Corona.エピローグ
 さくさくと、真っ白な雪の上を薄いナイトドレス一枚の姿で進む。寒さはとっくに遠退いていた。産まれて初めてこんなに雪が積もったのを見たのに、未だ雪は降り続いている。悪い視界と脚元に何度もよろめきながら、ナマエはランプを掲げ先へと進む。館を出る時に服用した薬が効いてきて、僅かな眠気が襲ってくる。急がなければ。もう少し先まで行きたい。より深く雪が積もるところへ。
「ごめんね。ごめんなさい」
 撫でた腹は僅かに膨らみを帯びているが、ぴくりとも動かない。許されるのならば、大きくなった腹を撫でたかった。ぽこぽこと腹を蹴られる感覚を味わい、笑顔になりたかった。大それた幸せを望んだことは無い。人並みの幸せで良かった。ただ我儘を言うのであれば、女として産まれたからには、美しく育ち愛する人と結婚して子を成し添い遂げたかった。叶わぬ願いをナマエは雪の中に葬りに来たのだ。
 脚元がぐらつき、その場に倒れ込む。脚の感覚が急に無くなり、強い眠気に襲われた。ここまでのようだ。ナマエはランプの火を吹き消すと、雪を掻き分けてそこに身体を横たえる。膝を抱え少しでも腹の子が寒くないようにと、意味の無いことをした。二輪の赤いカーネーションを握りなおし重くなった瞼を閉じる。雪が強くなった。そう時間はかからず、身体は雪に飲み込まれるだろう。
「ヴィンセント様...」
 思い出すのは幸せだった時のこと。赤いカーネーションと共に手紙が届いて、嬉しくて舞い上がって。会える週末が楽しみで、でも兄しか姿がないとがっかりして怒られて。結婚の日取りが近付くにつれ緊張で胸が苦しくて、でもそれ以上に幸せで。その続きを思い出そうとしてナマエはやめた。
 今後のヴィンセントの幸せな人生を確かに願ってその背中を押した。本当は自分と幸せになって欲しかった。そしてこの子を産みたかった。
  ナマエは訪れるはずだった未来を想い描く。純白のウェディングドレスを着て皆に祝福されヴィンセントと式を挙げる春の日も、幾度もヴィンセントに愛してもらう夜も、とても愛しく幸せな日々に違いなかった。子供が出来たと伝えた時、掌を蹴られて驚いた時、産まれた我が子を抱き涙する時。ヴィンセントの見られなかった色々な顔を想像しては、本当にこんな顔をするんだろうなと確信してナマエは口元を緩めた。
 こんな未来を手に入れたかった。あなたに出逢い恋をして、わたしは幸せでした。
 ナマエの声は雪に吸い込まれる。それをどうにか遠い地まで届けようと風は強く吹いた。

「いつまでも愛しています、ヴィンセント様。
   産んであげられなくてごめんなさい、
   ───可愛いシエル」

 真っ暗だった瞼の裏が明るくなった。赤子を抱き微笑むヴィンセントが手を差し出し待っている。ナマエは笑顔を浮かべ羽のように軽い足取りで駆け寄った。永遠に醒めない夢の中で、ナマエは確かに幸せを手にした。

end.


Corona/カーネーション
赤いカーネーション
あなたに会いたくて堪らない


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