Corona5
  時は過ぎた。ヴィンセントは18歳になり寄宿学校を卒業するとファントムハイヴ家へと戻り、本格的に家業を己の力で押し進めていくことになった。当主が用なく家を空けるわけにはいかず、ナマエが毎週水曜にファントムハイヴ邸を訪れる。ヴィンセントには唯一ファントムハイヴの名を捨てることを許され解放される時間だった。
 春の陽射し降り注ぐ昼過ぎ、急ぎの仕事を済ませたヴィンセントはナマエを連れ庭へと赴く。近い将来共に住むことを考え、ナマエの好きな草木や花を庭師に植えさせていたが、漸くナマエに見せられるできになっていた。
「わあ...!」
 三年程を要した若木から、冬を越し再び芽吹いた球根草花などが瞳に美しい。それぞれの存在がぶつからず、一番美しく調和する場所にそれぞれ植えられていて、見事と感服するできだ。
「綺麗...!」
「ナマエのために庭師たちに頑張ってもらったんだ」
「私の好きな花ばかり。だからちょこちょこ好きな花をお聞きになられたんですね?」
「そうだよ。ナマエに喜んで欲しくて」
「それなら大成功ですね。凄く嬉しい...!ありがとうございます、ヴィンセント様」
 ナマエはヴィンセントに勢いよく飛びつく。
「わっ!」
 受け止めようとするが、芝生に脚を取られたヴィンセントがよろけ、二人一緒に倒れ込む。ナマエは焦り、すぐ身体を起こした。
「ヴィンセント様!申し訳ありません!お怪我はありませんか!?」
「うん、ないよ」
「...ヴィンセント様?」
 怒るどころか優しく瞳を細め見つめてくるヴィンセントにナマエは首を傾げる。ヴィンセントは倒れた身体を少し動かし、ナマエの膝へと頭を乗せた。
「ナマエに初めて会った時も、こうして飛びつかれたなあと思って」
「あ...」
「ナマエもちょっとは落ち着いたと思ってたけど、こうして考えるとそうでもないなあ」
 からから笑うヴィンセントの頬をナマエが緩く抓る。見上げた頬は愛らしく膨らんでいる。
「そうやってむくれる仕草も、飛びついてくるくらい元気なところも大好きだよ。誰かがお淑やかにしろなんて言っても気にしなくていい。ありのままのナマエが好きだから」
 ナマエは頬を抓るのをやめると、髪を撫でる。ヴィンセントもそれを受け入れ、気持ち良さそうに瞳を閉じた。
  暖かな陽射しと、爽やかな風、漂う花々の香り、それから柔らかなナマエの脚。叶うならば死ぬ時もこんなふうに穏やかな気持ちでいたいものだが、そうもいかない。そう思えば思うほどこの一時が愛おしく感じられた。

「ん?」
 瞳を覚ましたヴィンセントは肌寒さに襲われた。陽は暮れ始め、邸にも灯が灯り始めている。見上げればナマエが座ったまま眠っていて、まだ幼さの残る顔にヴィンセントは笑みを零した。身体を起こしてナマエを抱き上げ邸へ足を踏み入れる。
「おや」
 微笑ましいものを見るように瞳を細めた妙齢の執事の目尻に細い皺がいくつも走る。
「田中、すまないがナマエを泊まらせると伝えてくれるか」
「かしこまりました、そのように」
 ヴィンセントはそのまま寝室へ向かい綺麗に整えられたベッドにナマエの身体をゆっくりと寝かせる。起きる様子はなく、その姿が母と重なり恐怖が襲った。口元に手を当てて、呼吸が繰り返されているのを確認し、ベッドに腰掛ける。
 母は女王の番犬としなの恨みから殺されたのだろう。いずれ自分もそうなる。愛する者をを道連れにしてでも、魂が消えるその瞬間まで共に在りたい自分と、清らかな存在を穢すことを許さない自分。相容れぬ二人がヴィンセントの中にはいる。
「ヴィンセント様」
 扉の外から声を掛けられ、ヴィンセントは短く返事をした。開いた扉から田中が綻んだ顔を覗かせる。
「エドガー様よりご伝言です。かなり長いのですが、要約すると貞操を奪う事は許さないとのことでした」
「何だそれ。宗教上無理だとあいつも分かっているだろうに」
「ナマエ様を前にしてそういう気にならない方がおかしい、とも仰っていました」
「やっぱりあいつはどっちに転んでも怒るんじゃないか」
 手を出しても、出さなくても。どうせ怒られるなら得する方を選びたいが宗教上の掟に逆らうことは出来ない。人の命を奪う事もある己の身からすれば、矛盾を感じないこともないが、人間とは矛盾だらけの生き物だ。ナマエを穢し共に堕ちていきたいが、愛するべき存在にはどこまでも無垢で自分の汚い部分を何も知らぬままでいてほしい。
「お食事はどうされますか。もう準備は整っていますが」
「ああ。下で食べよう。すぐ降りるよ」
「かしこまりました」
 執事が下がるとヴィンセントはナマエを振り返った。射し込んだ夕陽が眩しくて、思わず顔を顰める。橙に染められたナマエの身体はまるで業火に燃やされているようだった。
「!」
 どっ、と心臓が強く脈打ち、身体が熱くなりすぐに冷めていく。並行して背筋を嫌なものが駆け上がりそのまま天井へと吸い込まれていった気がした。深呼吸をして息を整えると、ヴィンセントはナマエの額へ触れた。
「ナマエ」
 乱れた髪を整えてやれば、丸く大きな瞳が開く。瞬きを繰り返し、ヴィンセントを見つけると身体を跳ね起こした。
「わたし...!」
「俺が寝た後でナマエも寝てしまったようだね。身体は冷えてない?」
「大丈夫です。それより」
「今日は泊まらせると連絡を入れたよ。食事の準備が出来ているから行こう」
「え...!」
 ナマエの手を引きヴィンセントは一階へと降りる。ダイニングには三人分の食事が用意されていた。執事がナマエのために椅子を引き、ヴィンセントに促されて腰を下ろす。フランシスも入室し二人が席に着くと、静かな晩餐は始まった。

 食事が終わったあと、ナマエはフランシスと話していた。ナマエがファントムハイヴ邸を訪れる水曜の昼、フランシスには家庭教師が付く。そのため二人はあまり顔を合わせたことがない。まだ少女ながら気が強く厳格とヴィンセントに言わしめるフランシスと仲良くなれるかナマエは不安を覚えていたが杞憂だった。
「庭はご覧になられましたか?」
「うん、凄く綺麗なお庭だね」
「兄上が細かく庭師に指示を出していましたよ。配置、花の色、木の形まで。庭のことは庭師に任せておけばいいものを、姉上のためだとか言って」
「まだこの邸に住むのは先の事なのにね。でも嬉しい」
「......兄上は待ちきれないんですよ。姉上と暮らす日を」
「そうだといいなあ。わたしも凄く楽しみ」
 フランシスの日々の鍛錬のこと、ナマエの刺繍の腕前について、家庭教師の変な口癖の真似。 ナマエとフランシスは他愛もない会話を続けた。
「それにしても、あのひょろっひょろの兄のどこがいいのですか」
「言うほどひょろっひょろじゃないよ」
「兄の身体を知っているような物言いですね」
「えっ!?やっ、えっ!?」
 母同様ナマエを揶揄うことを覚えてしまったらしいフランシスを湯浴みから戻ったヴィンセントが窘める。
「こら、フラニー。ナマエで遊ばない」
「遊ぶだなんて...これから遊ぼうとしているのは兄上では?」
 フランシスは鼻で笑うと部屋を後にする。ヴィンセントは妹にまさかそんなことを言われるとは思わず固まり、ナマエは顔を赤くして俯いた。残された二人の間を何とも言えない空気が漂う。
「ナマエ様、湯浴みの準備が整いました」
「あ!はい!行ってきます!」
 メイドの言葉にナマエは走り去る。自分を追い越しても走り続ける姿にメイドは首を傾げる。ヴィンセントは深く溜息を吐きながら、先程まで二人が座っていたソファに項垂れた。

 ナマエは湯浴みを終えると、準備されていた白のナイトドレスを身に纏う。メイドからヴィンセントの寝室へ通されて先程の会話を思い出す。フランシスの言った遊ぶ、とは夜の営みのことだろう。宗教上の掟で婚前交渉は禁じられている。それはフランシスも知っているはずなのに、何故あんなことを言ったのだろう、何か意図があったのだろうか。考えれば考えるほど頭は沸騰してきて、湯を浴びたせいじゃない熱さが全身に広がる。着いた部屋の前でメイドはヴィンセントに声を掛け、返事を待って扉を開く。ベッド傍の燭台にのみ蝋燭が灯る部屋は薄暗い。ヴィンセントは部屋の中央にあるソファに座り長い脚を優雅に組んでいた。
 ナマエが部屋に入るとヴィンセントは立ち上がる。扉の閉まる音のあと、腰を抱きベッドへと手を引いた。ヴィンセントが何も言葉を発さずナマエは緊張してきた。
「あ、の、ヴィンセント様」
「ナマエ。お願いがあってね」
「......はい」
「これ、着てくれる?」
「...へっ?」
 ヴィンセントはベッドに置いていた布を広げる。
「?」
「去年まで着てた制服のシャツなんだけど小さくなってしまってね」
「えっと」
「俺には小さい服もナマエが着ると大きく見えるだろう?俺の服を着ていると思うと...征服欲、いやナマエは俺のものなんだなってそう思えるから...ダメかな?」
 悲しそうな表情を向けられてしまえば、ナマエは断れなかった。
「あ、えっと...着替えてきます」
 立ち上がろうとするナマエの腰を抱き、足を止めさせる。嫌な予感がしてナマエは頬が引き攣るのを感じた。
「後ろを向いているから、ここで着替えて」
「!」
「ナマエ」
「わ、かりました...」
 震える声で了承したナマエの髪から覗く赤い耳にヴィンセントは唇を寄せる。
「大丈夫、何もしないよ。それじゃあ、後ろを向くね」
 ヴィンセントは大人しくナマエを解放し、ベッドに座ったままで首だけ後ろを向く。それを確認してナマエはおずおずとナイトドレスのボタンに手を掛けた。手を動かしつつもナマエはヴィンセントがこちらを見ないか監視を続ける。
「ナマエ」
「ひゃいっ!」
「ふふっ、緊張してるの?可愛いね」
 裏返った声を笑われナマエは更に顔を赤くする。しかしそれを見られることもないため、ヴィンセントの背を睨んだろ。
「今ほっぺた膨らませてるでしょ、分かるよ」
「!」
 指摘され、確かに頬を膨らませていたことにナマエは気付く。
「当たりだね。ナマエのことなら手に取るようにわかるよ」
「もう!意地悪しないで!お口を閉じてください!」
「うん、でもそうするとナマエが何をしているか分からないから教えてくれるかな。もうボタンは外したの?」
「なっ」
「あとどれくらいかかるのか分からないと、俺も首が疲れちゃうからね。ほら、答えて」
 促されてナマエは混乱する。しかし首が疲れると言われれば答えてしまうのが無垢なナマエの素直すぎる悪い所だ。
「......ボタンはあと一つです」
 そう答えて、最後のボタンを外しにかかるがネックボタンのため一度上手く外れないと、そのまま外れない沼に嵌りナマエは呻く。
「ナマエ?ボタンはとれた?」
「糸が絡まってしまったのか、とれません...」
 そのうちナマエの腕が疲れてきて、ヴィンセントの首の方が疲れていると思い焦るとますますボタンは外せなくなる。
「ナマエ、首が疲れちゃった。手伝ってあげるからそっちを向くよ」
「えっ!」
 声を上げるのと同時に、ヴィンセントは振り向いてナマエの顔を見つめていた。ふっ、と笑うと立ち上がりナマエの身体を後にまわるとボタンに手を掛けた。
「ねえ、ナマエ。ドレスの下は何か着ているの?」
「もちろん下着を」
「じゃあ、問題ないね」
 ナマエが言い切らないうちにヴィンセントはドレスから手を離した。ボタンが外れ押さえを失ったドレスは、そのまま床へと落ち広がる。ナマエは腿の半分辺りまでを隠すキャミソールを着た状態で立ち尽くす。肩に熱いヴィンセントの手が乗り、するすると滑らかな肌を楽しむように指を滑らせた。その動きに擽ったさか、それとも別の何かを感じナマエは身体を震わせる。ヴィンセントは誘われるままに、あの日触れることの出来なかった首筋へ唇を落とし吸い上げた。
「...あっっ」
 ナマエが起こった事に気付き声を上げた時には、もう赤い痕が残されていた。固まるナマエをそのままに、ヴィンセントはベットからシャツを取るとナマエの腕へと通した。ナマエの正面へと移動するとその赤い顔を覗き込んだ。
「どうかした?」
「ど、どうって、いま、何を...!」
「ナマエは俺のものだっていう印だよ」
  シャツのボタン閉め終えると、ヴィンセントはナマエにキスをしてベッドに背中を沈めさせた。見上げてくる愛らしい瞳にヴィンセントは柔らかく微笑み横に潜り込んだ。
「おやすみ」
 ふっ、と蝋燭に息を吹きかけると、火が消え途端に部屋が暗くなる。ヴィンセントはナマエの肩まで丁寧にシーツをかけ、小さな身体を胸に収めた。驚いたのはナマエの方だ。
「ヴィンセント様?」
「どうかした?寒い?」
「いえ、そうではなくて、その...」
 言い淀むナマエにヴィンセントは暗闇の中で笑った。太陽の下ではとても晒すことの出来ないような悪どいものだ。
「もしかして、何か期待してた?」
「してません!」
「ほんとかな?」
「ほんとです!」
 ナマエは自分がはしたないことを考えていたことに気付く。嫁入り前の娘が何を、と。ヴィンセントに背を向ける形で寝返りをうつと膝を抱える。ヴィンセントにもそう思われたかもしれないと思うと涙が浮かんだ。
「ナマエ?」
「......」
 返事をすれば嗚咽が漏れそうで、ナマエは寝たふりをする。しかし物の数秒で眠るわけもなくヴィンセントはナマエの手を握った。
「ごめんね、意地悪しすぎたよ。怒っちゃったかな。ナマエとこうして眠ることが出来ると思うと舞い上がってしまって...ごめんね。離れないで」
 甘えるように首元に擦り寄り許しを乞うヴィンセントに、ナマエは彼も不安を感じているのだと気付く。これから夫婦になるのに隠し事をしてはいけない。ヴィンセントは素直に自分のした事を謝ってきた。それならば自分も違うと伝えなければ。ナマエは再び寝返りをうち、ヴィンセントの頬を両手で包み込む。涙はもう引いていた。
「ヴィンセント様、わたしは怒っていません。ただ、図星をつかれてしまって恥ずかしかったのです。はしたないと、そう思われてしまったのではないかと思うと」
「期待してたってこと?」
  ナマエが怒っていないと分かるなり掌を返し、ヴィンセントは意地悪く笑った。
「ほんと、意地悪」
 ナマエは顔をヴィンセントの胸に埋めた。背に腕が回され、全身を穏やかに包まれる感覚とヴィンセントの香りに身体から力が抜けていく。
「ナマエ?」
「ん、はい...」
「眠くなっちゃったかな?眠ろうか。良い夢を、お姫様」
 ヴィンセントが旋毛に唇を落とすとまじないを掛けられたかのようにナマエは直ぐに眠りについた。ヴィンセントは暫くナマエの髪を撫でるのを繰り返し、ナマエの甘く優しい香りに心が満たされていく。忙しい日々に寝る時間も削られていたため、昼寝もしたはずなのに瞼が重くなる。ナマエといる時間を眠って過ごすなんて勿体無く、朝まで眠る姿を見つめていたいが叶わなさそうだ。ヴィンセントは大人しく瞼を閉じた。暗い瞼の裏にさえ、ナマエの姿は焼き付いている。しかしそれもすぐに霧散し、ヴィンセントの意識は深く沈んでいった。


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