Corona6
 階下から聞こえる声にナマエは眠りから覚めた。兄が大きな声で何かを言っているようだ。外はまだ薄暗い。時折父の声も混ざっていて、そのうち母の声がするとそれから声は聞こえなくなった。何だったのか気になるが連日の花嫁道具支度で身体は疲れ切っており瞼が重く、思考もあやふやなままだ。微睡みが深くなり、再び眠りに就こうとした時、部屋の扉がノックされた。
「!」
 一気に思考は覚醒し、寝返り扉に視線をやると、ナイトドレスを着た母が入ってきた。
「お母様...」
「大きな声を出してごめんなさい。少し話したいことがあるの」
「話したいこと...?」
 こんな朝方に話すからにはきっと重要なことだ。ナマエの身体に嫌な緊張が走る。身体を起こし膝を抱えると、母はベッドに腰掛け口を開いた。
「ナマエは、ヴィンセント様を愛しているわね?」
「はい。ヴィンセント様がいないと、わたしはもう生きていけません」
「例えヴィンセント様が酷い悪だったとしても、それは変わらない?」
「きっとそれには理由があります。揺らぐ事の無い正義を持っている人だから。それで堕ちていくのなら、わたしも共に往きます」
「俺は許さないからな!結婚なんて許さない!」
 急に聞こえた兄の大声にナマエは驚く。扉の前には怒りに顔を顰め肩を上下させるエドガーがいた。力一杯に握り締められた拳が震えている。
「お兄様...?」
 ナマエはこんなにも怒るエドガーを初めて見た。ナマエのことが大切でべたべたに甘やかし可愛がる兄に、怒りの矛先を向けられたことはなかったし、そもそもエドガーが怒るところなど見たことが無かったかもしれない。せいぜいむっとした顔を見たくらいだろう。そのエドガーが全身で怒りを表していて、ナマエは怯える。穏やかな性格の家族と召使いや家庭教師、ヴィンセントを始めとするファントムハイヴ邸の者達。ナマエが人と出逢い過ごした中でこんな怒りに遭遇したのは初めてだった。
「ヴィンセントは、ヴィンセントは...!俺だって...!」
 エドガーは怒りの表情から一転今にも泣きそうな顔をした。頭を抱えるとよろよろ廊下を歩いて行く。そんな兄の姿にナマエは混乱する。
 ここの所、エドガーは様子が変だった。そう思うようになったのはエドガーが21歳の誕生日を迎え成人してからだ。存命でまだまだ元気な父から家督を継ぐのは先の事だが、生業は共に行っていくこととなる。父に付き従い仕事を覚えていく過程でエドガーの表情には影が差すようになり、時折父と揉めているのではと感じることもあった。しかし、男の領分だと母に言われてしまえば問い質す事も出来ず、エドガーと口を聞く機会は無くなっていった。それをヴィンセントに伝えるとヴィンセントも苦い顔をして曖昧に笑うのだ。お前は何も気にしなくていいと。
「お母様、お兄様はいったいどうされたのですか」
「エドガーはね、ナマエが可愛くて大切で大切で仕方が無いのよ。暗闇に飲み込まれるナマエを、どうにかして救わなければと思っている」
「暗闇?何のこと?ヴィンセント様とどう関係があるの?」
「ヴィンセント様だけじゃない。ミョウジ家だって本当は暗闇の中。エドガーはそれを受け入れられない」
「...?」
 直接的な言葉を避ける母の言い方では、ナマエに理解出来ることは何も無い。確かなのはエドガーがヴィンセントとナマエの結婚に明確な反対を示しことだ。最初から乗り気では無かったが何だかんだで許していたはずだったのに、それが結婚を目前にして突然。
 ヴィンセントの誕生日までもう一ヶ月ない。その一週間後に二人は結婚する運びとなっている。リネンを拵えたり、ナマエと母、メイド達は毎日忙しくしていて、エドガーと会話をする機会を作ることもしなかった。それをしていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
「午後にはヴィンセント様が来られるから」
 母は結局確信的な事を話さず、ナマエに不安だけを植え付け去っていった。
「ヴィンセント様...」
 ナマエはベッドの天蓋から吊り下がるカーネーションを見上げる。あの日と変わらぬ姿のままそこにある花は、ヴィンセントとナマエの愛も時が経とうと変わらないことの象徴だ。
 外から小さな雨音が聞こえてくる。すぐに大きくなったその音はナマエの不安を助長させた。
 エドガーはどうしているだろうか。いったい何を思い悩んでいるのかナマエには検討もつかない。
 不幸を運んでくるように雷鳴が近付いてくる。不安に駆られ、ナマエは両手で耳を塞いだ。

 昼過ぎ、ヴィンセントはミョウジ邸を訪れた。雨に濡れた身体を拭こうと近付いたヴィンセントの瞳は翳りを帯びていて、ナマエはその場から動けなくなる。ナマエを視界に捉えると翳りは消え、いつもの笑顔を湛えるがナマエの瞼には焼き付いてしまった。
「ナマエ」
 名前を呼ばれ、慌てて雨に濡れた髪やスーツをタオルで拭いていく。
「ありがとう」
「いえ...」
 背を屈め頬に口付けされるが、触れた唇はいつもと違い冷たい。
「ヴィンセント様、身体が冷えています。今紅茶を」
「雨じゃなくて緊張のせいなんだ」
 ヴィンセントはナマエの手からタオルを奪うとメイドへと渡す。瞳はナマエの肩越しに一点を見詰めていた。
「あ...」
 応接間の入口に寄り掛かるエドガーがいた。ヴィンセントを睨み付けるようなそれにナマエの手もひくりと震える。
「ナマエ。俺は何があってもお前を離さないよ」
 ヴィンセントはそう言うとナマエの手を引き応接間へと向かう。エドガーが中に入るのに続くと、そこには父と母が既にいた。それぞれがソファに腰を下ろす間も、エドガーはヴィンセントに鋭い視線を向けている。
「ヴィンセントくん、すまない。忙しいところに」
「いえ、僕達の今後の事についてですから」
「!」
 ぎゅっ、と手を握られナマエは驚く。ヴィンセントの手が微かに震えていたからだ。何が起きているのか分からない。それでもヴィンセントが二人の未来のために尽くそうとしてくれていることだけは分かり、ナマエも手を握り返す。ヴィンセントは深く深呼吸すると、口を開いた。
「僕はファントムハイヴの裏の仕事についてナマエには一生話さないつもりでした。先代の母だって父には話していなかったそうです。知れば危険に晒されることになるから」
「ナマエが知ってても知らなくても危険なのに変わりねえだろ!」
 ヴィンセントの言葉にエドガーは声を荒らげる。がんっとテーブルを打ち付けた拳をそのままに、より視線を鋭くした。
「確かにそうだ。でも知らない方がまだ危険は低い」
「高い低いは関係ねえ!少しでもナマエが危険に晒されるなら俺は結婚に反対だ!」
「エドガーの意見だって関係ないさ。これは俺とナマエの問題だ。だからナマエに決めてもらおう」
「え...」
 戸惑うナマエの強ばった頬を撫でヴィンセントは笑みを貼り付ける。歪なそれはナマエを不安にさせないようにするどころか、ヴィンセント自身の不安を伝えてきた。
「ナマエ、今から話すことは真実だ。嫌悪する話ばかりかもしれないが聞いてくれ。そして決めてほしい。俺と結婚するのか、しないのか」
 ヴィンセントはそう前置くと、語りだした。
 ファントムハイヴ家には女王から申し付けられた裏の仕事がある。忌むべき行いを暴き、相応の罰を与える。慈悲を掛けることは無く、時に死へ追いやる。それが女王からの命であり、女王の番犬と呼ばれるファントムハイヴの逃げられぬ運命。そしてミョウジはそのファントムハイヴの更なる手足として動いていること。
 ヴィンセントが話終えると部屋は重い沈黙に包まれた。黒い靄が部屋全体に立ち込めているようなそんな感覚に陥る。息が苦しい。全員の視線がナマエに集まっていた。
「すぐに決めなくていい。もし俺と結婚したくなくなっても俺は怒らない。ナマエの気持ちを優先するから」
ヴィンセントはそれだけ言うと両親に頭を下げて立ち上がろうとする。ナマエは繋がったままの手を引いた。
「ヴィンセント様は、わたしの気持ちが変わると思っているんですか」
 ぽろぽろと涙を流しナマエはヴィンセントを見上げる。
「確かにファントムハイヴの仕事は残忍なものかもしれません。しかし、正義でもある。ヴィンセント様のご先祖様たちが築いてきた成果が女王に認められて召し遣ったお仕事を否定なんてしません。けれどヴィンセント様が苦しいとお思いなら、わたしも一緒に苦しみます。例え恨まれ死ぬことになったとしても、共に地獄でもどこへでも堕ちてやります。だから離れないで...」
 所々言葉を詰まらせながらナマエは気持ちを吐き出した。父は満足そうに頷き、母も思わず涙を滲ませる。ヴィンセントは歓喜に打ち震え、ナマエを強く抱き締めた。
「ありがとう、ナマエ。ありがとう」
「ヴィンセント様...!」
 麗しい二人の姿は正に絵画のように美しい。しかし、それもエドガーの瞳には感動的には映らない。
「一時の感情で共に地獄へ堕ちてやるだと?ふざけるな。俺は認めないからな。俺が当主になったらミョウジだってファントムハイヴの配下から抜けてやる」
 エドガーとは思えない去り際の冷たい視線と声に、誰も言葉を発することが出来なかった。溌剌としたナマエの兄に相応しい、ぶっきらぼうながらも面倒みがよく明るい性格のエドガーは、人に隠すような後暗い事が許せないのだろう。自分がそんな生業を持つ家に産まれ後を継ぐのが嫌で、その親玉たるファントムハイヴに愛する妹を嫁がせることも、まるで人質を取られているように感じるのかもしれない。しかしヴィンセントにそんなつもりは到底無い。心からナマエを愛し欲していた。
「あいつの説得は無理だろうな...」
 項垂れる父の肩を母が支える。脈々と受け継がれてきたミョウジの生業が自分の代で途切れてしまう確信に、バーナードは先祖達に顔向け出来ないとごちる。
「説得してみせます。兄から祝福されない花嫁なんてそんなのちっとも幸せじゃない」
 ナマエの髪を優しく撫でるヴィンセントをバーナードは見つめる。やはりファントムハイヴの当主に相応しく、自分が仕えるべき男だと思える。こんなにも出来た男と共に在ることは娘にとって幸福以外の何物でもない。
「ナマエ。俺とお前の結婚は家族も幸せじゃないとダメだ。エドガーと話してくるよ」
 ヴィンセントはナマエの額にキスをして立ち去った。すぐに母が隣へ移動してきて涙をハンカチで拭ってくれる。
「お転婆だったナマエが立派なレディになって、時が経つのは早いわね。あんなに素敵な旦那さんと結婚するんだもの。絶対に幸せにならなくちゃ」
「でもあのお兄様を説得するのは...」
「もちろん、わたしたちも手伝うわ。エドガーもきっとナマエと二人で話せば分かってくれる。ヴィンセント様と一緒にいたいのなら、決して諦めてはダメよ」
 優しく諭されナマエは頷く。二人は学友でルームメイトでもあったし相性はそう悪くないはずだ。きっと分かり合える。そうであって欲しい。
 カジャン、と陶器の割れる音がした。エドガーの部屋の方だ。
「ヴィンセント様...!」
 ナマエは弾かれたようにドレスを抱え走り出す。おかげですぐ着いた部屋ではティーセットが床に散乱し、紅茶も零れていた。
 ソファに二人は座っていて、投げつけたのではなくテーブルの上に
置かれていたのを払い落としたようだ。
「お兄様...」
「......」
 ナマエは奥のソファに座る兄へと歩み寄った。その足元に座ると大きな手を握る。久しぶりに触れる妹の温もりにエドガーは心が静かに落ち着いていく。
「悪い、ヴィンセント。今日はいったん帰ってくれるか」
「ああ...また来るよ」
 ヴィンセントは短く告げると立ち上がる。入口では割れた音を聞きつけたメイドたちが控えているが、それを引き連れてヴィンセントは去って行った。扉が閉まり二人だけの静寂が訪れる。ナマエは手を握ったままエドガーの隣に座った。
「お兄様、こうしてお話するのは随分と久しぶりですね」
「ああ...」
「お父様から色々なお仕事を教わって大変でしょう。毎日お疲れ様です。体調を崩されてはいませんか?」
「大丈夫だ」
「それなら良かった」
 ナマエはエドガーの手をやわやわと握っては緩めてを繰り返した。
「......お兄様がわたしの身を案じて結婚に反対しているのは分かりました。でもわたしは例え死ぬことになるとしても、ヴィンセント様のお傍にいたい。共に死ぬことがわたしの望みなのです。どうか、妹の願いを聞きいれてはくれませんか」
「......ヴィンセントにも言われたよ。妹の望みを尊重してやってもいいんじゃないかって。でも俺には人の命を奪うことは悪だし、死ぬことが幸せだなんて思えない。まして死ぬなんて軽々しく口にして欲しくない」
「っ!」
 エドガーはナマエの肩を強く掴んで顔を見合わせた。しかしその瞳は仄暗く視線が交わっているように感じられない。
「俺はヴィンセントと違ってこの家を継ぐ勇気なんてない。あいつより抱えてるものはずっと小さなものだ。それでも逃げたい。闇の奔流に飲み込まれていくお前をみすみす送り出せない。わかってくれ、ナマエ。この結婚は馬鹿げてる。死ぬために結婚するようなものじゃないか。死にに行く妹を送り出すのは兄じゃない」
「お兄様...」
 闇の奔流に飲まれているのはエドガーのほうだ。もう抗いようのない深い所まで。
 ミョウジの仕事を知り、それを受け入れることが出来ないままに継承は進み、より闇に近いところにいるヴィンセント・ファントムハイヴのもとへ妹は嫁ごうとしている。
 暗い闇があり、そこからは青白い手がいくつも伸びている。その前にはヴィンセントが立ちナマエもそこへ歩いていく。エドガーが手を伸ばしても届かず、足元を波が攫い大きな奔流に飲み込まれる。ヴィンセントの手を取るナマエを水中から眺め、もがけばもがくほど波に飲み込まれ息が苦しくなっていく。そんな縋るものなど何も無いところにエドガーの心は囚われていた。
「とにかくお前達が何度俺を説得したって無駄だ。俺が賛成することは無い。どうしても結婚したいなら勝手にすればいいさ。そうした時、俺とお前達の縁は切れるけどな。裏の仕事はしないし、もしヴィンセントだけが死にお前の行く宛が無くなったとしても、ミョウジの家には入れてやらない。その覚悟があるなら結婚すればいい」
 エドガーはナマエの肩から手を離すと立ち上がり扉を開けた。
「すまない、片付けを頼めるか」
「かしこまりました」
 離れた廊下の角で道具を持ち控えていたメイドが室内に入り片付けを始めた。カチャカチャと高い陶器の擦れる音が響く。
「話は終わりだ。出なさい」
 威圧的な態度で言われナマエは大人しく従った。応接間へ戻り両親の顔を見ると急に視界が歪む。駆け寄ってくる父に抱き締められ、ナマエは幼い子供のように大声で泣いた。
 何故ミョウジに産まれたのか。何故ヴィンセントはファントムハイヴに産まれたのか。もしそうでなかったのならこんなことにはならなかったのではないか。二人がそれぞれの家に産まれたからこそ巡り会うことが出来たのだと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。


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