もう一度愛して欲しい
離れゆく愛 分岐後 降谷end.

 名前のデスクに黄水仙が飾られ始めて丁度一週間が経過した。毎日一本ずつ増えるそれは、手入れのおかげでどれが一番古いものか判別が付かない。最初は驚いた名前もデスクを彩る明るい黄色に元気を貰うことができ、自然と笑顔が増えていた。
 名前は約束の一週間となる今日、降谷に声を掛けた。降谷の瞳は驚きに見開かれていたし、それは名前が復帰してから話す様子の無かった恋人たちを見守っていた風見達も同じだった。
「降谷さん、よければ今日うど食べに来ませんか?また新しく届いたんです」
「...ああ、お邪魔させてもらうよ」
 降谷は身体中を駆け回る喜びに、咽び泣きそうになのを必死で抑える。
「よかった。じゃあ、わたしは先に帰って準備をするので、降谷さんは七時過ぎとかに来れそうですか?」
「いや...。一緒に帰ろう。一緒に」
 降谷はあの日をやり直したかった。そうしなければ前に進めない気がしたから。

 近くのパーキングに車を停めて二人は並んで歩く。いつも名前が利用するバス停を通り過ぎ、マンションの前に着いた時、降谷は口を開いた。
「誰もついてきていないようだな」
「っ...、そう、ですね」
 降谷の言葉の意味を理解して名前は視界が滲みそうになる。握られた手をそのままに名前はオートロックを解除した。
 キッチンに並んで調理をするのは初めてではないが、そんなに多いわけでもない。二人は分担して夕食の準備を進めていった。
 うどの天ぷら、ほうれん草と豆腐の白和え、漬けホタテ。後から食べようと、味噌汁とうどの炊き込みご飯もそれぞれ鍋と炊飯器の中に出来上がっている。降谷がローテーブルに肴を配膳すると名前は徳利とお猪口を持って来る。毛脚の長いカーペットに隣合って座ると名前は降谷に渡したお猪口に徳利を傾け、降谷も同じようにした。
「「乾杯」」
 二人はお猪口を煽り笑った。
「美味いな」
「美味しいですね。初めて飲む銘柄だけどこれはまた送ってもらおう」
 名前は降谷のつゆの入った皿にうどの天ぷらを入れ、無言のまま早く食べろと促す。降谷はまだ温かなうどを綺麗な橋使いで口へ運んだ。
「うん、美味い。やっぱりこの時期はうどだな」
「うどと日本酒、最高です」
「二十代の女とは思えないな」
「おじさんたちばかりに囲まれてたらこうなりますよ」
「うちは飲み会なんてほぼ無いだろ」
「え〜そうだっけな〜」
 とぼけて名前が笑うと、降谷も笑った。前みたいに笑えることが嬉しくて、でもそんなのは表面だけで。この食事が終われば別れを告げられるのだと、降谷は最後の晩餐の悲しみを得意のポーカーフェイスで覆い隠した。
 食後の緑茶が湯呑みから湯気を立て、それを両手で包み名前は息を吹きかける。去年の今頃もこの部屋で同じ仕草をするのを降谷は見た。少し窄ませた小さな唇と、結局は火傷したと覗く真っ赤な舌が降谷を魅了する。手の中の湯呑みを奪うと、降谷は名前に顔を近付けた。
「別れたいなら、拒絶してくれ」
降谷は悲痛な声で告げると、名前の顔を見るのが怖くてすぐ瞳を閉じた。唇が重なる直前で肩に手を置かれ、降谷を悲しみが襲う。拒絶されたのだと、身体を離した降谷に名前は驚いた。降谷の頬を涙が伝う。情けない表情で見つめられ、名前は濡れた頬をゆっくりと撫で淡く笑んだ。重ねた唇から久しぶりに感じる体温が心地良い。求めていた温もりはやはり人より少し高いこの体温なのだ。
「名前...?」
 戸惑う降谷にいつもの自信は感じられない。フラれるとばかり思っていた降谷は信じられないものを見るように名前を茫然と見つめる。
「降谷さん。わたし、あなたのことをずっと愛していましたよ。だから、黄水仙は合いません」
 降谷は名前を抱き寄せる。腕の中の存在が未だに信じられなくて、髪や首に顔を埋め、もぞもぞと動く。香るのは確かに名前のものだ。
「気付いてたのか」
「黄水仙を毎日一本ずつなんて、さも意味ありげじゃないですか。もう一度愛して欲しいなんて、降谷さんらしくない」
  降谷の腕に力が込められて、より身体が密着する。名前も胸いっぱいに降谷の香りを吸い込んだ。
「いつも余裕があって、自信に満ち溢れた降谷さんをわたしが掻き乱してるってちょっと嬉しかった。それだけ愛してくれていたのかと思うと尚更」
「名前のことになると俺には余裕なんて無かったよ。外に出さないだけで内心はいっぱいいっぱいで、色んな表情に翻弄されっぱなし。頼りにしてくれてるのが分かってたから、そんな情けないところを知られたくなくて必死だった」
 こもり始めた降谷の声に名前は優しく背を撫ぜる。不安な心を覆っていた理性がぼろぼろと崩れていくのを降谷は感じた。
「...赤井はどうやっても叶わない相手で、名前をとられると思ったら怖くなった。名前から離れていくなんて堪えられなくて、それなら俺から離れていったほうがマシだって、そう思ったら酷い言葉を言ってしまってた。凄く後悔して、自分を殺してやりたくなった。赤井が関わってくると俺は自信なんか無くなって弱くなる。もし二人が話してるところを見たらまた不安になって、面倒な俺になるかもしれない。...それでも、俺と一緒にいてくれるか?」
 名前は身体を離すと降谷の胸に手を添え、顔を覗き込んだ。不安げに揺れる瞳が、泣きそうな表情が堪らなく愛おしい。互いをこんなにも掻き乱せるのは互いだけで、きっと至らない部分を補い合えるのも互いしかいないのだ。
「降谷さんの傍にいたいです」
 重なった唇から名前の口腔に降谷の舌が滑り込む。火傷した舌を突かれて名前は肩を跳ねさせ、抗議するように犬歯で舌を食む。驚いて離れた降谷に悪戯っぽく笑うと降谷は視線を鋭くした。
「こっちは一ヶ月も我慢してたんだ。今から襲ってもいいんだぞ」
「...や。まだ怖いもん」
 ぎゅっと、しがみついてくる名前に降谷ははっとして、強く抱きしめる。
「そうだよな。怖い思いさせてごめん。赤井じゃなくて、俺が護ってやりたかった」
「それはわたしもごめんなさい。もっと早く伝えておけばよかった」
「いや、俺が言い出せないようにしてしまっていたんだ。普通に考えれば梓さんのことだって...。名前が赤井と二人で会うなんて言い出したら、腰が立たなくなるまでやって会わせないと思う」
「あの、不穏なんですけど...」
「仕方ないだろ。お前が赤井のところにいる間だって、その...身体を許したんじゃないかって、考え出すと怖くて眠れなかった」
「......降谷さんはもっとわたしのことを信用してくれていいと思います」
「ごめん。でも本当に名前のことが好きで堪らないから不安なんだ。名前がいつまでも俺を愛してくれる自信が無いから」
「そんなのわたしだって同じです。安室透とはいえ、梓さんのほうが降谷さんと長く接していたから知っていることも多いし、潜入で忙しいのも支えてた。悔しくて仕方が無いし、今も二人で会ってるなんて、どっちかに気があるんじゃないかって疑いたくなります。でも、降谷さんが好きで離れたくないから何も言わないできた」
 名前は頬を膨らませ、降谷の頬を引っ張った。肉の無いそこは痛みを訴えるが、降谷は眉を寄せ我慢する。手を離すと名前は少し赤くなった頬と眉間に口付けた。
「嫌われたくないからって、言葉を飲み込むんじゃなくて、信じるために伝え合いましょう。意見がぶつかって、納得いかなくて喧嘩になるかもしれないけど、きっと大丈夫です」
「...そうだな。こんなにも互いを愛してるんだから」
 額が合わさり、離れると今度は唇が重なる。舌裏をなぞられて名前は甘い快感に涙を滲ませた。触れた場所から名前の温もりが伝わり、降谷は帰ってきた愛しい存在を確かめる。
「ん、ぅ...はぁ...」
「...名前...」
「あ、ふる...やさ...」
「名前で呼んで」
「......零...っん」
「名前、名前...」
  時計の音も、外の喧騒も届かない。漂う日本酒の香りが二人を包み、二人だけの世界を作る。幾度も互いの名を呼び唇がひりつくまで二人は熱い口付けを交わし続けた。

黄水仙/もう一度愛して欲しい



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