アンドロギュノスが求めた愛3
 式へ向けて名前の花嫁道具は準備されていった。週に一度のペースで屋敷を訪れる赤井はずけずけと物を言う。
「名前、子は出来たか?」
「...え...」
 茫然とする名前の隣で零は溜息を吐く。赤井を利用してやる、と最悪な考えを持っていたのに、赤井はそれを良しとし逆に早く子を作れと言ってくる始末に何だか馬鹿らしくなる。奇妙な三角関係は紐解けば最悪だがやんわりとした温かさを持っていた。
「赤井、お前は本当にそれでいいのか?」
 赤井に対して良心が働いたことに驚くが、確認のために聞いた。零は名前の夫となる男が赤井で良かったと思っている。これがそこら辺の男であったなら全力で反対して、兄妹の関係は明るみに出ていただろう。きっと赤井はそれを止めるためにも、父の提案に頷いたのだと零は思っていた。
「どうやったって俺は名前の一番にはなれない。それでも名前から嫌われず、傍にいてもらえるならそれでいいさ」
「秀一さん...」
「名前、俺は同情して欲しいわけじゃないんだ。零ほどじゃなくていいから、俺をいつか愛して欲しい」
 いつからか名前を愛していると公言するようになった赤井は切なく笑う。それに名前はぎゅっと胸が締め付けられた。こんなに自分たちのことを思ってくれている赤井を傷付け、利用しようとしているのが嫌になる。しかし赤井は利用しろと言う。間違っているのは愛し合った兄妹で、正しいのはきっぱりと関係を断ち赤井を愛し家庭を築くことだと分かっている。
「秀一さん、あなたが本当に望むことを教えてください。同情なんかじゃなくて、どうしようもないわたしたちを救おうとしてくれるあなたに、わたしなりの誠意としてそれに従います」
 赤井が零に視線をやると、静かに頷きが返される。赤井は意を決して心の内を伝えた。
「本当は今すぐにでも、お前を零から引き離してやりたい」
「......分かりました」
 名前は顔を強ばらせている零をゆっくりと振り返る。誰のものか分からない唾を飲み下す音がやけに響いた。
「わたし、今日から秀一さんと暮らすね」
 あまりの唐突さとショックで零は言葉が出ない。
「兄妹に戻るなんてことは無理だけど、このままでいることも無理だもん。どのみちそうするなら、お互い早いほうがきっと良い。誕生日なんて待ってたら、わたしきっと...」
 名前は逃げるように自室へと行き、荷物を纏め始めた。
「零、あいつは本気だぞ。いいのか」
「...お前が望んだとおりだろ。これでいいんだよ。今までが間違ってたんだ」
「...子は、いいのか」
「今まで散々仕込んださ。それで無理なら、神に祝福されていないってことだろ。よくよく考えればされるはずもないんだからな。...もう充分だ」
「しかし...」
「赤井、ありがとうな。妹を頼むよ。幸せにしてやってくれ」
 零は家を出て軍の訓練施設へ向かう。余計なことを考えなくていいように、訓練生達と混ざって身体を動かそうと。しかし、心はどこか晴れやかだった。いつ関係が露見するかと怯えていた日々から開放されたのだから。
 名前は溢れてくる涙を何度も拭いながら荷物を纏めた。最後にすっかり零の香りが染み付いたシーツに顔を埋めてから部屋を出た。重いトランクを持ち廊下に出ると赤井が立っていてそれを奪う。
「零は出たよ」
「...そうですか...」
 名前は寂しそうに笑んだ。赤井は優しく手を握ると家族が待つ邸へと名前を導いた。久しぶりに入った赤井邸は権力を象徴しているように荘厳だった。リビングにいた赤井の父の厳つさと、母の美貌は十年ぶりでも変わらない。
「座りなさい」
「よく来てくれたわ。秀一、真澄たちを呼んできて」
 義父母に促され二人はそれぞれ動く。革張りのソファは手入れがされていて、買いたてだった昔からすると味が出ている。
「名前ちゃん!」
「わっ!」
 すっかり大きくなった末の妹が飛び付いてきて名前は危うくソファの肘置きで頭を打ちそうになったが、赤井の手がそれを阻止した。
「真澄。危ないだろう」
「ごめんなさい。名前ちゃん見たら嬉しくなっちゃって。怪我してない?」
「大丈夫だよ。大きくなったね、真澄ちゃん」
 名前が頭を撫でれば猫のように擦り寄る妹に赤井は離れろと念を送るが、それで引くような玉ではない。
「名前ちゃんがお義姉ちゃんになるなんて夢みたい」
「...わたしも真澄ちゃんが義妹で嬉しいよ。お義父さま、お義母さまも、秀吉くんも、これからよろしくお願いします」
「よろしくね!」
 頷いている三人の気持ちを真澄が代弁し、皆が微笑んだ。赤井は名前の肩を叩くと、床に置いていた荷物を持ち上げた。
「部屋に案内しよう。おいで」
「はい」
 赤井の後に続いて二階に上がる。記憶の中で赤井の部屋は階段を上がってすぐ目の前の部屋だったが、そこを通り過ぎ廊下の突き当たりの扉が開かれた。部屋は赤井の部屋を二つ並べたように大きい。
「俺達の寝室だ。衣装部屋は別にあるからまた後で案内しよう。リビングが居辛い時はここにいればいい」
「...はい、ありがとうございます」
 頭を撫でられ名前は赤井の胸に額を寄せる。驚きつつも赤井は嬉しさに顔を綻ばせた。名前が自分を愛そうと少しでも努力していることが感じ取れたからだ。
「ゆっくりでいい」
「...甘やかさないで。今甘やかしたら、わたしきっと全部拒んじゃう」
 名前は胸に手を添え見上げるとキスを強請った。赤井は見るからに戸惑っていて、名前は何だか悪い事をしている気になる。しかし言った通り今やめてしまえば、この先キスも、ハグも、その先も出来ないようなそんな気がした。
「秀一さん」
「......」
 赤井は細く息を吐き出すと、恋い焦がれてきた小さく赤い唇に噛み付いた。足りなかったものが満たされていくのを感じ、細い腰を抱き寄せ、赤井は舌を挿し入れた。
「っ、んっ...ふっ」
「はっ...っ」
 無我夢中で求めていた赤井は胸を叩かれてはっとする。解放した名前はすっかり頬を上気させ息を乱していた。赤井は唾を飲み下し、ベッドへと手を引く。さすがに早いというのは分かっているが歯止めが利かない。
 バンッと大きな音がして扉が開け放たれると笑顔の真澄が立っていた。
「名前ちゃん!今日の夕飯は何が食べたい!?」
 ベッドの前で固まる二人に真澄は首を傾げる。赤井は深く溜息を吐き、名前の肩を抱くと部屋を出た。リビングへと戻り、皆と他愛無い会話をする名前の様子は楽しげで赤井は安堵した。
 当夜、赤井と名前はベッドの上で情を交わした。零の影から逃れるように名前は赤井を求める。しかし赤井が触れ、動く度に零とは違うそれに寂しくなり、新たな快感に襲われては喘ぐ。赤井も名前の身体に刻まれた記憶を塗り替えるよう激しく抱き、求めていた存在を身体だけとは言え手に入れたことに喜びを噛み締めた。
「名前、きっと惚れさせてやる」
 名前が眠りに落ちるその間際、赤井はそっと呟いた。

 名前が赤井邸で暮らし始めて早数ヶ月が経つ。その間に零とは一度も会っておらず、名前は月の物が止まった。零の子か、赤井の子か定かでは無いのが名前を不安にさせ、同時に僅かな希望を抱かせる。もし金の髪をしていれば義父母や義弟妹に合わせる顔は無いし、近所からは後ろ指を刺され、軍にそれが知れ渡れば赤井も零も嫌な思いをするだろう。しかし、愛した男の子を産んだ、女としての喜びを得ることが出来る。そんな葛藤に日々悩まされながら、名前は少し出てきただろうか、という腹を撫で夫のいない時間を過ごす。
 その日、赤井と義父、最近軍に入隊した義弟の帰りは遅かった。女三人でそれを迎え入れ、出来上がっていた夕食を下女が配膳しようとするが義父はそれを制し、もう家へ帰るよう促した。
 義父母が並んだソファの正面に名前と赤井が腰を下ろす。テーブルの角を挟んだ一人掛けのソファに秀吉、その正面に真澄。いつもの定位置にそれぞれが着くと義父は口を開いた。
「停戦が解除された」
「「「!」」」
「私と秀一は明日戦地へ赴く」
 名前はゆっくりと顔を赤井へと向けた。真剣な赤井の眼差しは確かな覚悟を宿していて、名前は途端に怖くなる。震える手を赤井の大きな手が包み込んだ。
「必ず生きて帰ってくる。父親のいない子にはしてやりたくない」
 肩を抱かれ、名前は厚い胸に顔を埋めた。強く鼓動しているこの心臓が止まってしまうかもと考えると、大きすぎる恐怖に襲われる。金の髪が名前の脳裏で風に揺れた。
「零、は?」
「...あいつは前線の指揮を執る」
「っ...、っふ、うぅっ...」
 泣き出した名前を優しく抱き上げ、赤井は寝室へと向かった。ベッドへ下ろすと名前は赤井の胸に縋りついた。
「れ、死んじゃ、の?」
「あいつは簡単に死ぬような奴じゃないし、死なせやしない」
「しゅ、いちさ、も、絶対に、死なな、で、死な、ないで...っ」
「お前を残して死ぬわけないだろう。零だってそうだ。あいつはお前の腹の子が自分の子だと思えば、きっと手脚が無くなってでも帰ってくる。だからお前は俺達が生きて帰ってくるのを、信じて待っていてくれるか?」
「...っ、はい...っ」
「いい子だ。愛してるよ。夕食に零を招いているから、久しぶりにゆっくり話すといい」
 背中を撫でながら赤井は言う。しかし零が赤井邸を訪れることは無かった。

 戦争に勝利し、赤井は妻の待つ邸へと帰った。想定よりだいぶ早く戦争は終わり、家を空けたのは半年程。手紙のやり取りをしなかったため、不在の間の様子は分からないが名前は臨月を迎えている。体調も気になるが、なにより報告しなければならないことがあった。
 邸の扉を乱暴に開け放ちリビングを覗くがそこには誰もいない。寝室へと駆け込んでも名前の姿は無く、生活感も感じ取れないその様子に赤井の心臓は暴れ出す。
「名前...?名前!」
 大声を聞きつけ下女が二人近寄ってくる。問い質すと二人は顔を逸らすだけだが、それが何を意味するのか分からないはずがなかった。
「...帰ったのか、秀一」
 階段下から母に声を掛けられ、赤井はゆっくりと階下へと降りた。脳が一人でに揺れ、目眩に襲われる。
「名前、は...どうして...」
「......二ヶ月前だ。昼食後胸を押さえ突然倒れた。零が死んだ、そう呟いてそのまま。わたしたちには何も出来なかった」
「名前...」
 赤井の脚から力が抜け、階段に腰掛けた。母親の前だというのに嗚咽が止まらず、真紅の絨毯に涙が次々染みていく。
 二ヶ月前のある日、前線で指揮を執っていた零は死んだ。右腕たる風見は死の間際、零が名前を呼んだと言っていた。深く深く繋がった名前にその声は届き零が死んだことを悟った。しかし、どうしてそれで名前が死ぬ。
「胸を、というのは...」
 震える声を搾り出す息子を母は悲痛な面持ちで見る。陸軍大佐として畏敬の念を抱かれる男とはとても思えない。
「服を脱がすと左胸に弾痕のような痕が出来ていた」
「っ...零が、心臓を...っ、銃弾でやられた...」
「......そんな馬鹿な話が」
「あいつらなら、ありえる...っ、くそ...っうぅっ...」
 やはり俺が入る余地など無かった。離れていてもあの二人は心身共に繋がっていた。信じ難い話だがそれが真実なのだ。
「子供は...?」
 せめて子供だけでも。赤井は縋るように母を見上げた。母は廊下の奥、父母の寝室へと視線をやる。
「ぅ、ぅっ」
「チビ...もうちょっと寝かせてよお...」
「!」
 赤子と妹の声に導かれ、赤井はゆっくりと廊下を進む。カーテンの開けられた明るい室内で、欠伸を零しながら子をあやす真澄の姿に赤井は崩れ落ちた。
「しゅ、秀兄!?大丈夫!?」
 駆け寄って来た真澄が抱く子の髪色を確認して喜びと、妻と義兄を喪った哀しみ、最後まで神に祝福されなかった恋人たちの無念が押し寄せてきてどうしようもなくなった。泣きやみ不思議そうに父を見上げる子の頬を骨張った指で突くと、柔らかくふっくらとした弾力で押し返される。温かな温もりは確かに子が生きていることを赤井に伝えた。
 愛する妻はいなくとも、愛する子がいるならば父は強く在らねばならない。
 赤井は真澄の腕から子を抱くと顔を寄せた。
「お前の父だ。よく無事に産まれてきてくれたな」
 ふわあ、と口を開け欠伸をすると子はすぐ眠りに就く。
「うわ、僕がやっても全然寝ないのに。やっぱり父親って特別なのかなあ」
 真澄の言葉に赤井は頬を緩めた。甘い香りのする我が子の寝顔は名前によく似ていて愛らしい。
「名は何にしようか。花の名前が女の子らしくていいかもしれない」
「......秀兄、名前ちゃんに似ててすっごく可愛いけどさ、男の子だよ」
「...さすが降谷家の血だな...」
 赤井の言葉に母と妹は一様に頷いた。
 赤井家を深い悲しみが包む。しかしそれと同じくらいに大きな喜びもある。赤井は己の命よりも大切な三人の子供を生涯愛し守り抜くと心に誓った。



 暖かな場所で拍動を聞く。どこかへ向かっていた気もするし、動かずに止まっていたような気もする。ただ誰かを探していた。唐突に夥しい数の何かが押し寄せ、翻弄されていると衝撃が走り抜ける。一瞬で何かは消え失せ、代わりに寄り添う温もりがあった。二つの芽吹いた生命は探し求めていた存在と出逢えたことに安堵し、再び共に生れ出づる時を待つのだ。

 輪廻は繰り返される。
 この悲劇も、何度でも──


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