Corona4
 母が死んだ。馬車に乗っている時、別の馬車が突っ込んで来たらしい。意図的でなければ起こりえない事故。
 女王の番犬への怨み。
 家督を継ぎ挨拶に来る駒の対応、各領地への諸々の通達、女王への謁見。週末はそうして消えていき、ナマエには半年近く会えていなかった。
 初めて母の口から聞いたファントムハイヴの裏の仕事。暗闇に引き摺り込まれそうなヴィンセントを救ったのはナマエで、再びヴィンセントはその闇に自分が追われている錯覚に陥っていた。とにかくナマエに会いたい。
 明日も学校が終われば仕事に忙殺されるだけの週末を送りに邸へ帰宅しなければならない。苛立つ感情を唯一鎮めてくれるナマエの事を想い、ヴィンセントは机に向かう。それを見ていたエドガーがベッドに寝転んだまま言った。
「また手紙?お前もよくやるなあ。忙しいのに...。返事、来ないだろ?妹が悪いな」
「ナマエが字の練習をしてるの俺は知ってるよ。だからいつか来る返事を待ってる。きっとそう遠い日じゃない。母が死に家督を継いでからは益々会える日が減って、寂しい想いをさせているだろうしね」
「昔は週末帰るとお兄様って抱き着いてきてたのに、今じゃ俺の姿見るとがっかりするんだぜ。お前はいないのかって。酷い妹だよなあ」
「それは...、悪いことをしているね。すまない、エドガーお義兄様」
「白々しい。ナマエが自分のこと考えてるって嬉しいんだろ」
「そりゃあ、婚約者が会えない時間を寂しく思い俺を恋しがるなんて可愛いくて堪らないよ」
 "You are my everything."
 決めた文字を便箋に記す。一言の愛と、赤いカーネションを毎週土曜に贈る。会うことが出来るのはヴィンセントの日程次第で元々月に一度会えるかどうかだったのに、今では数ヶ月先まで会える予定がない。あまりの恋しさに休む時間も惜しみ、エドガーがするべき寮弟の仕事を一週間肩代わりする─勿論エドガーの寮弟には内緒だ─ことと引き換えにナマエの写真を数枚貰い受けた。写真たての中でナマエはあの日摘んだラベンダーの花束を抱え笑っている。なんでも次の日家族写真を撮るために写真屋を呼んでいたらしく、ついでに撮ってもらったそうだ。
「エドガー」
「何だ?」
「婚約者の笑顔が眩しくて辛い。可愛い、俺のナマエ」
「まだお前のじゃねえ!」
 枕を投げ付けられ、頭に当たったそれが足元に落ちた。ふわりとラベンダーの香りがして、あの日の光景が蘇る。
「この枕、ラベンダーの香りがする」
「ナマエが作ったサシェくれたんだよ。そういやお前にも渡すように言われてたんだった」
 枕があった場所には白い袋が二つ乗っている。
「エドガー」
「悪い、すっかり忘れてた」
 さすがに悪いと思ったのかエドガーは二つともヴィンセントに投げて寄越す。受け取った布袋から漂うのはあの日と同じ香り。すぐ隣にナマエがいるようでヴィンセントの心は久方ぶりの安らぎを感じた。
「エドガー」
「何だ?」
「ナマエに会いたい」
「......週末帰った時あいつを抱き締めるのは俺だったのに、もうお前に取られちまった」
 ちっ、とエドガーに隠す気もない舌打ちをされてヴィンセントは笑う。
「それは本当に申し訳ないと思っているよ。あんなに愛らしい妹を男にやるのは確かに嫌だ」
「分かってるなら返せ!」
「それは無理な相談だな。妹と妹の愛する男を引き離すのか?それこそ嫌われちゃうよ、お義兄様」
「ほんっとお前そのお義兄様ってのやめろ、腹立つ」
「末永く仲良くしようね、お義兄様」
「何が末長くだよ。...そういえば父上とヴィンセントの母君は何の繋がりがあるんだ?今まで会っているのを見たことは無かったが」
「さあ...。繋がりは知らないけれど、昔から君たちの父君はうちに出入りしていたよ」
「ふ〜ん」
 自分から聞いたくせに気のない返事を返してきたエドガーにヴィンセントはほっとする。
 エドガーは知らない。ファントムハイヴは勿論、ミョウジが裏で何をしているのかを。女王の番犬と、更にその駒として時に人を殺めることも、己がその業を背負うとも知らずに生きている。それが幸せなことなのか、不幸なことなのか。ヴィンセントは知らず細めていた瞳に気付き頭を振る。当主から引き継ぐべきその時が来るまでは知らなくていいのだと。
 ヴィンセントは枕とサシェを手にエドガーのベッドへと歩く。仰向けで天井を見ているエドガーの顔に枕を落とすと、隣のベッドに腰掛けた。
「おい、義兄に対してこんな事をしていいのか?」
「義弟にしてもダメだろ」
 ヴィンセントはベッドへ身体を沈めると、枕の下にサシェを入れる。今夜は気持ち良くよく眠れそうだ。

 メイドから手紙とカーネーションを受け取りナマエは顔を綻ばせる。
「お嬢様、嬉しそうですね」
「ええ。ヴィンセント様がわたしのことを想ってくださっていることを確かに感じられるもの。でもやっぱりヴィンセント様に会いたい。もう半年以上会えていないわ」
 ナマエはぎゅっと胸にそれらを抱き締める。その表情は悲痛に歪められていて、メイドは励ましの言葉を掛けようとしたがすぐに口を閉じ、その場を離れた。
「俺も会いたくて堪らなかったよ。そう想いを込めたカーネーションを送っているにも拘らず飛んで来てしまうくらいに」
「ヴィンセント様...!」
 後ろから肩に手を乗せられ振り返ると、そこには幻でも何でもない本物のヴィンセントがいてナマエは驚きに瞬きを繰り返す。ヴィンセントはナマエの手を引くと歩き慣れたミョウジ邸を進みナマエの自室へと向かった。
 ソファに隣同士で座り二人は身を寄せた。ヴィンセントの大きな身体にすっぽりと包み込まれ、ナマエの心臓は激しく動く。額や頬に口付けを次々に落とされ、その度に揺れる髪から漂うヴィンセントの香りに安心し、またくらくらと目眩がする。ふいに耳に舌を這わされナマエの身体は大きく跳ねた。
「可愛いね」
 いつもの笑顔とは違う、艶めいた表情から瞳が離せない。熱い吐息を耳に吹きかけると、ヴィンセントはナマエの赤く熟れた唇を奪った。唇で食み、舌で舐め上げる。息を止め苦しそうな姿にさえ欲情しヴィンセントは舌を差し入れた。
「んむっ!?」
 濡れた舌が触れ合い、ナマエは身体の力が抜け背もたれへと寄り掛かる。ヴィンセントは口付けたまま背に手を回し支え、ソファへナマエの身体を寝かせた。
「ヴィ、ンセント様...!」
 息継ぎをさせてやった後、戸惑うナマエに構わず再び深く口付けた。舌を絡め取られ、唾液を奪われ、室内に厭らしい音が満ちていく。
「あっ、んんぅ...」
 瞳が涙で潤み、顔が真っ赤になったナマエを見てこれ以上はダメだとヴィンセントは身体を起こした。荒い息を整えるナマエが瞬きをすると涙がソファの座面へと滑る。頬を拭ってやると潤んだままの瞳で見上げられ、名前を呼ばれた。強請るようなその仕草に身体の中心が熱くなる。再び覆い被さろうとした時、ヴィンセントを落ち着かそうとするように、開け放たれた窓から風が吹き込んだ。ヴィンセントの髪を揺らし、ラベンダーの香りを漂わせる。微かなラベンダーの香りにヴィンセントが窓辺を見つめると、そこにはラベンダーの束が吊るされていた。
「あのラベンダー...」
「ヴィンセント様と出掛けた時にいただいたあのラベンダーです」
「でもあれは半年以上も前に取ったものだろう?何故枯れていないんだ?」
 身体を起こすナマエを手伝い髪を整えてやりながらヴィンセントは尋ねる。
「庭師が教えてくれたんです。風通しの良い窓辺に少量の束にして吊るせば、上手くいくとそのままの状態で残せると。試してみたら上手くいったみたいで...それでサシェも作ることが出来たんです」
 サシェの作られた経緯を知り、ヴィンセントは感心する。ベッドサイドには同じように、ヴィンセントが贈っただろうカーネーションも吊るされていて、きっと眠る前の一時に自分を思い出してくれているのだろうと頬が緩む。ガーデニングなど本来ならば庭師や召使いたちが行うような仕事にもナマエは興味を持ち行動に移す。伝統と格式を重んじる英国社会にはそぐわないと、その行為は煙たがられるかもしれない。それを恐れずに行うナマエの好奇心には少し危うさを覚えるがそれも受け入れてこそだ。言葉は自然と口を付いた。
「ナマエ、愛しているよ」
「!」
  突然の言葉にナマエは驚く。思い返せば手紙で伝えられたことはあっても、今まで一度もヴィンセントの口から直接聞いたことは無かった。引いたはずの涙がまた溢れてくる。
「...ヴィンセント様、嬉しいです」
「本当に心から愛しているよ。母が死に家の仕事に追われ、気付けば週末は終わり、また学校に帰らなければならない。ナマエに会えないのは凄く辛いけれど、俺の心を支えてくれているのは、その会えないナマエの存在なんだ。仕事が落ち着けばナマエに会える、だから頑張ろうって。もう俺はナマエ無しでは生きられないんだよ」
  身に余る甘美な言葉にナマエは嗚咽を漏らし、ヴィンセントへと抱き着いた。ヴィンセントは優しく受け止め、背中をあやす様に叩く。
「ヴィンセント様...!会いたかった...!」
「俺もずっと会いたかった」
  ヴィンセントはナマエの細い肩に顔を埋める。
「母が死んでから、生きた心地がしなかった」
  暗く重いヴィンセントの声音にナマエは自分まで胸が苦しくなる。
「まだ学生なのに家督を継いで右も左も分からないけど、逃げようとは思わなかった。でも暗闇に引き摺り込まれるような、そんな恐怖にずっと襲われてる」
  ナマエはヴィンセントの頭を抱き寄せゆっくりと撫でた。少し硬い髪の毛に触れたのは初めてのことだ。一つしか違わないはずなのに彼をいくつも年上のように思っていた。穏やかで落ち着いていて、優しく包み込んでくれる頼りになる人。しかし、違った。一つしか違わないまだ子供と大人の間にいる曖昧な存在。
「ヴィンセント様、わたしが傍にいます」
「ああ...俺は今生きていると確かに感じられる。ナマエと生きたいと切望しているんだ」
「わたしもです。ヴィンセント様、あなたがいないとわたしはもう生きていけません。あなたの温もりを知ってしまったのです。...心から愛しています」
「ナマエ...」
  俺がナマエを太陽のように感じているのと同じで、ナマエも俺をかけがえのないものだと思ってくれている。共依存と言われてしまえばそうかもしれないが、恋愛なんてそんなものだ。恋愛には愛し合う二人だけがいればいい。他は関係ないのだから。
 ヴィンセントは小さい身体ながらも大きな存在をしっかりと抱き締める。どこへも離れていかないように。
「ナマエ、絶対に俺から離れないでくれ。何があっても...死が訪れるまで...」
ヴィンセントがナマエの頬を両手で包み視線を合わせると、ナマエは首を振った。
「ヴィンセント様、わたしは死が訪れた後も傍にいるつもりです。お許しいただけますか」
「...堕ちた先が例え地獄でもついてきてくれるか」
「あなたの隣がわたしの居場所です。あなたが往くのであればどこまででもお供致します」
 力強い言葉だった。表情も引き締まっていて、覚悟が見て取れる。
 ヴィンセントは分かっていた。母が堕ちた地獄へ、いずれ自分も堕ちていくことを。穢れのないナマエが同じ場所に堕ちるとはとても思えないが、その言葉だけで良かった。
「ナマエ、愛してるよ。共に往こう」
 ヴィンセントは呪いの言葉を吐き出した。ナマエは死んでも傍にいると言ってくれた。それならば同じところまで堕ちていけばいい。死とも地獄とも掛け離れたこの清い存在をこの手で穢してでも。


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