アンドロギュノスが求めた愛1
 頭の中で幾度と繰り返した”何故”と言う言葉を口にした事は未だ無い。それはきっと彼女も同じで、発すればそれが俺達の関係の終わりだからだ。
 零は隣で眠る名前の髪を撫でる。さらさらと指の隙間を細い髪が滑り落ちていく。決して己のものにすることが出来ない名前そのもののようだ。
 黒の長髪が手から全て無くなると指で頬を突く。
「ん、んん」
 整った眉が顰められ、零は小さく笑いを漏らした。
 穏やかな時間は確かに幸せなのに、二人には共に在る未来が無い。
 アンドロギュノス、異国に伝わる両性具有の神話だ。古来男と女は一つの身体であったが二つの身体へと分かたれた。そして男と女は半身を探し求め、恋愛をするのだと言う。
 そしてこの国には忌み子の話がある。結ばれなかった男女が心中すると、引き合う心故に転生し双子となり産まれる、と。
 まさに俺たちのようだ。
 傍にいなければ半身が無くなってしまったかのように不安で寂しく切なく、二人でいれば飽くことなく愛は溢れ続ける。こんなにも愛し合っているのに、決して結ばれることの許されない双子。
 それが降谷零と名前。

「坊っちゃま、お帰りなさいませ。」
「ただいま」
「赤井大佐様がいらっしゃっておりますよ」
「...そうか」
 下女から言われ、零がリビングを覗くと一人がけソファにそれぞれ座る名前と赤井がいた。赤井が静かに話すのを名前は興味深げに頷きながら聞いている。
「大佐、いらっしゃっていたんですね」
「降谷くん、お邪魔しているよ。君より先に名前に帰宅の挨拶をしてしまってすまないね」
「...いえ」
「零、おかえりなさい」
 ふわりと笑いかけられ零は胸の内で燻っていた嫌な靄が晴れるのを感じる。
「ただいま、名前。大佐と少し話してくるから、ここで待ってるんだよ」
「うん、わかった」
「大佐。客間へ」
「ああ」
 赤井は短く返事をし、名前の頬へ唇を寄せると零の後に続いた。頬に触れた柔らかな感触を指先で撫で、名前はカップを手に取る。赤井が土産として持ってきたアッサムで淹れたミルクティーは甘く芳醇な薫りで名前を楽しませた。
 客間のソファに向かい合い座った二人はそれぞれ長い脚を組んだ。零の鋭い視線に赤井は口元を緩め肩を竦める。よく見るこの仕草が零は大嫌いだった。自分は余裕だと、そう馬鹿にされているような気分になるからだ。
「本日お越しになられたご用件は?」
 苛立っている零はいつものことで、赤井は気にも止めない。
「...お父上と話して挙式は半年後と決まったよ」
「半年後...。俺達の誕生日か」
「ああ。その日、君達はただの兄と妹に生まれ変わるんだ。男女の関係を終わらせてね。来週にはお父上がここを訪れて名前に伝えると言っていたよ」
 零は盛大に顔を顰めると赤井を睨み付けた。
「大佐、ご報告ありがとうございます。ご用件がお済みになられたのでしたらお帰りを」
「...昔の君は...、零は可愛げがあったものを」
「いつの話をしている。もう子供ではないんだ」
「そうだな。子供はベッドの上でワルツを踊りはしない。それも兄妹で」
 赤井は零に背を向けるとリビングへ向かった。開いたままの扉から名前といくつか話した後で、下女の見送る声が聞こえる。零は組んだ脚に乗せた手で頭を押さえた。
 赤井秀一は降谷兄妹の幼馴染みだった。兄妹が住む邸から程近い邸で陸軍省に勤める父と華族出身の母、それに弟と妹の五人で暮らしている。幼い頃、末の妹はまだ産まれておらず四人で遊んだが、歳を重ね自分達の生い立ちを知ると、零は共に遊ぶことをやめた。名前は寂しがったが、度々向けられていた好奇の視線の意味を知ると素直に従った。
 兄妹は父が遊女に産ませた子供だった。しかも妊娠が分かる前に父は地位に瞳が眩み、将来を誓った母を捨て、陸軍省にコネのある男の娘と結婚した。女は先立たれた亭主との間に娘があり、また結婚した年に男児を身篭った。その男児と兄妹は同い年にあたり、父は一気に四人もの子供の父親になった。認知し送金はするものの、父が親子に会いに来ることは無く、産後の予後が祟って母は一年ともたず命を散らした。誰も参列せず密葬とも呼べない、ただ遺体を埋めるだけの作業だったことを後に知った零は、父に強い憎しみを抱いた。しかし、その回あって父は陸軍省に入省し、赤井の父に近付いた。赤井と義娘を結婚させ、更なる地位獲得を目論んだのだ。けれど赤井が選んだのは名前だった。義父と嫁を立てたい父は渋ったが、それならば話は無かったことに、と赤井は義娘を拒み、父は仕方無く頷いた。赤井家と繋がりを持てれば己の地位は確かなものとなり、義娘にも赤井家までとはいかなくても充分と言える家柄の男のもとに嫁げるだろうと思ってのことだった。
 零は父の勝手で肩身の狭い幼少期を過ごし、士官学校に入学してからも陰口を叩かれることが我慢ならなかった。同い年の正妻の息子よりも良い成績を修めてやると意気込んだものの、出来の悪い息子を嘲笑うのは簡単だった。士官学校を卒業し、驚異のスピードで中尉へと上り詰めても父は会いには来なかった。それどころか零から名前を奪おうとする。劣等感を抱き続けていた赤井秀一の妻とさせるために。その話を陸軍省本部の父に宛てがわれた部屋で赤井と共に聞かされ零は激昴した。
「種と金を出しただけの男が名前の婚姻を勝手に決めただと!?こんな時だけ父親面をするな!」
「!」
 父はただ驚いた。零は穏やかな性格と聞いていたからだ。歴戦の猛者のような鋭い視線で睨め付けられ、父は完全に萎縮してしまった。
「まあ、落ち着くんだ降谷くん。君も名前もあの邸に生涯二人でとはいくまい。君達は兄妹だ。戯れで愛し合うことは出来ても、将来を誓い合うことは出来ないよ」
「っ...!?」
「...赤井くん、それはどういうことかね」
「近親相関ですよ。零と名前は愛し合っている。身も心も」
 赤井の言葉に室内は鎮まり緊張が走る。零は拳が震えるほどに強く握り締め、父は言葉を失っている。
「今すぐやめろとは言わないさ。俺と結婚するまでにやめればいいし、セックスするなとも言わない。悪い話じゃないだろう?」
「...お前は何のために結婚するんだ。名前が好きだからじゃないのか...?」
「君も結婚する年になれば分かるさ」
「何だと...!?俺はそこの男みたいに権力欲しさに結婚なんかしない!」
「それで名前と共に生涯独身を貫くと?子が出来たら誰の子だと言う?それにお前は軍人だ。戦で死ねば名前は一人になるぞ。そうなればどのみち名前は俺と結婚するし、俺が死ねば弟と結婚するだろう」
「!」
 零は逃げ道など無いことを知る。赤井は更に続けた。
「もし俺との結婚までに子が出来たら、俺の子として育ててやる。気兼ねなく中に出してやれ」
 零は怒りのままに部屋を飛び出した。それから父とは会っていないし、赤井と会ったのも初めてだ。何度もどうにかして結婚を回避出来ないかと考えたがやはり無駄だった。
 "何故"と口にせずとも結果は同じだったのだ。二人は血の繋がった兄妹で愛し合うことは罪なのだから。
「秀一さん、帰るの早かったね。何のお話?」
 零の肩を叩き、無垢な笑顔で首を傾げる名前は何も知らない。自分の輿入れが決まっていることも、兄妹の忌まわしい関係が知られながらも許されていることを。
「明日の軍事会議の頼まれごとをちょっとね」
「秀一さんは大佐さんなんだもんね。十年ぶりくらいかな、久しぶりに会ったけど大きいしびっくりしちゃった」
「俺も軍に入った時は驚いたよ」
「これからはたまに遊びに来てくれるといいね!」
「...来ることになるだろうな」
 零が呟いた言葉は踵を返していた名前には届かない。幼い頃のように幼馴染みと話せると嬉しそうな背中に零は顔を顰めた。
 その夜、零は名前を激しく抱いた。幾度も中に欲を放ち、孕め、孕んでくれと恨み言の様に言葉を繰り返す。気が付いた時、名前はとうに意識を失っていて、零が零したいくつもの涙が名前の肌を濡らしていた。


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