Corona2
 ナマエがヴィンセント・ファントムハイヴと初めて逢ったのは13歳の時だった。当時ヴィンセントは14歳で、告げてはいなかったが死を悟った母、クローディアが彼を伴いミョウジ邸へ赴いた。前日の夜、ヴィンセントは己が継ぐべき先祖代々の裏の生業を初めてクローディアの口から聞かされた。信じ難い話に眠れぬ夜を過ごし、翌日女王の番犬であるファントムハイヴ家が更に手駒として使う者達の元へ順番に訪れていた。その一人がナマエの父、バーナードだった。
 ミョウジ邸で二人を迎えたのはバーナードのみで、家族の姿は無かった。外には明るい春の陽射しが降り注ぎ、若葉は青々と輝きを放っている。それなのに通された応接室も、話の内容も暗く重々しいものだった。
 今日は紹介の後は傍に控えているだけでいい、と言い付けられていたために混乱したままの頭で会話を聞く。
「あの件の処理はどうなった」
「勿論問題なく」
「助かった。また近いうちに女王より命令が下るだろう。その時も頼む」
「心得ているよ」
 厳しいながらも淑やかだと思っていたクローディアはここにはいない。年上の男に対して高圧的な態度で物を言う姿を唖然として見つめる。今まで信じていたものがガラガラと音を立てて崩れ去っていくような恐ろしい感覚にヴィンセントは目眩がした。
「おい」
 呼び掛けられてはっとした時には話は終わっていた。案内されて応接室を出ると廊下を進み玄関の前へ立つ。ボーイが扉を開けると外から勢いよく小さな身体が飛び込んできた。
「!」
「わっ!」
「こら、ナマエ!」
 ナマエと呼ばれた少女はヴィンセントを腕の中から大きな瞳で見上げる。咄嗟に抱き留めてしまった身体を離してやると、ナマエは後ろへ下がりドレスの裾を持つと一礼して見せた。
「ご無礼をお許しください。ナマエ・ミョウジと申します」
「すまないね、ヴィンセント。少々元気がありすぎる娘で...」
 そう謝る父の前で、更に青年が少女へ抱き着いた。
「つーかまえた!」
「あ!お兄様!」
 青筋を浮かべるバーナードに気付き二人は急いで離れ姿勢を正す。
「申し訳ありません、父上」
 罰が悪そうに謝る兄と、その背に隠れヴィンセントを見つめるナマエ。瞳が合うと無邪気に笑われ、ヴィンセントは荒んだ心が静かに凪いでいくのを感じる。まるで今日の空と同じ、暖かく柔らかな春の陽射しのような少女だと思った。ヴィンセントの頬は熱を持つ。
「その、鬼ごっこをしていて...。東の庭園からここまで来てしまいました」
「何、東の庭園から?端から端までよくもまあ...」
 呆れるバーナードの横でクローディアは笑った。
「元気で丈夫な兄妹だ。お前とは長いが、子供の話をしたことはあまり無かったな。こんなにも愛らしい娘がいたとは」
 クローディアはナマエの前まで歩み寄ると小さく丸い頭を撫でる。ナマエはにっこりと笑いそれを受け入れた。それにはクローディアも面食らったようで、暫く固まった後バーナードを振り返る。
「この子は籠にでも入れておかないと連れ去られるぞ」
「肝に銘じておくよ」
 既に苦い経験があるのか溜息を吐きながらバーナードは頷く。
「エドガー、ナマエ」
 呼ばれた二人はバーナードの横に立つ。ヴィンセントも同じようにクローディアの横へと移動した。
「ファントムハイヴ家当主のクローディアとそのご子息のヴィンセントだ。これがうちのエドガーとナマエ。それぞれ14歳と13歳だ」
「14ならヴィンセントと一緒か」
「ええ。というか、同じ寄宿学校に通ってるし、何ならベッドも隣です。なあ、ヴィンセント」
「昨日、また月曜日って別れたばかりです」
「何だ、そうだったのか」
「つくづくわたしたちは子供の話をしないようだ」
 からからと笑う親二人に息子二人は肩を竦める。ナマエはといえば三時が近い事に気付き今日の菓子は何かと思案していた。
「せっかくだからお茶でもどうだ。もう三時になる」
「そうだな...。せっかくだ、いただこう」
「すぐに用意させる」
「わたし伝えてきます!」
 何の菓子が出されるのか先に知りたくてナマエは厨房へと走り出そうとする。その手をバーナードは掴むと、再び青筋を浮かべた。
「レディは走らない」
「...はい」
 途端にしおらしくなりとぼとぼと歩く姿をヴィンセントは可哀想に思う。隣のクローディアもそれは同じだったようだ。
「お前は娘の魅力も分からんのか。あれの良いところはあの元気だろう。男心を刺激される」
「何でお前が男心について語るんだ。ヴィンセントならともかく」
「え、僕ですか?」
「ああ、どうだ、嫁に」
「ええっと...」
 ヴィンセントは言葉に困り視線を彷徨わせた。母は本心を言え、実はいいと思っただろ、エドガーは妹はやらん、だが別に何とも思っていないと言われるとそれはそれで腹が立つ、とそれぞれ目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだと思わざるを得ない表情で見つめてくる。答えないヴィンセントに苦笑するバーナードを最後に見て、ヴィンセントは思い切って口を開いた。
「元気な姿が愛らしいと思いました。まるで春の陽射しのようで...彼女が隣にいてくれれば生涯退屈することはないでしょう」
「ほう...」
「お前言うじゃないか」
「ヴィンセントおおお!!!」
 親二人は感心し、兄は掴みかかる勢いで絶叫する。
「さて、バーナード。息子はこう言っているが...嫁にくれるか?」
「勿論。ナマエもいいね?」
 バーナードの言葉にヴィンセントとエドガーは振り返った。先程いなかったナマエは戻ってきていて、どうやら話を聞いていたらしい。真っ赤に染めた顔を廊下の角から覗かせていた。
「あ...えっと...」
 まさか聞かれているとは思わなかったヴィンセントも我に返り、勢いで想いを口にしてしまったことを後悔する。しかし、言ってしまったものは仕方無い。ヴィンセントは深呼吸すると踵を鳴らしながらナマエへと近付いた。肩を震わせて名前はヴィンセントを見上げ、ヴィンセントはその足元に跪くと小さな手を握った。
「どうか良い返事を」
「っ、うぅ......はい」
 更に顔を赤くしてナマエは頷いた。ほっと息を吐き淡く笑んだヴィンセントがそのまま手を握っていれば、走る勢いでやってきたエドガーがナマエを引っ張り抱き締める。
「おっ!お前に我が妹はやらんんん!!!」
「エドガー、ナマエは頷いた。お前は妹の意思を尊重しないのか?」
「うぐっ!そ、そんなのこの空気のせいだ!お前も断れないような状況で言いやがって!ナマエ!嫌なら嫌と言えばいいんだ!」
「あっ...いや、その」
「ああああああ!顔を赤くするなあああああ!!!」
「仕方ないじゃないですか!こんな王子様みたいな人にあんなこと言われたら...!お兄様の馬鹿!」
「なっ...!」
 初めて妹に馬鹿と言葉を投げられたあげく走り去られ、兄はその場に膝を付き項垂れる。
「ナマエ...何故だ...何故ヴィンセントなんだ...!何故俺が勝てない奴と!」
 きっ、とエドガーはヴィンセントを睨み付ける。
「おのれヴィンセント!妹はやらん!!!」
  うおおおおおと雄叫びを上げながらエドガーはナマエを追い掛け走って行った。それと擦れ違う屋敷の者達は何の反応もせず、普段から見慣れた光景らしいことをヴィンセントとクローディアは知る。頭を押さえるバーナードの肩をクローディアが叩いた。
「元気と言うかあいつは暑苦しいな。演技がかっていて面白いが」
「ヴィンセント、あれが義兄になるんだぞ、覚悟しておけ」
「あ...」
 王子様と言われた余韻に浸りたいヴィンセントだが、一気に現実を突き付けられげんなりする。
「まさしく小舅だな。......ヴィンセント、頑張りなさいね」
 扇子を口に添えた途端口調の変わった母に驚きを隠せない。裏稼業の時のみ現れる先程の母は最早別人格としか思えない。いや、裏稼業を行っている母こそが主人格なのだろう。
 慌ただしく変わる身の回りの状況に戸惑うが、立ち止まってはいられない。近い未来、自分が受け継ぐべき家業があり、またそれを次の代へ継承しなければならない。逃げる事は出来ない宿命にぐっと掌を握る。先程重ねたあの小さな手の暖かな熱を守っていかなければならないのだと、強く心に刻み付けた。


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