運命1
 名前と初めて出逢った日、降谷は確かに脳髄を揺さぶられる衝撃を受けた。運命の番だと本能的に感じ取ったのに、彼女はβで降谷に対し何の衝撃も受けていない様子だった。降谷もそれ以降は彼女を運命の番だと感じるようなことは無かったけれど、あの日の衝撃が忘れられずにいた。そして名前の暖かな心に触れるうちに運命の相手として想いを募らせていった。だから運命の番でなくても、運命の相手として傍にいられれば幸せだと心から思えた。
 組織壊滅を成し遂げ、降谷が潜入を終えると二人は同棲を始めた。付き合って既に三年が経過していた。ふとした時に思い出しはするものの、不安や恐怖は段々と薄れ、今までとは比べ物にならないほど多くの時間を共にし幸せな日々を送っていた。

 信頼出来る協力者が営む定食屋で昼食を済ませ、二人と風見は連れ立って歩いていた。ふと降谷が脚を止め、向かいから歩いて来た女も同じように脚を止めた。
 降谷の脳内に煩い心臓の音が響き渡り、鋭くも甘い衝撃が全身を駆け抜ける。名前と出逢った時よりも遥かに強い衝撃に戸惑いつつ、瞳の前の運命の番と呼ぶべき女を降谷は一心に見つめた。
 無意識に伸ばした腕が女の肩に触れようとした時、風見が大きく名を呼んだ。はっとして振り返った先では怒ったような、焦ったような顔をした風見と、その腕にしがみつく名前がいた。
「...名前...」
 身体を巡っていた甘やかな衝撃は霧散し、冷水を浴びせられたように身体が急速に冷えていく。
 やはり俺は名前を裏切ってしまった。せめて見られていなければ無かったことに出来たのに、なんて汚い考えが頭を過った。
「だから、言ったじゃん」
 震える名前の声に降谷の視界は端から黒に侵食される。走り去る名前の背中をどうにか追い掛けるが距離は縮まらない。
「名前、名前!」
 呼び掛けても名前は止まらず遠退いていく。名前の心が離れていく様子を突き付けられているようだった。
 無我夢中で走り気が付いた時、名前はどこかも分からない路地裏にいた。ビルの壁とフェンスの境目に身を捩じ込んで座り込むと、全身の力を抜く。嗚咽は漏れず、瞬く度涙だけが頬を滑り降ちた。
 だから言ったじゃん。
 何度もそう心の中で繰り返す。
 瞳の前で見つめ合う二人の時は止まっているようだった。正しく二人だけの世界。絶望に脚元をぐらつかせながら、運命の瞬間に浸る二人を眺めるしかできなかった。
 恋人が番と巡り逢う瞬間に立ち会うなんてとんだ運命だ。だから言った。運命の相手じゃない。運命なんか信じないって。相手が好きだから信じたい?運命の番にはなれなくても、運命の相手にはなれる?信じる者は救われる?とんだお笑い種だ。
「名前!」
 大きな声に驚いて身体が跳ねると、フェンスが煩く音を立てた。路地に降谷が入ってくるのを感じて、名前はフェンスを攀じ登ろうとするが後ろから抱き込まれる。
「名前っ」
「離して!」
 思いっきり身を捩れば、いつもはびくともしない身体があっさりと離れた。綺麗な顔が歪み、言葉を探して視線を彷徨わせるのが酷く苛立つ。
「何で来たの。はっきりと別れでも告げに?自分を惨めで可哀想だと思いたくないって言ったのに」
「違う。別れるつもりなんか無い」
「...何馬鹿なこと言ってるの?約束と違う。番が現れた時、別れるって言ったじゃん!瞳の前で番と出逢う運命の瞬間まで見せ付けといて、まだ私を苦しめるの!?」
 降谷はまるで自分が自分では無いように思う。思考が鈍く、言葉が見つからない。唯一動く伸ばした腕は名前にすぐ振り払われる。
「運命の相手とか、そんなのやっぱり違った。番の関係に勝るものなんて無いのが分かったでしょ」
 名前はぐちゃぐちゃの頭に浮かぶ言葉を怒りのままに吐き続ける。
 二人だけの世界で見つめ合うあの光景が頭から離れない。
 割り切ったつもりでいたのに、そんなのはやはり無理だった。愛する想いは簡単に書き換えられない。別れを告げられるのが嫌で、自分から背を向ける精一杯の強がり。惨めで可哀想なことには変わりない。
「わたしは運命の相手なんかじゃない...」
 熱い涙が零れる。息が苦しい。頭も胸も痛い。消えてなくなりたい。楽になりたい。
 滲む視界で名前が足を踏み出すと、獣の唸りのような低い声が静かな路地に響いた。
「ふざけるな」
 腕を引かれ、壁に押し付けられる。痛んだ背中に怯めば、強引に唇が重ねられた。
「ん、っっぅ、はなっ...、んんっ」
 身を捩っても、胸を強く押しても身体は離れていかない。話そうとした瞬間に入り込んだ舌で何かが押し込まれ、唾液を飲み下すのと一緒に胃に落ちた。瞬時に効力を発した薬のせいで力が入らなくなる。支えられながらも名前は降谷を睨みつけるがすぐに意識を失った。降谷は愛しい存在をしっかりと抱き締め、額に口付けた。
「お前は俺の運命だ。離してなんかやらないさ」

 名前が瞳を覚ました時、同棲しているマンションの寝室のベッドに横になっていた。寝すぎのためか身体は酷く重い。身に付けた男性用のシャツからは降谷の匂いがした。
 廊下へと繋がるドアは外から鍵が掛けられているようで開かない。窓に細工はされていないが七階から飛び降りるなんて不可能だ。そうなれば鍵をどうにかするしかないが、無駄に体力を使う気にもならなくて、ベッドに戻り瞳を閉じる。
 浮かぶのは見つめ合う男女の姿。
 あれから何日経ったのか、寝すぎの身体では判断が付かない。時計も無い部屋は静寂に包まれていて、まるで隔離施設に入れられているような気分だ。
 降谷は何を考えているのだろうか。
 寝すぎのはずなのに、眠気がまた襲ってくる。陽射しに温められた空気の心地良さに名前は浮遊感を感じ意識を手放した。
「名前」
 酷く優しい声が耳を擽る。前髪を往復する手が頬に触れると、名前はやっと重い瞼を開くことができた。
「おはよう」
 穏やかに笑う降谷に見下ろされ、名前は身体を起こそうとするが上手く力が入らない。抱き起こされ、そのまま降谷の胸に寄り掛かると後ろから包み込まれる。
「なん、で?」
「名前。これからは俺の帰りをここで待っていてくれ」
「...降谷さん」
「名前、愛してる」
「降谷さん」
 会話をしようとしない降谷は名前の頬に口付けを繰り返す。
「降谷さん」
「......」
「ねえ、ここから出して」
「......何故?出る必要は無いだろ?」
「何故って、こんなの監禁だよ」
「同棲だろ?それに言ったはずだ。お前が望んだって、もう離れてやらないと」
 何か言わなければと思考を巡らせるが動きが鈍い。このままでは降谷はただの犯罪者だ。とにかく、せめてこの腕から逃れなければ。そう思うのに、身を捩ろうとしても身体は言うことを聞かない。
「また何か飲ませたの」
「どうして?何も飲ませてないよ」
「嘘。だってこんなに身体が怠い」
「...確かに少し熱があるかもしれない。とにかく寝ようか。それとももう眠くない?」
「...眠たい。また、凄く...眠たい...」
「名前?」
 降谷が名を呼ぶ一瞬の間に、名前は昏倒するように眠りに就いた。降谷の心を不安が過ぎる。
 名前はあの日から三日近く眠り続けていた。 名前に飲ませた薬は即効性のただの眠り薬だった。普通はこんなに眠り続けるはずがないし、一度起きれば薬の効力は切れている。呼び掛けても起きなかった名前が眠そうにしながらも、やっと起きたことに酷く安堵した。それなのに傾眠傾向が強く五分と経たず再び眠りに就くのは、異状としか言いようがない。普段より暖かな身体に布団を掛け、降谷は鍵を掛けずに部屋を出た。
 その夜、名前は四十度近い熱を出した。魘されるでもなく静かに眠り続け、赤い顔で汗をかき、呼び掛けても反応しない。このまま名前が死んでしまうのではないかと、恐怖に苛まれ降谷は病院へ駆け込んだ。そこで医師から伝えられた言葉に降谷は驚愕し、それを上回る歓喜に打ち震えた。
 名前はそのまま入院し、翌日には降谷が名前の退職手続きを行い、自身の休暇届も提出した。眠る名前の枕元に着用した服を毎日積み上げ、退院していいと医師に告げられると退院後一週間分の食料を買い込んだ。
 入院して丁度一週間。名前を迎えに病院を訪れると、深部で隔離されているはずなのに、昨日までしなかった甘い香りがそこかしこに漂っていた。深く吸い込みそれで肺を満たすと、思わず熱い吐息を吐いてしまう。向かった病室は目眩がするほどに濃い香りが充満していた。本能が暴れそうになるのを理性で押さえつけ、降谷はベッドの上に散らばった己の服を掻き分けて名前を引っ張り上げる。
「はっ...はぁっ...ん、れい...っ」
 蕩けた瞳で見上げられ降谷は全身に焔が燃え広がるような熱さを感じる。腰がぞくぞくと震え今にも射精してしまいそうだった。
 名前と初めて出逢った時よりも、道端であの女に会った時よりも、もっとずっと激しい衝撃に酔いしれる。運命の相手、運命の番。二つが重なった運命の瞬間。
 伸ばされた腕を首へと回し、項にかかる髪を避ける。真っ白な項から立ち上る、これからは降谷だけを魅了することになる芳しい香りに導かれるまま歯を突き立てた。
「あっ...っ!」
「っ、ん...」
 二人の心臓が呼応した。これからの時を共に刻む互いの鼓動が耳の奥で聞こえる。一生消えることの無い証を舐めて、降谷は身体を離す。幾分か落ち着いた様子の名前の頬を優しく撫でてキスを贈ると夢中で舌が絡められる。名前に求められる喜びに降谷は思わず涙した。
 最初は医者の話が信じられなかったが、こうして名前を前にして真実であったことが堪らなく嬉しい。

 苗字名前は降谷零の運命の番たるΩとなった。


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