離れゆく愛2
 降谷が登庁してすぐ走り寄ってきたのは名前の同期だった。
「降谷さん!苗字が襲われたって聞いたんですけど、あいつ大丈夫でしたか!?って、降谷さんもその頬どうしたんですか!?」
「...俺のは気にするな。あいつは大丈夫だ。今日は休ませたが」
 降谷の言葉にほっと肩の力を抜き同期は笑った。
「そうですか。昔の事件思い出したんじゃないかって心配だったんですよ」
「...昔の」
「あの事件ですよ。もうあんな思いはして欲しくないですから...」
 訝しんでいるのに気付かず、苦い顔をする同期の肩を降谷は掴んだ。
「何の話だ?」
「...降谷さん、もしかして知りません?苗字が高校の時に襲われた話」
「...は...?」
「未遂でしたけど、男性恐怖症になって外も歩けないし、暫く大変だったらしいんですよ。降谷さんと付き合うって報告受けたときは、やっとそこまで克服出来たんだって皆で喜んだんですけど...」
 名前に掛けた言葉を思い出すと、降谷の心は抉られるような痛みに悲鳴を上げた。降谷が名前と付き合い始めたのはほんの一年前で、身体を重ねたのは半年前のことだ。今なら名前が酷く怖がっていた理由も、そんな名前が浮気なんてしないことも理解出来た。
「っくそっ!」
 ダンっ、と降谷は机に拳を打ち付けた。名前の過去を知らなかった悔しさが込み上げる。だがそれ以上に名前を信じてやれず、最低な言葉を浴びせた己に殺してやりたいほどの怒りが湧いた。
 名前は今どうしているだろうか。赤井の胸で泣き俺のことなんてとうに見放しただろうか。
 例え名前が赤井とどうにかなったとしても、降谷にそれを咎める権利などもう無かった。

「...ああ、来たのか」
 工藤邸の玄関扉を大きく開き赤井は降谷を招き入れた。
「...」
「名前は寝ている」
 何故恋人が寝ていることを他の男から聞かされるのか。降谷は盛大に顔を顰め口を開く。
「連れて帰る」
「名前がそれでいいと言うなら俺は止めないさ」
「馴れ馴れしい。下の名前で呼ぶな」
「君に言われる筋合いは無いと思うが?あんなことまで言っておいて、君はまだ名前の恋人のつもりなのか?」
 嘲笑う赤井に降谷は何も言えなかった。思春期の子供のように足音で怒りを表現して、以前沖矢の仮面を剥ぎに来た際に通されたリビングへと向かう。
「飲み物はいるか?」
「必要ない。少し話したら帰る」
「じゃあ、答え合わせでもするか?」
 降谷はソファに座した膝の上で組んだ指を絡めては離してを繰り返す。
「君は俺達の浮気を疑っていたようだが、そんなことありはしない。本当にたまたまあの道を車で通り名前を見掛けて、つけてる男に気付いた。ただそれだけだ」
「...服は、どうなんだ」
「......組織の仕事が粗方片付いた時、二人で飲んだのを覚えているか。君は珍しく酔っていて、口に辿り着く前にグラスから腹へアルコールがびちゃびちゃ滴ってた。バーの店員に着替えを借りてタクシーに押し込み、君が行くと言って聞かない名前の家に送り届けた。名前は酔っ払っていたことを知ると拗ねるから内緒にして欲しいと、着替えも自分が返しに行くからと言った。お前はこんなにも気遣いの出来る優しい女に、あんな言葉を浴びせかけたんだ...!」
 怒りを露わにする赤井の正面で降谷自身も己への怒りに震えた。取り返しのつかないことをしたと、どれだけ後悔しても遅い。追い討ちをかけるように赤井は昨日名前が吐露した想いを伝えた。
「名前は我慢してたんだ。君がポアロで世話になった女の話をするのも、二人で会っているのも。昨日ストーカーの話を君にしようとしていたのに、その女のところに行くからと遠慮して話さなかった。君がもっと名前の様子を気にしていれば気付くことが出来たはずなのに、君はそれを怠り名前は襲われた。挙句俺との関係まで疑われ、まともに話を聞いてもらえず突き放された。あいつの心を思うと胸が痛んで俺まで苦しいよ。...あまりにも酷すぎる...」
「...名前...!」
 降谷は思わず部屋を飛び出した。階段を駆け上がり、乱暴にドアを開け放ち名前を探す。見つけ出した名前はベッドの上で眉間に皺を寄せ魘されていた。少し遅れてやってきた赤井は名前の傍で膝を着く降谷の背を睨んだ。
「...名前...、名前...!」
 降谷が肩を揺すると名前は勢いよく身体を起こし、その姿を認めると怯え震えだした。
「っ、来ないで...」
「...名前...?」
「やっ、やだ...!来ないでよぉ...!」
 虚ろな瞳で涙を零す名前に降谷が戸惑い手を伸ばすと、細い喉がひゆっと鳴った。
「名前!」
 名前は肩を跳ねさすと降谷を押し退け声の主に飛びつき、赤井もしっかりとその身体を抱いた。
「あか、...!赤井さん...!」
「落ち着け、大丈夫だ。もうあいつらはいない」
「っ、ふぅっ...赤井さ...」
 必死に赤井にしがみつく名前に降谷は絶望した。何故自分を怖がり赤井に助けを求めるのか。謝ることも許されず、二度と触れることも、傍で笑顔を見ることも出来ないのだろうかと。
「誰...あいつらじゃないなら、誰...」
 こちらを向いた震える背中を赤井があやすように優しく叩く。名前の髪に顔を埋める赤井を今すぐ殴ってやりたいのに、降谷の身体は動かない。
「降谷くんだ」
「...ふる、や...?ふるや、さん...?」
「名前...!俺だ、俺、ごめん、ごめん...!」
 降谷が名前へ近付こうとすると、赤井は抱き締めた身体を庇うように身を翻し首を振った。
「や、いや...、帰って。怖い...嫌い、嫌い...」
「っ、...名前っ」
「名前。食事にするか?風呂?それとも寝るか?」
 降谷の声に被せるように赤井が問う。降谷の声が名前の恐怖を掻き立てる原因となっているのは明らかだった。
「...寝る...」
「そうか、横になろう」
「...赤井さんも」
「......ああ」
 抱き合ったままベッドへ向かう二人の姿に、降谷は堪らず部屋を出た。リビングへ戻るとソファの上で膝を抱え顔を押し付ける。
「馬鹿な男だな。一生後悔すればいいさ。彼女は俺が貰う」
 深い絶望の闇に赤井の声が反響し続けた。
 ベッドの上で壁に背を預けた赤井の腿に乗り、名前は首筋に顔を埋めていた。同じミルクのボディソープの香りが酷く心を落ち着かせ、今しがた自分が口にした言葉も蘇ってきた。
 彼は傷付いただろうか。いや、きっと自分の発する言葉に彼はそれほど価値を感じてはいないのだろう。
 眠った名前から静かに離れると、赤井はリビングへと降りた。すっかり小さくなった降谷を見て思わず笑ってしまう。
「上手く立ち回るあのバーボンが見る影もないな」
「......名前は」
「眠ったよ。他に聞きたいことが無いなら帰ってくれ。君の存在は今の名前に毒だ。男が金髪だったからな。こればかりは運が無かったと同情するよ。謝るにも時間がかかる」
「......また来る。仕事は気にしなくていい、別れたつもりもないと、それだけ伝えててくれ」
「きっと、伝えておこう」
「ちっ」
 伝える気など毛頭ないだろう赤井に舌打ちして降谷は工藤邸を出た。入れ替わりで訪れたのは隣家に住む宮野志保だ。昨日と同じショップバックを持っている。
「まだ帰らないようだから、新しい着替え持ってきたわよ」
「助かる」
「様子はどう?」
「昨日と昔の事件がごっちゃになって恐怖が倍増している。精神科医を訪ねるのは必至だな」
「そう...。女手が必要だったらいつでも呼んで」
「ああ、そうさせてもらう」
 赤井がリビングへ戻ると、二階で何かが落ちる重い音がした。慌てて名前のいる部屋へ行くと、涙で顔をぐちゃぐちゃにした名前が床にへたりこんでいた。
「赤井さ、赤井さん...!一人はやだ、怖いよぉ...!」
「っ...、名前...」
 赤井は名前の笑顔が好きだった。降谷の隣で愛らしく笑う姿は花のようで、降谷という陽光の傍でしか咲かないのだとそう思った。叶わない恋を悲観するような性格では無いし、想いを押し込みすぎて痛む心には気付かないふりをした。その時よりもずっと胸が痛い。愛する女の見慣れない泣き顔、壊れていく様子に赤井まで頭がおかしくなりそうだった。

 名前が仕事に行けない日が続き、それは赤井も同じであることを示していた。名前は赤井から離れられなくなったのだ。風呂やトイレの時はどうにか我慢してソファの上で毛布に包まっているが、それ以外は赤井に後ろからくっつくか、腿に座るかで、赤井が移動する時も離れないのが当たり前になっていた。
 赤井との会話は出来るが、テレビから聞こえる男の声に怯えるため恐らく外には出られない。食糧は隣から工面してもらっていたがそれも限界に近いし、何より赤井はそう続けて休めるような職でもない。
 赤井は膝に抱えた名前から少し身体を離すが、いやいや、と名前は首を振りしがみついてくる。正に今の名前は赤井がいないと生きていけない。それに優越感を感じそうになるのを赤井は必死で堪える。己がその優越感に浸った時、名前は完全に壊れてしまうと直感的に理解していた。どうにか身体を離せば名前は不安に憑かれた瞳で赤井を見つめる。赤井はその頬を大きな手で包むと微笑んだ。
「名前、いつまでもここにいて構わない。でも君はそれでいいのか?君の正義が待っているんじゃないのか?」
 名前の正義。それは自らの経験から女を脅かす悪へ立ち向かうことだった。しかしそれは配属された部署のために幅を広げ、尊敬する上司と同じく日本や国民への愛に成長し、護るべきものは増えた。
「...正義を貫きたい。あそこに戻りたい」
「......君ならすぐ戻れるさ。以前世話になった精神科医がいるだろう。頼ってみないか?」
「......はい」
 名前はパジャマのポケットに手を突っ込み携帯が無いことに気付く。すっかり塞ぎ込んでいたため、工藤邸に来て一週間経つが携帯に全く触っていなかった。
「スーツのポケットかな...」
「スーツは部屋にあるぞ」
「...二階...」
 名前は赤井の手をぎゅっと握った後、よしっ、と気合を入れて立ち上がった。しかし中々その手を離せない。
「俺も行こうか」
「...いえ、家の中でこれじゃあいつまでも外に出られません」
 名前は名残惜しげに赤井の手を離すと走り出す。ぱたぱたと階段を駆け上がり、30秒と経たずに帰ってきて赤井に抱き着く。
「おかえり」
「ただいま。でも充電器忘れたからもう一回行かないといけない...。わたしも充電するから3分待ってください」
「30秒しか動いてないのに三分も充電にかかるのか?随分燃費が悪いな?」
「...赤井さんが甘やかすからいけないんだもん」
「人のせいにするのは良くないな」
 唇を尖らせる名前に赤井は笑うと、ぎゅぅっと一際強く腕に力を込め、仕上げとばかりに頬に口付けた。
「急速充電」
「......ずるい」
 名前は赤井の肩口にぐりぐりと額を押し付け、徐に立ち上がるとリビングを出ていった。持ってきた充電器を携帯に挿して、赤井の隣に座る。触れているのは赤井の膝に乗せた手だけだ。自分で言っておきながら離れているのが寂しくなった赤井は、膝に名前を抱え携帯を取り出した。
「赤井さん?」
「この方が見やすいだろ」
 インターネットページを立ち上げて赤井は名前に携帯を握らせた。名前は高校生の時、強姦に襲われ治療の為に通院したクリニックを検索する。
「ここです。この女の先生が優しくて、たくさん勇気を貰いました」
「一番早い空きのところで行こう」
「明日の11時が空いてるみたいですね。予約しちゃいます」
 名前は予約フォームから手続きを行い、それを終えると携帯の画面を落として赤井に返した。赤井はテーブルの上に携帯を置くと、結局名前を抱き締める。
 離れられなくなっているのは、名前だけでなく俺もだ。名前が降谷くんを選んだら、俺は。
 赤井は考えを振り払い、名前のことだけを考える。まずは名前が日常生活に戻れるようになることが大事だと。
 名前の携帯が画面を立ち上げ、照れくさそうにはにかむ名前と降谷のツーショット写真が浮かんだ。
「その写真...」
「...降谷さんと初めてデートした時の写真です。降谷さんそれまで組織の件で写真撮れなかったから、形に残る初めての想い出です。でも...変えよ」
「...降谷くんから伝言を預かっていたのをすっかり忘れていた。仕事は気にするな、あと別れたつもりは無い、だそうだ」
「......ありがとう、ございます」
 後ろからでは名前の顔が見えない。別れていないことにほっとしているのか、それとも困惑しているのか、どちらなのだろう。
 名前の手の中でメッセージアプリのアイコンバッジがどんどん数字を大きくしていく。友人数人からの個人メッセージに、グループメッセージ、一番大きな数を記しているのは降谷だった。
 名前だけ呼び掛けたもの、悲痛さが感じ取れる謝罪、長々と綴られた降谷の気持ち。それが毎日何度も送られていて、名前がそれにゆっくりと瞳を通しているのを赤井は腕に力を込め静かに待っていた。
 名前は文面から伝わってくる温もりと、背中から伝わってくる温もりに心を揺さぶられていた。
 まだ降谷が自分を愛してくれていると知り、安堵し嬉しくなった。それなのに、この辛かった時間を支え傍にいてくれた赤井から離れたくないと、降谷と同じように大切な存在として想ってしまっていることに気付く。いくつも立ちはだかる問題に名前はどうしていいか分からない。そうして一番近くの温もりに擦り寄るのだ。赤井の優しさにつけ込む自分の浅ましさに吐き気がした。

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