Corona3
 夏の湿った空気が肌に纒わり付く。馬車に乗り込むなり、首を伝う汗に苛立ちながら袖を捲り上げれば、すぐに馬車も走り出した。前に座って腕を組んでいるエドガーが顔を歪めながら口を開く。
「半袖着ればいいだろ。見てて暑い」
「去年は大丈夫だったのに、小さくなってて着れたもんじゃない。パツパツだよ」
「それは面白いから見たいけど、気持ち悪いから見たくない」
「そうだ、いい事を思い付いた」
「あ?」
 何だか物凄く嫌な予感がしてエドガーは声を低くし、ヴィンセントは喉の奥でくつくつと笑う。妹の事に関しては女王の番犬以上の嗅覚を見せるこの兄と、憎まれながらも良い関係を保てていることが嬉しい。同時に近い将来自分の下に就くとは知りもしない事を哀れに思った。
「ナマエの夜着にでもあげようかなと思って。征服感が満たされると思わないか?」
「お前人の妹で何て妄想してんだ!クソ野郎!」
「君の妹だけど、もう俺の婚約者でもあるからね」
「きいいいいい!」
 掴みかかってきたエドガーをヴィンセントは暑苦しいと制する。エドガーも暑い、と零すと大人しく座り直した。
 ヴィンセントは先週の土日に必死で書類確認を終わらせていた。二ヶ月ぶりに婚約者と会う今日のために。
 やがて馬車はミョウジ邸へと着いた。荷物をそのままに、エドガーの後をついて敷地に入る。奥方が花好きらしく、この邸は庭が広い。門の左右には一つずつ低木が植えられていて白い二種類の花を咲かせている。
「エドガー。この花は何?」
「ん?ああ、ノリウツギって木だよ。わざわざ日本から取り寄せたらしい」
 ヴィンセントは白い綿のような花弁とその周りにある一般的な花弁をしげしげと見つめる。
「ノリウツギ。聞いたことないなあ」
「花って男には分からねえもんだろ」
「まあ...」
 以前本を読んだ時にたまたま赤いカーネションについて知っただけで、他は全く知らない。
「でもナマエが花を好きなら俺も好きになりたいな。ナマエはどうなんだい?」
「本人に聞けばいいだろ、ほら」
 エドガーが指さした方向にはしゃがみこんで鉢植えを眺めているナマエの姿がある。顔をあちこち動かしては色々な角度から花を楽しんでいるようだ。
「ナマエ」
 声を掛ければ、愛らしい顔が振り向き笑顔を咲かせた。
 小さく、けれど人目を引く可憐な俺だけの花。
「ヴィンセント様!」
 ナマエは立ち上がるとヴィンセントに駆け寄った。ヴィンセントもその腰に腕を回すと頭を撫でる。
「ヴィンセント様、先日はお手紙をありがとうございました。赤いカーネーションまで添えていただいて...とても嬉しかったです」
 頭に置いていた手を頬へと滑らせる。細められた瞳に映るヴィンセントの緩んだ顔は随分とだらしない。
「その様子だと、花言葉もわかったようだね」
「...はい。わたしも、ヴィンセント様に逢いたくて堪りませんでした」
「ナマエ...」
 うっとりと見つめ合う二人の間にエドガーが割り込んで来る。
「ナマエ!まずはお兄様におかえりなさいだろう!」
「......お兄様、おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
 ナマエが渋々告げると、気が済んだのかエドガーはそのまま館へと入って行く。頬を膨らませるナマエの肩をヴィンセントは抱き寄せた。
「花を見ていたのかい?」
「はい、ペチュニアが綺麗に咲いたのでそれを見ていました」
「それは良かった。ナマエは花が好き?」
「はい、まだまだ勉強中ですけど...」
 頷いて恥ずかしそうに見上げてくる姿が堪らない。第一印象が元気な子であったために、こうして距離を詰めた時に見せる初々しい仕草がヴィンセントは好きだった。
「ナマエ、これからちょっと出掛けようか」
 ふと思い至って、ヴィンセントは提案した。
「今から...ですか?」
「ああ、夕食には間に合うようきちんと送り届ける」
「...お母様に聞いてみないと」
「俺も一緒に頼みに行くよ」
「ありがとうございます」
 いつもとは違う穏やかな笑みに息が詰まる。天真爛漫に笑う姿が多いため、こうして柔らかで女性的な笑みを浮かべられると、どきりとする。きっとナマエは益々綺麗になっていくのだろう。
 小さな手を握って邸へ入る。メイドにナマエの母の居場所を聞き邸の裏庭へと回ると、煉瓦の敷かれた道の先にあるガゼボに姿を見つけた。
「お久しぶりです」
 母は二人の繋がれた手を見て微笑む。
「すっかり仲良しね」
「ええ、この間はどうなるかと思いましたが」
「もうヴィンセント様、やめてください」
「はは、可愛い、可愛い」
 頬を膨らませるナマエの頬をヴィンセントは人差し指で突く。今にも唇が触れ合いそうな距離でじゃれ合う二人に母は口元を扇子で隠す。もう15に近い男女が厭らしさの欠片も感じさせず慎ましく笑い合う様子が実に微笑ましい。
 我が娘ながら、ヴィンセントと並ぶと絵画の様に美しい。孫も大層可愛く感じられるだろう、と母が想いを馳せているとナマエが顔を覗き込んだ。
「お母様?」
「ふふ、何でもないのよ。それで、どうかしたの?」
「夕食までには帰りますので、少しナマエと出掛けてきてもよろしいですか?」
「もちろんよ。楽しんでいらっしゃい」
 母に送り出され、ヴィンセントは再びナマエの手を引いた。待たせたままの馬車に乗り込み隣同士に座る。肩を抱き寄せればナマエは素直に肩へと頭を預けてきた。自然の流れでそうしてくれることが嬉しい。
 半年前、ヴィンセントの発言により二人は婚約者となった。クローディアとナマエの両親は勿論乗り気で、着々と話は進められ、結婚はヴィンセントが成人する21歳、ナマエが20歳の時にすることになった。遠い話のように聞こえるが、ヴィンセントは今寄宿学校に通っているし、家業も引き継ぐことになる。それが落ち着いた頃が互いにとってもいいだろう、というバーナードの気遣いだった。
「新妻を家に閉じこめておく訳にもいかないものね。この優男ではナマエちゃんが気移りしてしまうかもしれないし、ゆっくり考えるために時間があった方がいいわ」
「!」
 母の丁寧な言葉遣いに交じる冷たい物言いにヴィンセントは言葉を失う。ナマエの手を取り、不安そうに見つめてくるヴィンセントは冗談を間に受けているようで、ナマエは驚きつつその手を握り返す。
「お義母様、そんな事は絶対にありませんから。ヴィンセント様も、間に受けないでください。わたしはそんな軽い気持ちでこの話をお受けしたんじゃないんですよ」
「ナマエ...」
「だからヴィンセント様、そんな顔しないでください。かっこいい顔が台無しですよ」
「お熱いようで」
 クローディアは他所でやれ、と視線で訴えかけて来るが元はあんただとヴィンセントは顔を顰めたものだ。
「それで、今からどちらに?」
「ファントムハイヴの領地に良い所があるんだ。きっと今は綺麗な景色が見られるはずだよ」
「何だろう、楽しみ」
 鈴が鳴る様に軽やかな声でナマエは笑う。婚約後暫く緊張し思う様に話してくれなかったが、それもすぐに無くなり、今では天真爛漫な笑みを惜しみなくヴィンセントへと向けてくれる。何だか恋人というよりは仲の良い兄妹に近いようで気落ちしているとエドガーに喝を入れられた。
「お前は俺の妹の愛が感じとれないのか!あんなにもお前を好きだという顔をしているのに!」
 そう言われ意識して見てみれば、確かにエドガーと自分では向ける表情も、対応も違った。隣に来れば自然と腕を組み、表情を伺ってくる仕草がとても可愛らしい。視線が交わればはにかみ頬を薄桃に染める。元気なだけでなく、自分を気遣う淑やかさだってしっかりと見て取れた。まだまだお互い若く、これは愛と言うよりは恋に近い。それでもこの初々しい感情をいつまでも忘れないでいたい。
「あの、それでお手紙のことなんですけど...」
「どうかしたかい?」
「わたしまだ字には自信がなくて...ヴィンセント様と同じくらい綺麗な字が書けるようになったらきっとお返事を書きます。だから、待っていてくれますか」
 思いがけない言葉にヴィンセントは身体を起こした。ナマエは不安そうにこちらを見ていて、安心させるように笑むと頭を撫でた。
「勿論。ナマエからの手紙、楽しみだなあ。手紙を読んだらきっと週末の予定なんかすっぽかしてナマエに会いに来てしまうだろうね」
「それは嬉しいです。でも、お家のお仕事も大変なんですから、無理はなさらないでくださいね」
「ああ。これからも会えないことが続くだろうけど手紙を出すよ。一月に一度と思っていたけれど一週間にしよう。花が枯れる頃、また花と一緒に贈るよ」
「ヴィンセント様...」
 ヴィンセントはナマエの真っ赤に染まった頬に口付けを落とす。小さなリップ音を立てて離れれば、恥ずかしさにナマエは顔を覆って俯いていた。
「ナマエ、顔を上げて。せっかくの花が見えないよ」
「え?」
 促されて見た馬車の外には紫色の絨毯が広がっていた。ナマエは心当たりのあるその花の名を口にした。
「ラベンダー?」
「その通り」
 馬車が停り、ナマエはヴィンセントの手に捕まりながら地面へ降り立つ。手を繋いで畑の間の小道を二人は進んだ。甘すぎない濃厚な香りが二人を包み込む。ナマエの腹の高さほどにもなるラベンダーが見渡す限り広がっていて、ナマエはほう、と溜息を吐くばかりだ。
「ヴィンセント様、何だか凄すぎて言葉が出ません」
「圧巻の景色だね。それにいい香りだ。ナマエの髪にも、もう香りが移っている」
 ヴィンセントはナマエの髪を掬うと鼻を近付けた。頬を染め視線を彷徨わせるナマエの姿が色っぽい。首までを覆うレースの下を暴きたい。そんな想いをぐっと押し込め、ヴィンセントはナマエを抱き締めた。
「こんなに綺麗な景色をナマエと見ることが出来て嬉しいよ」
「わたしもです、ヴィンセント様。連れてきてくれてありがとうございます」
「...ナマエ。よく聞いて」
 ヴィンセントはナマエの肩に手を置くと、真っ直ぐに見つめた。真剣な表情にナマエは思わずどきりとする。
「会えないことが多いけれど、必ず週に一度手紙を出し、月に一度会いに行く。落ち着いたら、こんな風に綺麗な花や景色をたくさん見に行こう。ナマエと綺麗だねって笑いたいんだ。どんな些細な幸せでも共に分かち合いたい。だから、俺を待っていてほしい」
「......はい」
「改めて言うよ。ナマエ、俺と結婚しよう」
「はい」
 しっかりとナマエが頷いたことを確認して、ヴィンセントは初めてその唇を奪った。瑞々しく吸い付くような唇を夢中で求め、漸くヴィンセントが唇を離した時、すっかりナマエの息は上がっていた。息苦しさと羞恥で潤んだ瞳に見上げられ、ヴィンセントは耳の縁ををぺろりと舐めら。
「残念だけど続きはまだまだ先だ」
 二人が結婚するのはまだ7年も先の話だ。キリスト教徒である二人は婚前に性交渉を行うことは出来ない。
 ナマエは舐められた首を押さえ羞恥に堪える。林檎のように真っ赤に染った柔らかな頬にヴィンセントは幾度となく唇を落とした。
「さて、想い出にこのラベンダーを少し貰って帰ろうか」
 ナマエの手を引き、近くにある畑の所有者の家へと向かう。つい先日初めて訪れたばかりの領主の顔を忘れていないといいが。
 扉の前に立ち声を掛けると主人が現れた。
「これはヴィンセント様!いったいどうされたのです、こんな夕刻に」
「突然すまない。勝手ながらラベンダー畑を見せてもらっていたんだ。それで相談があって、少しだけ分けて貰えないだろうか。彼女と共に見た景色の想い出として」
 隣に立つナマエの肩を抱き寄せれば主人はおおらかに笑った。
「未来の奥方様との想い出ですね!そんな大切なものにうちのラベンダーをしてくださってとても嬉しいです!すぐ摘んで参りますので、狭い所ですが中で少々お待ちになって...」
「いえ、傍で様子を見させてください」
「え」
「あ、無理ならいいんです。すみません」
 主人の言葉にナマエが被せるように言った。驚いた主人の言葉についていくとまずいと思ったのかナマエは首を振り謝った。
「でしたらお嬢様、ご自分で摘まれてみますか?」
「いいんですか!」
「もちろん。花だってわたしみたいなおじさんに摘まれるよりは美しい人に摘んで欲しいはずですよ」
「そんなことないです。職人さんには敵いませんからね」
 目と鼻の先にある畑へ着くと主人は花の前にしゃがみ、茎を手に取った。
「この位の位置で茎を切ってください。好きなだけ持って行って貰って構いませんので」
「そんなにたくさん頂くわけにはいきませんよ!想い出として、一束でいいんです」
 ナマエがドレスを気にしつつしゃがもうとするのを、ヴィンセントが後ろで地面に付かないように持ってやる。
「ごめんなさい、ヴィンセント様。ありがとうございます」
「気にしなくていいよ。手を切らないようにね」
「はい」
 主人から鋏を受け取るとナマエは恐る恐る茎を切った。
「おお...!」
「お上手です。お嬢様、これはわたしからのお願いなのですが、持ち帰って頂くからにはやはり楽しんでいただきたいのです。見た目の華やかさも、香りも。ですから、これくらい持ち帰っていただきたいのです」
 主人はそう言うと、いつの間に切ったのか抱えるほどの量のラベンダーを手にしていた。
「いつの間に...」
「魔法使い...!」
 ナマエの言葉に思わずヴィンセントと主人は吹き出す。
「ヴィンセント様、可愛らしい素敵な奥方様ですね」
「ああ。どれだけ一緒にいても飽きない自信があるよ」
 立ち上がったナマエのドレスを丁寧になおしてやると、頭を撫でる。その横で主人は自分とナマエが摘んだラベンダーを手早く紙に包んだ。
「お嬢様、どうぞ」
「ありがとうございます」
 ヴィンセントとナマエは主人に見送られ馬車を走らせた。日が暮れ始めている。外では収穫を控えたラベンダーが風に揺れ、香りを漂わせているのだろう。ナマエは大事そうに胸にラベンダーを抱えていて、それはまるで赤子でも抱いているようだ。
「子供」
 思わず口を付いた言葉にヴィンセントは口を覆う。
「ヴィンセント様?」
「あ、いや、何でもないよ」
「?」
 首を傾げ不思議そうにするがナマエはラベンダーへと視線を移す。香りを楽しみ笑う姿に未来が重なる。子供を慈しむ母の姿だ。ヴィンセントはナマエを抱き寄せると頬に口付け未来へ想いを馳せた。


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