Corona8
 ナマエが瞳を覚ますと、外から鳥の囀りが聞こえた。身体がいつも以上に重く、少しも動くことが出来ない。ナマエが動揺していると、隣で何かが動いた。
「!」
 首を動かすと、ヴィンセントが綺麗な顔で眠っていた。ナマエの身体に腕を回していて、そのせいで身体が重く動かないのだと気付く。応接間で話していたことは覚えているがその後の記憶が無い。恐らく気を失い、今まで眠ってしまっていたのだろう。
 ヴィンセントが付き添ってくれた嬉しさよりも、申し訳なさが勝りナマエは歯噛みする。
 昨日話したのはナマエの本当の気持ちだった。ナマエの最善はヴィンセントにとってのもので、そこにナマエの欲が存在してはならないのだから。
「ん...、ナマエ、起きた?辛くない?」
 やがてヴィンセントも瞳を覚ましナマエを気遣う。その優しさにナマエは涙を滲ませた。
「ナマエ!どこか痛むのか?身体がダルい?」
 ナマエは首を振り、嗚咽を喉の奥に押し込んだ。噛んだ唇にヴィンセントの指が触れる。
「昨日は嫌だ、って言ってこめん。でも話して欲しい。ナマエの言葉を全部聞きたい」
「ヴィンセントさまぁ」
 涙するナマエをヴィンセントは力強く抱き締めた。薄い身体が熱を求めヴィンセントへと擦り寄る。
「どうかわたしのことを嫌いになってください。お願いです」
「そんなこと無理だ、わかっているだろう。ナマエがファントムハイヴの仕事を知っても俺を受け入れてくれたのと同じだ。俺はどんなナマエでも受け入れ愛する。子が出来なくたっていいじゃないか。これから先の長い人生をナマエと過ごせれば俺は幸せだ。それにナマエを離してしまえば、きっと毎日夢で剣を持った母上に追い回される」
 ヴィンセントの冗談にナマエは笑い声を漏らす。あのクローディアならやりかねない、と。やっと笑ってくれたことにヴィンセントは安堵し、顔を覗き込む。しかしそこにもう笑顔は無く、昨日も見た真剣な顔があった。話そうと開かれるナマエの唇をヴィンセント無意識に塞ぐ。全て聞くと言ったはずなのに、聞きたくない言葉を吐き出すのが直感的に分かってしまったから。押し返そうとする腕の力も弱く、ナマエはされるがままに続かなくなった息を苦しがる。唾液に濡れた唇を舐め、ヴィンセントは名前の血色が戻った頬にも舌を這わせる。涙が伝ったそこは少ししょっぱい。
「ふっ、ん...、き、いて...ヴィンセント様...」
 どうにか動かした手をヴィンセントの唇に当て、ナマエは息継ぎの合間に話す。必死な姿にヴィンセントは耳を傾けるしかなくなった。
「ヴィンセント様、わたしは療養のため別邸に行きます。少し離れて、お互いに考えましょう」
「......距離を置いても、時間が経っても俺の気持ちは変わらない。お前を離すつもりはない。離れないと、離さないでと言ったのはお前だ」
「...申し訳ありません。申し訳ありません、ヴィンセント様...」
 ナマエは泣き笑いの表情を浮かべる。そんな顔をされてヴィンセントは何も言えなくなった。それでも離さないと、今にも消えてしまいそうな骨と皮だけの身体を強く強く抱き締める。
「そんなに抱き締められたら苦しいですよ、ヴィンセント様」
「...俺だって苦しいさ。ナマエと離れるなんて身を引き裂かれるのと同じだ。お前がいないなら全てどうだっていい。...このままお前を攫って、二人どこかへ逃げてしまいたい」
「...ヴィンセント様、それは...」
「分かっているさ。お前はそれをよしとしないのだろう?それなら傍にいてくれ。子なんていらないさ。お前だけでいいんだ、ナマエだけで...」
 肩口に擦り寄るヴィンセントにナマエは何も言わない。ただ切ない表情を湛え天井見つめていた。
 やがてメイドが二人を起こしに来た。ヴィンセントは朝食を断ると、ナマエの頬に唇を落とす。仕事があるから帰らなければならないのに、離れ難くて何度も何度も唇を触れさせ、最後に抱き締めると部屋を出て行った。馬車の走り去る音をベッドの上で聞きながら、ナマエは狂い始めた日からのこと全が夢ならばと願った。
 ナマエが別邸へと移ったのは二日後のことだった。

 ミョウジの別邸はスコットランドでは少ない麦生産地の中にあった。その一帯をミョウジが治めていて、夏になると美しい麦畑を見に訪れるようだ。丁度今は夏の収穫前で、金の絨毯が見渡す限り続いている。
 ヴィンセントは胸の奥に重く垂れ込む黒い靄を抱えていた。女王からの命が下ったために時間を取ることが出来ず、あの日ナマエと別れてから会うことが出来ていなかった。やっとナマエに会いに行けると安堵しながら事の顛末を女王に報告に行った時、爆弾は落とされた。
「ところでファントムハイヴ伯爵。予定より結婚が遅れているようだけれど、いつ子供の顔を見せてくれるのかしら。破談になった、なんて話も聞いたけれど...」
 どこからその情報を得たのだろうか。ヴィンセントは笑いながら話す女王に言葉を返すことが出来ない。
「わたしから紹介することも出来るわ。必要なら声を掛けてちょうだいね」
「...お気遣い感謝致します」
 ヴィンセントは女王の言葉に隠された真意を理解していた。ナマエと早く縁を切り、別の女と子を成せと暗に伝えてきたのだ。これはじきに命令へと変わるだろう。ふとした瞬間その言葉が蘇りヴィンセントを苦しめる。ファントムハイヴの血が怨めしく、本当にこのままナマエを連れて逃げてしまおうかとヴィンセントは考える。しかしそれではナマエは笑ってくれないのだ。
 どうして互いに愛しているのに傍にいることが許されないのか。外野は黙っていればいいんだ。
 ヴィンセントは何度も脚を組み替えては同じ悪態を吐き続けた。
 共に別邸に来たメイドと守衛の四人に出迎えられ、ヴィンセントはナマエの部屋へと案内された。本邸と比べると小さい部屋の簡易的なベッドでナマエは静かに眠っていた。顔色は悪いが唇の血色は良くなっているようで、ヴィンセントはほっと息を吐く。以前は触れると柔らかく弾力があった頬は薄い皮膚の下にすぐ骨や歯の硬さを感じる。布団から腕を取り袖を捲ってみると、骨張り血管が浮くのに胸が痛んだ。
 エドガーの反対なんて押し切って結婚しておけばよかったと、ヴィンセントはよく思うようになった。あの時は皆から祝福される花嫁にしてやりたいと、エドガーを説得することを選んだ。しかし説得は上手くいかず、今の問題はエドガーに結婚を許してもらえないことではなく、ナマエが体調を崩してしまったこと。そして子が出来なくなったことを気に病み、他の女と結婚しろと言ってきた事だ。子は出来なくていいと言ってもナマエは折れず、ついぞ女王から子供を早く見せろと脅迫めいた言葉まで賜った。どうすればいい、と泣き喚きたい気持ちを溜息に変換すると、触れていた腕が動いた。
「ヴィンセント様...いらっしゃっていたのですね。ありがとうございます」
 痩せ細り以前の溌剌とした姿が霞んでしまっても変わらない美しい笑みに、ヴィンセントはやはりナマエが好きだと、愛し愛されたいと願うのはナマエしかいないと思う。
「ああ。気分はどうだい」
「やはり静かなところだからでしょうか。だいぶ楽になりました」
 ナマエはそう言うと一人で身体を起こした。確かに体調は良くなっているようだ。
「それよりヴィンセント様は深い溜息を吐かれてどうされたのですか?」
「あ、いや...」
  ヴィンセントが言葉を濁すとナマエはむっとする。
「何ですか、話してください。わたしには全て話せと言っておいてご自分はお話にならないつもりですか」
「いや、そういう訳ではないんだけれど...あまりナマエには話したくないんだ」
「そうはっきり言われると辛いですね..」
 そう言ってナマエはへらりと無理をして笑った。
 ヴィンセントはナマエの笑顔が大好きだ。春の陽射しのように麗しく、見たものまで笑顔にさせるナマエが大好きだ。それなのにヴィンセントはもうナマエを笑顔にすることは出来ない。今ナマエの言う通り、他の女を娶りナマエの前から姿を消せばナマエは楽になるだろうか。体調が回復し、またミョウジの家で元気に走り回り、笑えるようになるだろうか。ナマエを苦しみから解放出来るのだろうか。
 ヴィンセントはナマエの手を握ると、悲痛に顔を歪めながら口を開いた。
「...女王から他の女を娶り、子を成せと言われた」
「!」
 ナマエは一瞬顔を歪めた後で、やはりへらりと笑って見せた。
「自分で言ったときはそうでもなかったけれど、やはり聞くと辛いものですね」
「ナマエ、俺にそんな気はない」
「ヴィンセント様。貴方が一番分かっているでしょう。女王様の言葉を無下にすることがどういうことか。......わたしたちはもう、一緒にいることは許されません」
 ナマエの強い意志の篭った瞳と言葉にヴィンセントは涙した。もう抗うことは許されない。受け入れたくなかった女王の命令は絶対という真実を、ナマエは鋭い刃に変えてヴィンセントの心臓へと突き刺した。
 嫌だ、捨てないでと言って欲しかった。女王の命令も家も関係ないと、攫って逃げてくれと、そう縋って欲しかった。
「ヴィンセント様。どうか、お幸せに」
 眩しいものを見るようにナマエは瞳を細めた。ヴィンセントの涙を細い指先で拭うと、頬に口付ける。ナマエから触れてくることは初めてで嬉しいはずなのに、こんなにも切なく胸が痛い。最後だと、そう言われているようで。
「ナマエ...」
 震える声で名を呼ぶと、ナマエは緩く首を振った。
「ご成婚がお決まりになるまで、ここに来てはなりませんよ」
「ナマエ、頼むから会わないなんて言わないでくれ」
「結婚の話を進めている殿方が他の女と会っていることを知れば、奥方もそのご家族もお許しにはなりません。ご成婚が決まった時と挙式の時、会えるのは二回だけ。それが、最後です」
 ナマエは何でもないことのように、微笑みを湛えたままで話す。辛いのは自分だけなのか、愛していたのは自分だけなのかとヴィンセントは顔を歪める。
「ナマエ、俺はお前を愛している。お前は違うのか?」
「勿論わたしはあなたを愛しています。それはこれからも変わることはありません。でもあなたは変わらなくてはならない。わたしではなく、妻となる女性と子供を愛する。それがファントムハイヴに産まれた貴方の宿命です」
 ナマエはあえて強い言葉を選んだ。
 嫌いになることも、忘れることも到底出来ない。だからせめて、会えない遠くへ。醜く縋り付き、貴方に失望される前に。
「さあ、もうお帰りになってください」
 その後、ヴィンセントの記憶は飛んだ。気付いた時にはパーティ会場にいて、目の前には喜ぶ男とその傍らで微笑む娘らしい女がいた。


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