離れゆく愛3
 赤井は名前の腰に左手を回し、カタカタと震える小さな両手を右手で握り締めていた。待合には志保だけが待っていて、診察の順番がきたら呼びに来るようになっている。しかし診察になっても話が出来るだろうかと赤井は眉を顰めた。

 念の為に、と付き添いを依頼した志保と共に後部座席に名前を座らせ 赤井はクリニックへと車を走らせた。
クリニックは小さくオルゴールが流れている穏やかな空間で、赤井がソファに座ろうとすると、それを志保が止める。
「彼女ちょっと様子が変わったわ。隣にいなさい」
「...わかった」
 受付している名前の横に立てば、すぐに指先を握られて確かに様子がおかしいことを知る。渡された問診を受け取るため指が離れ、赤井は肩を抱いた。志保が先に座るソファへ向かい、名前を挟んで座る。問診を書き終え、立ち上がろうとした名前の手から問診を奪うと志保がそれを提出に行った。
「ありがとうございます」
「気にしないで」
「...はい」
 志保に向けた表情は少し強ばっていた。やがて名前の手は震え始め、赤井に寄り掛かる。どうやら受診に来ている男性患者に恐怖を感じているようだった。志保は立ち上がり受付に事の次第を伝えると、赤井に指示した。
「順番が来たら呼びに行くから、あなたたちは車で待ってて」
「ああ」
 赤井は名前を支え車へ戻ると後部座席に腰を沈めた。震えが小さくなったと安心しても、通行する男の話声にそれはぶり返す。志保が呼びに来たのは20分程経ってからだった。
「名前ちゃん、久しぶり」
 妙齢の女医の柔らかな笑みに名前の手の震えが無くなり、赤井はただ驚いた。そしてこの医師ならば名前をまたあの場所に導いてくれるのだろうと確信した。

 医師の指導のもと、名前はリハビリを開始した。
 赤井が仕事へ行く日中は工藤邸で一人で過ごし、少しでも男の声に慣れようとテレビを小さな音で聞く。
 それから週に三日、大学生となった工藤新一と話をする。赤井の知り合いであるため間違いが起きることは無いと理解していても、男への恐怖は拭えず赤井の背中に隠れてしまう。会話が出来ないために、結果新一の自己紹介という名のホームズプレゼンが始まり、赤井がそれに口を挟み討論へと発展するのを名前はただ聞いていた。それを二週間ほど繰り返すうちに新一への恐怖は無くなり、つんつんと腕を突かれるのを新一は顔を赤くして受け入れる。それを面白くなさそうに見るのは赤井だ。
「名前。もう終わりだ」
 後ろから羽交い締めにし、重ねた手を握る。ぎゅっぎゅっと握り返されると赤井は満足そうに笑った。
 新一はそんな二人の様子に、見ているこっちが恥ずかしいと頭を抱える。志保から少し話を聞いてはいたがここまでとは思わなかったのだ。何より彼女は降谷の恋人だと聞いていたし、新一は戸惑うばかりだった。
 近くのスーパーへ行くリハビリは思ったよりも早く達成される。赤井と新一と固く腕を組んでの移動ではあるが、近くを男の買い物客が通っても平気だった。
「彼は警察官なんでしょ?彼を信じているのなら、彼が傍にいる間は外が怖いわけないわよね?」
 医師の少し威圧的な言葉に名前は背中を押されたようだった。
「あの先生スパルタだけどわたしには合ってるよね〜」
 カラカラと笑うようになった名前に赤井も志保もやっと安心できた。
 そうして名前は一ヶ月という驚異的スピードで、医師が仕事を再開してもいいと決めた目標をクリアした。早速明日から職場復帰すると名前が受付スタッフに話していると、診察室から顔を出した医師に赤井は手招かれた。
「赤井さん。こんなに早く症状が良くなったのはあなたのおかげよ。そのことは名前ちゃんも分かってて凄く感謝してた。不安定になってしまうこともあるだろうけど、これからも支えてあげてね。本当に二人はお似合いのカップルだから。見てるこちらまでドキドキしちゃって若返った気分」
 上品に笑う医師に赤井は曖昧に笑った。確かに昔のトラウマと今回の事件が重なり壊れかけた名前を支えたのは自分だと言える。しかしそれと名前が誰を愛すかは別問題だ。降谷を怖がりはしたものの、送られていたメッセージを噛み締めるように読んでいたことから未だ降谷を想っていることは確かだった。
「赤井さん!帰りましょう!」
 診察室から出た赤井を名前は笑顔で迎えた。カレーを食べたいと見上げられ赤井も微笑む。全てを決めるのは名前なのだから、選んで貰えるようにするだけだ、と。
「お世話になりました」
「ありがとうございました!」
 二人は医師と受付スタッフに頭を下げると、肩を寄せ合い扉をくぐる。仲睦まじい二人に幸せが訪れることを医師は心から願った。

「長い間、お休みをいただきありがとうございました!!!」
 名前が深々と頭を下げるとあちこちからおかえりの言葉と拍手が沸き起こり、名前は泣きそうになった。デスクの上には見舞いと称して箱菓子から缶ジュースなどが山のように積まれているのに、名前が椅子に腰掛けると更におかえりの品、と紙袋にどっさり入った色々なお菓子が渡される。食べきれない量のお菓子に囲まれる幸せに名前は笑う。それを切なく見つめるのは降谷だ。復帰の挨拶は受けたものの、それは上司と部下のやり取りに過ぎず、恋人としてのやり取りは出来ていない。仕事の合間や移動中、食事の後、眠る前、名前が休職している間に降谷が送ったメッセージは既読が付いても返事が送られてくることは無かった。マメに連絡をしてくれていた名前のその対応に降谷は自分が吐いた言葉の罪深さを知る。
「ご迷惑をお掛け致しました。今後はより精進致します!」
 そう言って笑った顔が作り物のように感じられた。しかし降谷には寂しさや絶望を感じる権利など無い。身体の調子はどうか、過去の事件のこと、謝罪の機会を設けて欲しいことなど、話したいことは山のようにあるのに話す勇気が出ず時間は無情に過ぎ去っていった。
 定時で帰る名前に合わせ、降谷も必死に仕事を終わらせると、勇気を振り絞り声を掛ける。
「苗字、送る」
「あ...えっと...」
 歯切れの悪い物言いに降谷の中で嫌な予感が広がる。
「何か予定が?」
「その、迎えが来てて...」
「......赤井なのか?」
 名前は何も言わない。視線は足元へ落ち、鞄の持ち手を握った手が白くなっている。退勤する捜査員の瞳が寄せられ、降谷は人通りの無い一本先の廊下へと名前の腕を引く。
「名前、赤井なのか?」
「......」
「名前...!」
 携帯の振動音が響く。降谷に背を向けると、名前は鞄から取り出したそれを耳に当てた。
「はい。終わりました。すぐに降りますね」
 携帯を鞄にしまうと、名前は降谷を見上げた。瞳に僅かな揺らぎを感じ、降谷は名前の腕を掴む。大きくびくつき、強ばった腕に恐怖を感じていると分かっても、降谷は離れなかった。
「赤井が好きなのか...? もう俺のことは嫌いなのか...?」
「......」
「名前、答えてくれ」
「...分からないんです。自分でも戸惑っていて...だから、ごめんなさい」
「分からないって...そんなわけないだろう...!どうなんだ!」
 降谷が肩に掴みかかり、語気を強めると名前は瞳をぎゅっと瞑った。はっとして降谷が離れると、名前は恐怖心を押さえ付けるように深呼吸を繰り返す。
「降谷さんのことが好きです。でも...、......赤井さんも同じくらい大切になってしまったんです。見護り、支え、わたしの意志を赤井さんは尊重してくれました。赤井さんがいなければ、わたしはここに戻って来れなかった」
「...だから赤井を選ぶのか?」
 冷たい声だった。地の底を這うような、獰猛な獣の唸りのような、重い怨みを感じずにはいられない声。
「...そんなに赤井が良いなら、赤井のところに行けばいい」
 降谷は口を衝いた言葉に顔を歪め、すぐに言い直そうと言葉を探すが見つからない。名前は視界を滲ませながらも降谷を見据えた。
「貴方はいつだって正しくて、間違わない。正しくないのも、間違ったのもわたし。悪いのは当然、わたしですよね」
「違う、名前...!」
「思ってもない言葉が口から出るわけないじゃないですか...!」
 ぼろぼろと頬を滑る涙を降谷は茫然と見つめた。頭と胸がズキズキ痛んで目眩と息苦しさに襲われる。
「一週間時間をください。わたしも貴方も、少し落ち着いたほうが良さそうですから」
 名前は降谷を残して警察庁を出た。泣きながら助手席に滑り込んだ名前の頭を赤井は何も言わず優しく撫でた。


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