の良い笑みを浮かべていた。
「お疲れ様です。今日は冷えますね」
 スポーツでもしているのかガタイが良い。手に鍵を準備していたことから、マンションの住人らしいと名前は肩から力を抜いた。
「ええ、暫く寒さが続くそうですよ」
 差し込んだ鍵を回せばドアが開く。名前が歩きだせば男も続いた。すぐのエレベーター前で脚を止めた時、背後から腕が伸びてきて、名前は咄嗟に身を屈める。しかし男はそれを知っていたかのように覆い被さり、名前の腕を片手で纏め上げニヤリと笑った。
「僕、力には自信があるんです。だからお姉さんの力じゃ叶わないと思いますよ」
 耳元でねっとりと吐き出された吐息が気持ち悪い。男の姿が記憶のものと重なり、恐怖に身体が竦んだ。
「固まっちゃって可愛いですね」
 男の鼻が首筋を撫で、不快感に胃が暴れ吐きそうになる。
 気持ち悪い。怖い。降谷さん。
 ぎゅっと瞳を瞑って逞しい背中を思い浮かべた。
「今すぐ離れろ」
 低い声がして名前は瞳を開ける。そこにいたのは降谷ではなかった。
「誰だお前、どっかいけよ!」
 未だ開いたままだったドアから入った赤井が睨みつけると、男は殴り掛かる。その腕を避け、懐に入り込むと男の顎に掌底を叩き込んだ。二三歩蹌踉けた後で男は昏倒した。それを見届けて赤井は座り込んだままの名前を振り返る。
「警察」
「あ...はいっ」
 はっとして名前は携帯を取り出す。いくら自分の身に起きたとはいえ、警察官が非常事態に固まり上手く立ち回れないとは情けない。泣きたい気持ちをぐっと抑え通報を済ませると、震える脚を動かした。
「申し訳ありません、赤井さん」
「何を謝ることがある。この大男は反則だろ」
「...わたしが動けなかったことについてです。赤井さんに言われなければ通報も出来なかった」
 名前はベルトループに下げていたロープで、男の腕を背で纏め縛り上げる。足首も同じようにすると残ったロープを床へと落とした。
「警察官失格です」
 泣きそうな顔に赤井は苦笑する。
「帰宅するのにロープまで持った奴がよく言う。怖かっただろ」
 赤井の大きな手が頭に乗り、名前の視界が滲む。広い胸に頭を寄せると、躊躇いがちに腕が腰へ回された。鼻をすする音にサイレンの音が重なり始め、名前は身体を離す。
「重ね重ね、誠に申し訳ありません」
 瞳を赤くしながらも、表情を引き締める姿に赤井は胸の奥を焦がす。停まったパトカーからスーツの集団が降りてくると名前は自動ドアを潜って迎え入れた。その背中は先程まで泣いていた女のものとは思えないほど凛としていた。

 警視庁での事情聴取を一通り終えエントランスに降りると、ソファに座る降谷の姿があった。名前の姿にほっとした表情を見せるが、赤井を見つけるとすぐにむっとした表情になった。
「名前、帰るぞ」
「あ、ちょっと待ってください。赤井さん」
 名前は降谷に腕を掴まれたままで赤井を振り返った。
「本当にありがとうございました。助けて頂いた上に、こんな時間まで聴取にも付き添っていただいて。今度何かお礼に参りますので」
「気にするな」
「いえ、必ずお礼はさせていただきます。本当にありがとうございました。気を付けて帰ってくださいね」
 名前が赤井へ笑い掛け、赤井も珍しく柔らかな表情を浮かべている。それを見ていた降谷の中で何かが切れる音がして、掴んでいた名前の腕を離した。
「...降谷さん?」
 憎悪の篭った瞳で睨み付けられ、名前は怯み後退った。
「何で赤井が助けたんだ?」
「あ...、うちバス通りだから、たまたま通り掛かった時に気付いてくれたんです」
「そんな偶然あるわけない。浮気してたんだろ。よりによって赤井とはな」
 降谷の決めつけた言い方に怒りではなく、ただ悲しみだけが湧き上がる。
「降谷さん、やめてください。浮気なんてするわけないじゃないですか」
「今日俺が家に行かないって断ったから、赤井を連れ込もうとしてたんだろ。そういえばお前の家で俺のじゃない着替えだって見たことがあった。あれも赤井のだったんだな」
「ちがっ...聞いて、降谷さん」
 涙で瞳を潤ませながら名前は降谷の胸を叩く。降谷は煩わしそうにその腕を振り払うと吐き捨てた。
「聞きたくないし、泣きたいのはこっちだよ」
 愛のない冷たい声に名前の心はすうっと冷えていく。
「聴取で疲れただろう。明日は休んで貰って構わない」
「っ...、いえ、大丈夫です」
「...言わないと分からないか?俺がお前の顔を見たくないと言ってるんだ」
「!」
 一歩、二歩、後退する肩に赤井が手を置くと、名前は座り込んだ。パンツスーツに涙が次々吸い込まれていくのを見て、赤井は拳を振り上げる。降谷の右頬に直撃したそれは、今まで放たれた拳の中でも一等速く重いものだった。衝撃で降谷が床に倒れ込むと、その胸倉を赤井が掴む。
「馬鹿な男だな。一生後悔すればいいさ。彼女は俺が貰う」
 ぐっと押しながら手を離すと、赤井は荒々しさの無くなった優しい手付きで名前の肩を抱いた。
「今日はうちに泊まるといい」
 脚の立たない名前を抱き上げて、赤井は警視庁を出ていく。残された降谷は頬の痛みと苛立ち、悲しみに、閉まったドアを暫く睨み付けていた。
 街灯に照らされたマスタングの赤が瞳に痛い。赤井が助手席に座らせると名前は自分でシートベルトを着けた。運転席に乗り込みエンジンを掛けると、赤井はアクセルを踏み込んだ。名前の頬を濡らす涙が街灯や車のヘッドライトに照らされキラキラと光る。いつまでも見飽きない美しい光景に赤井は嘆息した。
 辿り着いた工藤邸は、組織を壊滅させ沖矢昴から赤井秀一に戻り残党を追う今も赤井の住居となっていた。しかし、ここを出る日もそう遠くはないだろう。
 玄関で脚元に視線をやり動かない名前に赤井は手を差し伸べた。
「おいで」
 名前は濡れた瞳を赤井に向けるが、手を取りはしなかった。靴を脱ぐと赤井が出したスリッパを大人しく履く。細い肩を抱くと赤井は廊下を進んだ。
「何が飲みたい?コーヒー、紅茶、緑茶、ココア、何なら酒もあるぞ」
「...ココアをお願いします」
「分かった。ここで待っていてくれ」
 赤井はリビングの扉を開け照明を点けるとキッチンへ向かう。名前はソファに腰を下ろし、その包まれる感覚に気持ちが落ち着くのを感じた。このまま柔らかなソファに押し潰されて死んでしまいたい。自嘲して瞳を閉じると、甘いココアの香りが漂ってきて名前は少し元気が出た。
「熱いからな」
「はい。ありがとうございます」
 マグカップは赤井が持つと小さいのに、名前が持つと大きい。以前降谷とも話したことがあった、と名前は息を吐く。冷えた指先を温めてくれるカップと心を解し癒してくれる甘い香りに口を開いた。
「赤井さん。先程はお見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。今日は赤井さんに迷惑をかけっぱなしですね」
「迷惑でもないさ。俺は君を手に入れるチャンスだから、弱ってるところに付けこもうとしてるんだ」
「...え...」
「君達が深く想い合っているのは誰が見ても明らかで、今まで手出しはしなかった。でも今は違う。あいつは君を手放した。それなら俺が貰っても問題はないだろう。すぐに忘れさせてやるさ。今すぐにでも」
 暗に夜の誘いを持ち掛けられ、名前は思わず笑った。今しがたフラれた女を変に上手い言葉で慰めるのではなく、本能的行為で塗り潰し忘れてしまえと言うのだから。
「魅力的なお誘いですが遠慮しておきます」
「...そんなにあいつがいいか」
「単に今はそういう気分になれませんから。なれたら楽なんでしょうけど」
「そうか。飲み終わったら風呂に入るといい。俺は隣から服を借りてくるよ」
「?」
「隣に知り合いが住んでいてな。君のいくつか年下だが背丈は変わらないようだ」
 赤井がリビングを出て行くとすぐに玄関扉の音がした。一人になった広い空間の寂しさをココアと一緒に飲み下す。長身で怖いイメージのあった赤井が自分のためにココアを淹れてくれた姿を想像をすると何だか可愛いと思えた。
 名前がココアを飲み終わると、丁度赤井が帰ってきた。手にした紙袋を渡されて脱衣所へと案内される。赤井はランドリーチェストから取り出したバスタオルとドライヤーをチェストの上に置くと浴室の扉を開いた。
「浴槽の掃除はしてある。湯を張って、ゆっくり浸かるといい」
「...はい、ありがとうございます」
 赤井は名前の頭を撫でると脱衣所を出た。服を脱いで、失礼かなと思いながらも洗濯機の中に入れる。ありがたく風呂を溜めている間にシャワーを頭から被ると、嫌な気持ちも湯と共にどんどん流れていくようで晴れやかな気持ちになった。
 もし自宅に一人で帰っていればこんなに穏やかではいられなかっただろう。本当に何かお礼をせねばと贈答の品を頭に浮かべる。バーボンが好きと聞いたことがあったし、好きな銘柄を聞いてみよう。なんならランチついでに選んでもらってもいいかもしれない。
 いつもと違うシャンプーは爽やかな香りがする。それなのにボディソープはミルクの甘い香りで赤井には似合わないなと口元を緩める。暖かな湯に身を浸し身体の力を抜く。大きな浴槽は赤井でも脚を伸ばして寛ぐことができるのだろう。
 赤井さんが、赤井さんは...。
「......はあ」
 名前は赤井のことばかりを考え、降谷のことを思い出さないようにしている自分に嫌気がさす。どこか現実味のなかった降谷とのやり取りは実際に起きたことだ。信じられない、信じたくないという気持ちがふわふわと漂っていて、優しくしてくれる赤井に甘えようとしている。こんなだから降谷に勘違いされたのだと思うと、収まっていたはずの涙が溢れて止まらなくなった。
「だいぶ時間が経っているが大丈夫か?」
 外から声を掛けられて名前ははっとする。
「っ...だい、じょうぶです。もう出ますね、ごめんなさい」
「いや、大丈夫ならいいんだ」
 名前は掬った湯で顔を洗うと浴槽から出た。チェストの上のバスタオルを広げて身体を拭く。紙袋の中から下着と部屋着を拝借して、ドライヤーで髪を乾かす。鏡に映る酷い顔に、また泣きたくなった。
「お風呂ありがとうございました」
「ああ。ゆっくりできたか?」
「はい。...えっと」
 泣いて腫れた目元を見られたくなくて、名前は俯いたままで言葉を探す。赤井はソファの上で組んでいた脚を下ろすと腕を広げた。
「おいで」
「っ...」
 名前は今度こそ、その胸に飛び込んだ。赤井は小さな身体を膝の上に乗せると強く抱き締めた。震える背中を撫で、出来る限り優しい声を掛ける。
「気が済むまで泣けばいい。落ち着いてから後の事は考えよう」
「っぅ...っうぅっ...っふ」
 名前の熱い涙が赤井の肩口を濡らす。この涙と共に降谷への想いや愛が流れ出て名前の中から消えてしまえばいいと赤井は思った。


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