Corona7
 ヴィンセントの誕生日も結婚予定だった日もとうに過ぎた。エドガーの説得も叶わぬままで、ヴィンセントの仕事が立て込み会えない日々が続く。
 心身共に疲れ果てたナマエは体調を崩しベッドに伏せるようになった。そんなナマエが夜眠りに就いていると悪魔が囁くのだ。
「身体を壊したお前はヴィンセントの子を産むことはもう出来ない。もうお前は用無しだ。ヴィンセントは若い娘を嫁に取り、子を授かればお前のことを忘れる」
 飛び起きて汗だくの身体を抱き締めるも、恐怖と寂しさばかりが募る。そうして夜を繰り返すうちにナマエは自力でベッドから起き上がることも、食事を摂ることもままならなくなった。心配する母がヴィンセントに見舞いに来てもらおうと提案してもナマエは首を振る。
「ヴィンセント様はお忙しいから。それにこんな姿見られたくない」
 すっかり痩せてしまった身体は元気だった頃のナマエを知る者には信じ難いものだ。母は幾度も涙し、父は医者を探し回った。兄はやつれた妹の姿に心を痛める。己がしていることは間違いではないのか、妹を今死に近付かせているのは己ではないのかと。しかし、もう戻れないところまで来ていた。
 エドガーは眠るナマエの枕元に立ち囁く。
「お前にヴィンセントの子はもう産めない。早く忘れて楽になればいい」
 ナマエが眉間に皺を寄せ呻く。辛そうな顔に心が痛むが、それは自分も同じだとエドガーは続ける。
「ヴィンセントも若い女がいいに決まっている。お前と結婚したってすぐに他の女に現を抜かす」
 嘘だ。ヴィンセントはナマエを愛していてナマエしか必要としていない。パーティに赴いても、仕事の話ばかりで若い女になど目もくれない。ナマエが大切にされ幸せになるのは間違いないだろう。しかし突然その幸せは崩れさり、物言わぬ死体へと変わるかもしれない。そんな未来なの可能性があるなら、危険因子を排除しろ。それがナマエのためだ。
 そう正当化することでエドガーは自分を保つようになっていた。
「っ!」
 ナマエが目を覚ます。エドガーはカーテンを開き月明かりを取り入れると、淡く笑んだ。
「大丈夫か。魘されていたぞ」
「お兄様...」
 ナマエは悪夢から解放され、エドガーの顔を見ると安心から涙した。
「悪魔が毎晩囁くのです。身体を壊したからヴィンセント様の子は産めない、ヴィンセント様も若い女を求めている、すぐに子供を作ってお前のことなど忘れると。もう、嫌です。...死んでしまいたい」
「ナマエ、お前が苦しむ必要は無い。ヴィンセントのことを忘れてしまえばいい。そうすれば辛いとも、死にたいとも思わないさ」
「ヴィンセント様を忘れる?そんなの無理です!わたしはもうヴィンセント様がいなければわたしではないし、生きていけないのです!でもこんなわたしでは彼の傍にいることなんて出来ない!こんな...こんな醜い身体で...!」
 ナマエは立ち上がり姿見の前に行こうとするが、力の入らない身体ではそれも叶わず床に落ちる。
「ナマエ!」
「何で立てないの...?何でこんなことになったの...?」
 床に倒れ伏し、乱れた髪の間からナマエはエドガーを見上げた。窪んだ瞳は深い闇を孕んでいて、エドガーは顔を引き攣らせる。生きた死体、そんな表現が正しいものにナマエはなっていた。静かに涙を流しながらナマエは気を失った。瞼が閉じられたことで先程の迫力は消え去り、エドガーは随分と軽くなった体を抱き上げる。ベッドへ寝かし怪我が無いか確認すると、膝や肘に赤くなっていて暫くすれば痣が浮かぶだろう。額にも瘤が出来てしまっている。
「ナマエ、ごめんな」
 エドガーは届かない謝罪をして、シーツを掛けてやると部屋を出た。

 ヴィンセントは退屈なパーティに来ていた。利益のための付き合いだとしても面倒だ。こんなところに来る暇があるならナマエに会いたいし、エドガーの説得をしたい。
 近付いてくる男が視界に入り、溜息は収まらず幾度目かのものを吐き出す。
「こんばんは、ファントムハイヴ卿。娘を紹介させてくれるかい」
 男が身体をずらすと女がいて、そわそわとしている姿に苛立ちが募った。今日はやけに声を掛けられる。ナマエとの結婚が決まってからその手のものはめっきり無くなっていたのに、ここ最近また声を掛けられるようになり、今日は代わる代わる誰かが娘を伴ってやってくる。
「娘も16だ。嫁ぎ先を探すのは早い方がいいと思ってね。社交界に行かせるよりはこちらの方がわたしも安心出来るから連れてきたんだ。ファントムハイヴ卿、いかがかな?」
「僕には婚約者がいますから」
「おや?婚約な破談になったと聞いていたのだが...」
 信じ難い言葉にヴィンセントは眉間に深い皺を刻み絶句する。何とか喉から言葉を絞り出すが、細く掠れたものになった。
「......どういうことです?」
「こちらが聞きたいくらいさ。ファントムハイヴ卿が今日来ると聞いたから、無理言って友人の招待状を譲り受けたのにデマだったのか」
 態度を一転して舌打ちする男にヴィンセントは詰め寄る。
「誰にそんな事を言われたんです?」
「その友人からさ。高い金払わされて損したよ」
「いくらだったんです。後日届けますから、そのご友人の名と所在をお聞き出来ますか」
 ヴィンセントが万年筆を差し出すと、放たれた殺気に男の背筋が粟立つ。招待状の裏に友人の名と家の場所、同じように自分のものも書くと二つをヴィンセントへと渡した。
「ありがとうございます」
 にこり、と笑って立ち去るヴィンセントの背を、男は恐ろしいものを見る瞳で送る。
「ファントムハイヴ卿...とてもお美しい殿方ですね」
「あいつはダメだ。人殺しの瞳をしてる」
「え?」
 うっとりとヴィンセントを見つめていた娘に告げると男は帰るぞ、と会場を後にした。
 ヴィンセントは今日声を掛けてきた父娘達を探す。やはり皆ヴィンセントは婚約解消したと聞いていたらしい。中には同じように招待状を買った者もいて、それは同じ男からだった。ヴィンセントは先程男に書かせた名前を睨み付ける。デマを流していったい何のつもりで、そいつに何の得があるのか。一番大切なのはそいつが俺たちの婚約が上手くいってないことを知っていて流したのか、知らずに流したのかだ。
 パーティ主催者に挨拶を済ませるとヴィンセントは会場を後にし、走り出した馬車の中でやるべき仕事を順序立てていく。明日は無理だが明後日にはどこかで時間が作れそうだ。

 二日後、ヴィンセントは招待状を譲ったという男の家を訪ねた。応接間に通されると、主人は血相を変えすぐやってくるなり床に頭を擦り付けた。
「ファントムハイヴ卿、申し訳ありません!どうかお許しを!」
 ゆったりとりと組んだ脚の爪先を揺らしながら、ヴィンセントは努めて穏やかな声を発した。
「謝罪は求めていないよ。何故こんなことをしたか教えてくれるかい。大丈夫、悪いようにはしないよ」
 言葉は甘いが含まれた殺気はちっとも可愛くない。男はすぐに吐いた。
「頼まれたんです。エドガー・ミョウジ様に」
 ヴィンセントは瞳を見開き、言葉を失った。
「妹を悪魔から守るために協力してくれと、金を渡されました。言われた通り招待状を歳若い娘のいる貴族の父親に渡し、金儲けになると気付いてからは売るように...!申し訳ありません、申し訳ありません!どうか、家は...家族だけは...!」
 ヴィンセントは咽び泣く男を絶対零度の鋭い視線で見下ろす。
「罰は与えないさ。ただ、ばら蒔いた嘘は回収してもらわないといけないな。招待状を渡した相手は覚えているだろう、嘘だったと伝えてこい。それで無かったことにしよう」
 ヴィンセントは立ち上がるとそのまま邸を出て、馬車に乗り込む。
「エドガー...!」
 やることが汚すぎると悪態を吐けば、手を汚しているお前には言われたくない、とエドガーの声が聞こえた気がした。
 ヴィンセントは急ぎミョウジ邸を訪れた。ベルを鳴らし、扉が開くとメイドを押しのけて中へと入る。
「エドガー!どこだ!」
「ヴィンセント様!落ち着いてください!」
 ヴィンセントとメイドの荒い声を聞き付け主人が駆け付ける。
「煩いぞ!何事だ!」
「義父上、申し訳ありません。エドガーに話があって参りました。奴はどこです」
「いったいどうしたんだ、君がそんなに声を荒らげて...」
 普段穏やかなヴィンセントから放たれる怒気にバーナードは驚きを隠せない。
「ヴィンセント、人の家で騒ぎ立てるな」
 エドガーが靴音を鳴らしながら階段を降りてくる。鼻につく表情に苛立ち、そのままの勢いでヴィンセントはエドガーを殴りつけた。
「ぐっ!」
「ヴィンセント!」
 階段に崩れ落ちたエドガーを庇うようにバーナードが立ち、ヴィンセントの肩を掴む。
「義父上、お許しください。しかし我慢なりません」
「君が理由無くこんなことするとは思っていない!愚息が悪いのも分かっている!だがどうか拳を収めてくれ!ナマエが起きてしまう...!」
 バーナードの言葉にヴィンセントは顔を顰める。今は昼も過ぎ、ティータイムの時間に差し掛かっていた。ナマエが楽しみにしているその時間に寝ているのはおかしい。
「体調でも悪いのですか?それなら顔を見に行かないと」
「ダメよ」
 今度は母がカツカツとヒールの音が響かせ階段を降りてくる。
「ナマエがあなたには会いたくないと言ってるの」
「そんな...!どういうことですか!?」
「はっ、愛想尽かされたんだろ」
 下卑た笑みで言われ、ヴィンセントが再び拳を握った時、バーナードがエドガーを殴った。両頬を赤くしてエドガーは茫然としている。
「ナマエがあんな風になったのはお前のせいだ...!」
 エドガーに馬乗りになり、拳を振り上げるバーナードをヴィンセントは慌てて後ろから抑え込む。
「義父上!おやめください!」
 自分よりも激しく怒る者の存在にヴィンセントの怒りは落ち着き、ナマエへの心配が大きくなる。
 バーナードは来なさいと、告げ応接間へ向かう。母の手を借り立ち上がったエドガーを見下ろし、ヴィンセントはバーナードに付いて行った。以前と同じ場所にナマエ以外が座る。膝に肘を乗せ、頭を抱えたままバーナードは口を開いた。
「ヴィンセント、取り乱してすまない。愚息を殴り殺すところだったよ。とめてくれてありがとう」
「いえ...」
 ヴィンセントはエドガーへ視線をやる。両頬が腫れ上がり、見るのも嫌になるが伝えておこうと思った。
「俺は謝らないからな。お前はそれだけの仕打ちをした」
「それが理由で来たんだろ。ヴィンセント、話してくれるか」
バーナードに頷きを返しヴィンセントはゆっくりと口を開いた。
「......先日、招待されたパーティに行きました。娘を嫁にどうかと次々に声を掛けられ、聞けば俺達が婚約を解消したと噂が流されていた。その出処はエドガーです」
 両親は驚きに瞳を剥き、エドガーは舌打ちし顔を逸らす。訪れた静寂を破ったのはか細い声だった。
「どういうこと...?」
「...ナマエ...?」
 驚きに掠れた声がヴィンセントの口から漏れる。部屋の入口にはメイド二人に抱えられたナマエがいた。顔は青白く、唇の色も悪い。頬は痩け、身体は薄く、膝丈の夜着から出た脚は抱えられ立つのがやっとと分かるくらい細くなっている。艶々とした髪だけが以前から変わらず美しいまま残っていた。
「ねえ、どういうこと...?」
 メイドの手を離れ、ナマエが脚を踏み出すがすぐに傾く。どうにか抱き寄せた身体は驚く程に軽く冷たいものになっていた。
「お兄様...ねえ...」
 何の表情も無いままナマエは次々に涙を溢れさせる。ヴィンセントが支えていなければ倒れてしまうのに、それにも気付いていないのか前へ進み、エドガーに掴みかかろうと腕を伸ばす。
「そんなに...、わたしのことが嫌いなの...?」
「そんな訳ないだろう!愛してるから守ろうとしているんだ!だから、」
 エドガーは言葉を紡ぐが、ナマエの怒鳴り声に口を閉ざす。ナマエはこの力ない身体のどこから発しているのか不思議なほどに大きな声を出した。
「嘘よ!それなら何故あんなこと言ったの!悪魔の正体はお兄様だってわたし知ってるのよ!夢の中、語りかけてくる悪魔の声はお兄様のものだった!」
 吐き出したことで落ち着いたのか、ナマエは動くことをやめる。ヴィンセントはその身体を抱き上げると、ソファに座った己の膝の上に乗せ後ろから強く抱き締めた。ナマエも青白く細い指でヴィンセントの腕へと触れる。
「ナマエ、悪魔って何のことなの?」
 気が触れたのかと、母は心配するがナマエはそれを振り払うようにはっきりとした口調で言う。
「毎夜現れては囁くの。身体を壊したお前はもう子供は作れない。ヴィンセント様もそれを知ればすぐにお前を捨て若く美しい妻を娶る。そして愛し合い世継ぎをつくり、お前のことを忘れるって」
 話しながら震えるナマエのヴィンセントは頬擦りし、冷えた手をぎゅっと握る。そんなのあるわけがないと、この行動から伝わって欲しいと。
「それがエドガーの声だったのか」
バーナードの問にナマエは深く頷いた。
「昨夜寝付けないでいると部屋にお兄様が入ってきました。悪魔と同じ声で同じ事を言って、それから部屋を出て行った」
 ナマエは瞳に涙をいっぱい溜めエドガーを睨み付ける。決壊した雫が頬を滑ってはヴィンセントの手を濡らしていく。
「あんなこと恨みがある相手にしか言えないわ。わたしはもうお兄様の事なんか嫌い、大嫌いよ...!」
 涙するナマエにエドガーは弁明の言葉を並べ立てる。
「違う。ナマエ、俺はお前を愛している。恨んでいないし、嫌いだなんて思ったこと一度も無い。本当だ、お前を愛している」
「何度だって言うわ。わたしはお兄様なんて大嫌いよ」
 エドガーから表情が一瞬消えさる。しかし次の瞬間にはヴィンセントを鬼の形相で睨みつけ汚い言葉で罵った。
「悪魔め!お前がナマエを誑かすから...!父上も母上も上手く丸め込んで!殺してやる!」
 勢いよく立ち上がったエドガーをメイドに呼ばれ駆け付けた守衛達が取り押さえる。
「地下に放り込んでおけ」
 バーナードは低く唸り、エドガーの煩く騒ぎ立てる声が遠くなるとヴィンセントに頭を下げた。
「愚息が本当に申し訳ない。どれだけ気分を害させてしまったか...」
「義父上、おやめください!僕はいいのです。今はナマエの方が大事だ」
 ヴィンセントはそう言うと、ナマエの身体を横向きに変えさせた。軽い身体はヴィンセントにされるまま動き、力無く胸に寄りかかる。見上げてくる頬を両手で包み額を合わせた。
「ナマエ、すまない。もっと早く会いに来るべきだった...」
「わたしはこの姿を貴方に見られたくなくて、あなたが訪れない事を願っていました。そうして身体が治った時、何事も無かったように貴方と接しようと決めていたのです。しかし、それももう叶いません。悪魔の囁きは本当になってしまったんです」
「...ナマエ?」
 ヴィンセントは引き攣らせる。向かいのソファに座る両親も次の言葉を息を飲んで待った。
「もう月の物は来なくなってしまいました。身体も言うことを聞きません。...きっとわたしは、もう子を授かることが出来ません」
「そんなの...!」
「関係ないとは言わせません。あなたはヴィンセント・ファントムハイヴ伯爵。大切な役目を持つ方です。代々受け継いできた使命と誇りを貴方の代で絶やしてはなりません。どうか、最後の願いとして聞き入れてください」
「...嫌だ...!」
「どうか、わたしとの婚約を破棄し、貴方の子を産める女性と結婚してください」
「嫌だ!」
 ヴィンセントはそれ以上言わせないとナマエの唇を塞ぎ泣きながら懇願した。
「頼むからそんなこと言わないでくれ...!俺にはお前しかいないんだ...!」
「ヴィンセント様...ごめんなさい...」
  ナマエはそれだけ言うと気を失った。ぐったりと腕の中で動かなくなった身体にヴィンセントは動揺する。
「ナマエ...?ナマエ!」
「ヴィンセント、落ち着きなさい」
 バーナードの声にヴィンセントは泣き濡らした顔を向けた。あのヴィンセントがここまで取り乱している事にバーナードは驚く。
「久しぶりに歩いたから疲れただけだろう。ベッドに運んでくれるか」
 ヴィンセントは頷いた。一度強く抱き締め頬にキスを落としてから立ち上がると、ナマエの部屋へ向い歩き出す。
 その背を見送る二人は同時に重い溜息を吐き出した。
「どうしてこんなことに...」
 バーナードの言葉は空気に溶けてすぐに消える。ただ愛する子供達が幸せになることだけを祈り育ててきたはずなのに、もう取り返しのつかないところまで来てしまっていた。
 エドガーの気持ちが同じ葛藤を抱いたバーナードにはよく分かった。だからこそ咎められず、ナマエがああなるまで息子を殴れなかった。ミョウジよりも深い業を持つファントムハイヴは確かに危険だろう。しかしナマエが愛する者と共にいられるのであればと、親には送り出すことが出来た。しかし妹を死地に送るような気持ちの兄にはそれが出来なかった。そして妹もまた、意志を曲げることは出来ないだろう。身を裂く想いで愛する者との決別を選んだのだ。



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