Corona10
 ナマエの遺体は別邸の裏山で見つかった。深く積もった雪に残る小さな靴跡を不審に思った山の所有者が、その先で身体の大半を雪に埋めたナマエを掘り起こした。ウエディングドレスを彷彿とさせる純白のナイトドレスだけを身に纏った身体は冷たく、呼吸も心拍も無かった。名前の手に握られた赤いカーネーションが白い世界の中で唯一の色だった。
 遺体はすぐに別邸へと運び込まれ、近くで仕事をした後、雪で足止めされていたエドガーが一番に駆けつけた。触れた手は氷のように冷たく、ナマエの死をこれでもかと突きつけてくる。別邸に仕えていたメイドと守衛は、嗚咽を漏らし床に額を擦り付け謝るがエドガーには届かない。赤いカーネーションの意味をエドガーは知っていた。
「ナマエを殺したのは俺だ...!」
 エドガーは狂ったように叫びだし、ソファを蹴り、机を薙ぎ払い棚を引き倒した。守衛が止めようとしても、泣きながら暴れ手が付けられない。死亡確認を行っていた医師が薬液を染み込ませた布をエドガーの口元に当てると、その身体はがくりと力を無くした。

 春を迎え、ヴィンセントはレイチェルと式を上げた。レイチェルは美しく穏やかな女性だった。レイチェルはヴィンセントが自分を愛していないことを知っていた。ヴィンセントが婚約の話を進める中で伝えたからだ。
「俺には愛してやまない女性がいる。彼女以外を愛することはきっとないだろう。それでも君は俺と結婚するかい?儀式的に愛を誓い、ファントムハイヴの家の為に子供を産めるかい?」
 今から娶ろうとする女に言う言葉では無かった。それでもヴィンセントが真実を伝えてくれたことにレイチェルは感謝した。
「それでも貴方はわたしに優しく接してくれました。身体が弱いからと嫁ぎ先の決まらなかったわたしに、気にすることないと、そう言ってくれた。わたしは貴方が好きです。例え貴方の中に別の女性がいても構いません」
 ヴィンセントは健気なレイチェルの姿にナマエの言葉を思い出す。そして、この女性を愛せるよう努力しようと決めた。
 会場をきょろきょろと見渡すヴィンセントにレイチェルは言う。
「ナマエ様、いらっしゃらないですね。お会い出来るのを楽しみにしていたのですが...」
 レイチェルは残念そうにし、同じように辺りを伺う。全てのレディが惚れると言っても過言で無いヴィンセントが愛してやまない女性。ナマエに嫉妬の気持ちが芽生えることはなく、レイチェルにとって憧れの対象となっていた。
「招待状の返事も結局来なかったし、別邸はもぬけの殻。本邸でも追い返されたし、もう会いたくないってことなんだろう」
「ヴィンセント様...」
 切なく呟くヴィンセントの背をレイチェルは優しく撫でた。
 ナマエは挙式を楽しみにしているようにヴィンセントの瞳には映っていた。しかしどうやら思い込みだったようだ。
 ヴィンセントはレイチェルを連れ立食型式で行われている披露宴に訪れた人々と順に言葉を交わしていく。
 その日、ナマエを始めミョウジ家の者が来ることは無かった。

 二年前と同じ大雪の12月14日、ファントムハイヴ邸には二つの産声が響く。驚き茫然としたヴィンセントも、微笑むレイチェルを見ると笑顔になった。
「レイチェル、よく頑張ってくれたね」
「きっと、神様の贈り物です。ナマエ様が産んであげられなかった子供も一緒に産ませてくれたのです」
「!」
 身体が弱く出産に疲れきっているはずなのに、レイチェルはヴィンセントを気遣った。ヴィンセントはレイチェルを力強く抱き締める。
「レイチェル、もういいんだ。言わなくても伝わるものだとばかり思っていたけれど、俺はもうとっくに君のことを愛しているよ」
「...ヴィンセント様...!」
 鳴き声は三つになり、小さな二人の身体を恐る恐る両手に抱えるヴィンセントを笑うまで続いた。
 ヴィンセントは未だ誰よりもナマエを愛していた。しかし会えない存在を求めるのではなく、ナマエの言ったように傍で支えてくれる結婚した女性を愛そうとし、そして愛した。愛しい子供も産まれ、暖かな幸せに浸っていた。
 それを壊す悪魔は翌日ファントムハイヴ邸にやって来た。
「ヴィンセント様...!」
 ベビーベッドを覗いていたヴィンセントは田中の声に振り向いた。
「どうした?」
「...エドガー様が、いらっしゃいました...!」
「エドガー...!?」
 引き攣った田中の表情と言葉にヴィンセントは立ち上がると、レイチェルに視線をやる。
「少し行ってくるよ。......レイチェル?」
「あ...」
 レイチェルは咄嗟にヴィンセントの腕を掴んでいた。不思議そうに首を傾げるヴィンセントに何でもないと笑い送り出すと、掌を見つめる。何だかとても嫌な予感がしたのだ。わっ、とベビーベッドから鳴き声がして慌ててレイチェルは覗き込む。
「どうしたの、シエル。ごめんね、わたしが不安そうにしてたからかしら?大丈夫よ、きっと大丈夫」
 もう一人が起きないうちにと、レイチェルはシエルを抱き上げあやす。暖かな我が子を抱いても、不安は拭えなかった。
 ヴィンセントは一階の応接間へ田中と共に向かった。人払いをし、三人になった室内は重苦しい空気に包まれる。
 エドガーと会うのは三年半ぶりだろうか。記憶の中のナマエと同じように痩せ細り窶れていた。
「悪いな、急に」
「あ、いや...」
 見た目は変わっても、エドガーの中身は昔に戻っていた。学生の時の同室だった友人、元婚約者の兄になる前に。
「昨日子供が産まれたって聞いたよ。おめでとう。父さんたちからも祝いの品預かってきたから、さっき田中に渡しといた」
「気を遣わせたようだね。ありがとう」
「...」
 エドガーは瞳を閉じ暗い顔を俯かせ何か思案しているようで、ヴィンセントから話し出すことは憚られた。数分経ち、エドガーはぎゅっと手を握り、居住まいを正すと口を開いた。
「ナマエは死んだ。二年前の昨日のことだ」
「......は、?」
 驚愕し息を何度も詰まらせるヴィンセントを真っ直ぐ見つめながら、エドガーは続ける。
「本当は伝えないつもりだった。お前は奥方を迎えて幸せに暮らしていると思っていたから。でもナマエが死んだのと同じ日にお前の子供は産まれた。意味があると確信して伝えに来た」
「ちょっと、待ってくれ...。ナマエが死んだ?嘘だろ?」
「嘘だと思うか?招待してくれた式に、お前の幸せを願うナマエが行かないと思うか?」
「やめてくれ!」
 ヴィンセントは怒鳴っていた。握った拳は震え、瞳からはぼろぼろと大粒の涙がいくつも溢れる。
 もしかしたら、とヴィンセントは思うことがあった。招待状に返事がないのも、式に来ないのも、ミョウジに出向いても誰も会ってくれないのも、そういうことなんじゃないかと。信じたくなくて、絶対に違うとそう信じて、今日まで生きてきた。それなのにエドガーの口から真実を聞いて、ヴィンセントの受け入れたくない心とは裏腹に脳はそれを理解し涙を流させた。
「ヴィンセント、すまない。お前にも家族がある。もうあいつのことを忘れたいならそれでいい、俺は帰る。ただお前が全てを聞きたいなら俺は話すよ」
 ヴィンセントは田中に渡されたハンカチで、次々溢れる涙を拭く意味の無い動作を続ける。ハンカチはすぐに涙を吸わなくなるが涙は未だ止まらない。ヴィンセントは聞くことが怖かった。もしかしたらナマエは自分を恨んでいるのではないかと何度も思ったからだ。口では幸せになれと言っても、心の内ではヴィンセントを殺したい程に憎んでいたのではないかと。ナマエがそんな人間ではないと分かっていても、離れた時間と距離はヴィンセントを不安にさせた。
「聞く、よ。聞かせてくれ、エドガー。俺が愛したナマエの最期を」
 愛した人の、未だ愛してやまない人の最期も、何もかも全てを知りたいと元婚約者はその兄に哀願する。
「言っとくが相当きついぞ。それでも聞くか?」
「ああ、知りたいんだ」
 ヴィンセントは赤くなった真剣な瞳でエドガーを射抜いた。エドガーは深く息を吐き出すと、ヴィンセントの後ろに控える田中に視線をやる。
「......田中、もしこいつが自殺しようとしたらベッドに縛り付けて絶対にさせないようにしてくれよ」
「...かしこまりました」
 田中は自分が聞いてはならない話だろうと部屋を出る。エドガーは扉がしっかりと閉まったのを確認して、ソファに深く腰掛けると天井を見つめ話し始めた。
「お前の脚元にある死体の中に、ナマエも加わったんだ」
「!」
「お前がナマエと最後に会った日から、ナマエはお前の式に行くために必死だったらしい。食事は無理してでも腹に押し込んで、震える脚で歩いて体力を回復させようとした。吐いて、たくさん転んで痣を作ってそれでも頑張って。見た目はまだまだだったけど一ヶ月でどうにか一人で歩けるようになった。でもそれから、また体調が悪くなった。吐き気と微熱が続いて、ベットで過ごすようになった。式に行ってお前の晴れ姿を見たいのに身体が思うようにいかないって毎日泣いてたらしい」
 会えなかった間にナマエが自分のためにしていた努力を知り、ヴィンセントは胸がいっぱいになった。涙を拭う動作も忘れて、ヴィンセントはエドガーの言葉だけに集中する。
「12月13日。別邸の近くはここら辺より早くに雪が降って、眠る頃には足首が隠れるくらいまで積もってた。メイドが今夜は冷えるから風邪を引かないようにって毛布を首元まで掛けてやると、あなたもね、って笑ったらしい。明け方にはいなくなってて、近くの家の者たちに探してもらおうとしていた時、裏山の地主が、ナマエを抱えて訪ねてきた」
 エドガーは天井に向けていた顔を手で覆う。鼻をすする音がして、ヴィンセントは血が滲むほどに強く唇を噛み締め嗚咽を堪えた。
「雪に埋もれてたって、膝を抱えたまま固まるナマエを柔らかい毛布に包んでくれてた。湯の準備をしようとするメイドに、一緒に来てた医者がもう手遅れだって言ったらしい。守衛は本邸と俺の所へ連絡を入れて、その間最後にナマエの世話をしたメイドは静かに泣いてた。夜は笑ってたのに、どうしてって。俺は近くで仕事をしててすぐ駆け付けたけど、両親は雪のせいでなかなか来られなくて、着いたのは二日後だった。冷たくなってるだけなのに死んだと言われたナマエの身体に母さんは泣き縋って、父さんは俺に殴りかかった。お前のせいだって」
 エドガーはヴィンセントに瞳が潤んだ悲しい笑みを向けた。
「俺もそうだと思って、死のうとした。でも父さんはそれを許さなかった。死ぬことは逃げることだから許さない。お前はナマエの分も生きて苦しめって。本当に生きてることが苦痛で最高の罰だよ」
 エドガーは瞳を瞑り、深く息を吐いた。再び開かれた時、そこに涙は無く学生の頃の芯の通る強い意志を秘めた瞳をしていた。
「ヴィンセント、やめるか。それとも先を聞くか」
 エドガーの言葉にヴィンセントは眉を寄せる。ナマエの死の原因について触れられていなかった。その理由を知るエドガーはヴィンセントに知らない方がお前のためだと瞳で訴えてくる。しかしヴィンセントに引き下がる気はなかった。
「教えてくれ。お前のせいでナマエが死んだと言うなら、俺も同罪だ」
「俺が片棒担がせたようなもんだ。お前が罪だと感じる必要は無い。俺だけが背負うべき罪だ」
 エドガーの真剣な瞳に一瞬影が過ぎるがそれはすぐに消えた。
「膝を抱えたナマエは、赤いカーネーションを一輪持ってた」
「!」
「お前も見たことあるだろ?ナマエのベッドに下げられてたの。お前から貰ったカーネーション全部大切にとってたんだ。俺はナマエの遺体を見て、取り乱して暴れて医者に眠らされた。起きたら落ち着いてナマエを見ることが出来た。それで最初は気付けなかった事に気付いたんだ。カーネーションは二輪だった」
「え...」
 ヴィンセントは頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。堪らず頭を抱え嗚咽を漏らし、エドガーの震える声を聞いた。
「っ...お前と...、腹の中の、子供にっ...、会いたくて、堪らないって...」
「そ、んな...っ...」
「医者に確認したら妊娠三ヶ月くらいだろうって。腹は薄ら出てるけど、これならメイドも気付いてないって。きっと母さんは二輪ある花を見ればナマエが死んだ、本当の理由に気付くと思って一輪は雪に埋めた。棺の中でナマエは一輪のカーネーションを抱いてるよ」
 ヴィンセントはぐちゃぐちゃの頭の中で愛しい笑顔を思い出す。
 たった一度の行為でナマエはヴィンセントの子を身篭った。子が産めないからと嘆き別れを告げたはずなのに。結婚前に掟を破った貴族の娘が孕んだ。ミョウジの名に傷がつき父や兄に迷惑を掛けるスキャンダルが世に出回ってはならない。大きな絶望の中でナマエが一人悩み選んだのは死だった。
「ナマエ、お前の式には綺麗な姿で出席したいって言ってたんだ。最初に体調が悪くなった時もヴィンセントに見られたくないからって連絡させなかった。きっと、雪の中で死んだのも同じ理由だったんだよ。綺麗な姿で死にたいって」
 ヴィンセントの手が大きく震える。冷たい雪の中で一人孤独に凍えナマエの手もこうして震えたのだろうか。最期に何を思っただろう、俺の事を思い出してくれただろうか。それとも産めなかった子供に謝っただろうか。最期のその時まで、俺を愛してくれていただろうか。
「ナマエ...、ナマエ...っ」
「俺があの日、お前達の結婚に反対しなければこんなことにはならなかった。だからお前が罪の意識に囚われる必要はない。全部俺一人が悪いんだ。だからお前はナマエが願ったとおり幸せになってくれ。お前の幸せがナマエの幸せなんだ。そしてお前はナマエと別れて得た家族のために果たすべき責任がある」
 エドガーはヴィンセントを残して部屋を出て行った。ヴィンセントはどれだけ時間が経ってもそこから動くことが出来ない。涙は枯れず、流れ続ける。
 レイチェルは出産した直後に言った。ナマエが産めなかった子供を自分が産んだのだと。ヴィンセントはその言葉で自分もナマエも救われた気になっていたが違う。ナマエも子供も無責任に抱いて欲を放った自分が殺したのだ。俺もナマエも、レイチェルも子供も、誰も救われてなんかいない。残ったのは脚元に転がるナマエと子供の遺体、そしてナマエが願った幸せの先にある果たすべき責任。護らなければならない家族がいる。
 遠くで赤子の鳴き声が聞こえる。ヴィンセントは涙を拭い、深く深く息を吐き出した。
 振り返ることは許されない。これからも俺の脚元にはいくつもの屍が積み重なり山を築く。やがて俺も先祖達のように憎み恨まれ凄惨な死を迎えるのだろう。

 俺がヴィンセント・ファントムハイヴであるかぎり──



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